3.事件の概要
「そういえば新聞見ましたよ。『エレベーター内で女性二人が窒息死』」
りんごさんは机に置いてあった新聞紙を広げてそう言った。
その記事の続きには「その他男性一人軽傷。事件か事故か?」と書かれてある。
ぼくが気を失ったあとの話。
エレベーターで気を失ったぼくは、最終面接を受ける会社がある七階フロア前で、採用担当の男性社員に救助されて目を覚ました(ぼくが面接時間になっても来なかったので、様子を見に来たらしい)。その後、面接は中止となったうえにぼくは大事を取って病院に救急搬送された。医師いわく、幸いにも軽症で後遺症などもなかったのだが、一応安静にしろとのことだったので、一泊だけ入院したのだった。
「医師によると、ぼくは硫化水素中毒による呼吸困難で、気を失ったそうなんです」
「ええ。たしかに新聞の記事にも死亡した二人の女性の死因は硫化水素による窒息死と書いてありますね」
硫化水素。
硫黄と水素からなる無色の気体で、腐卵臭のような強い刺激臭があり、火山や温泉地帯などで発生する毒性の強いガス。量によっては即死するレベルで危険な代物で、ミステリーなどでも使用されるくらいには有名な毒ガス――と、りんごさんが説明してくれた。
「あなたの話からもわかりますけど硫化水素は空気より重い気体なので床のほうに溜まりやすい性質がある。だから一番最初に小柄な女性が気を失ったのでしょうね。そしてその女性を助けるために身を屈めた眼鏡の女性とあなたが次々に意識を失ったという寸法です」
そして彼女は、一拍間をおいてから続ける。
「ただしその場合ふたつの奇妙な謎が出てくるんですよね」
「……臭い、ですね」
ぼくは答えた。
「ご名答。あなたは事件が発生する直前に硫化水素の腐卵臭に気づいていた。それにも関わらず一般的に男性よりも臭いに敏感なはずの女性二名は一切腐卵臭に気づいていなかったんです。考えられるケースとしては高濃度の硫化水素は嗅覚麻痺を引きおこし無臭に感じることがある。だから彼女たちは臭いに気づかなかったし――命を落とした」
りんごさんは抑揚のない声で続ける。
「だけどここで矛盾が生じるんです。そんな高濃度の硫化水素であればどうしてあなたはその臭いに気づきかつ生きているんですか?」
そう。
それが一つ目の奇妙な謎。
「いくら硫化水素が重い気体ゆえにエレベーターの床下に溜まっていてかつあなたの身長が女性陣よりも幾許か高いからといって人命を落とすくらいの濃度であればその程度の身長差――多く見積もってもせいぜい二十センチ程度の差で生死が分かれることはありえません。それにあなただって眼鏡の女性と同じように屈んだ姿勢をとっていたというのにも関わらずです。それなのにあなただけ今こうして生きているという事実。これを謎と呼ばずして何を謎と言うんですか?」
りんごさんは紅茶を一口飲んだ。そして続ける。
「そして二つ目の奇妙な謎。これを見てください」
と、りんごさんは新聞記事を指さしながら言った。
「警察の調べによると事件が起こったエレベーターでは硫化水素が一切検知されなかったそうなんです。もちろん硫化水素以外の毒ガスも発生していないですしガス漏れ事故なんかもそのビルの周辺では一件もなかったようです。こんなことって有りえると思いますか?」
「本当に一切、ですか?」
「ええ。一分子もです。人が二人死ぬほどの濃度の硫化水素が駆けつけたときには影も形もなくなっていた。臭いに気づけぬほど満ちていたものがまるで最初から存在しなかったように消えている。現実には絶対に起こりえないことです――」
りんごさんの瞳が、愉しそうに光った。
高濃度の硫化水素の臭いにぼくだけが気づき、かつ生き残ることができたこと。
その硫化水素が、事件後に一分子も検出されなかったこと。
りんごさんの言う――二つの奇妙な謎。
「――現実に起こりえないことがあなたの周りで起こっている。ミステリー小説に出てくるような理路整然としたトリックなどではなく摩訶不思議な現象がね。だからあなたはよその探偵ではなくわたしのところへ来た。そうですね?」
「はい。……これは、りんごさんの専門分野だと思って」
「本当にあなたという方はいつもわたしに面白い事件を提供してくださいますね。あなたの『女難の相』にわたしはいくら感謝してもし足りないくらいですよ」
そう言って彼女は、紅茶を飲んだ後に「ああ。やっぱりいつもより美味しく感じますね」と、恍惚の表情を浮かべていた。
やっぱりこの人はとんでもない変態かもしれない……。
いや、変体だったか?
まあ、どちらにしても変わりはないけど。
「『女難の相』。本当にいいですね。悪女の呪いに見舞われるあなたは知らず知らずのうちにわたしの求めている人物を引き寄せてくれるのですから」
密室のエレベーターで起きた、硫化水素による窒息死。
被害者は女性二人が死亡、他男性一人が軽傷。
硫化水素の腐卵臭が気づけないくらいの高濃度であるにもかかわらず、ぼくだけが臭いに気づき、かつ軽傷で済んでいる。
しかもエレベーター内には硫化水素が一分子も検知されなかったときた。
「…………」
これはもう、完全にこの世の理から大きく矛盾している事件だ。
つまりこれは、『普通の人間』の仕業ではないとみて間違いないだろう。
「これは”魔女”が関係している事件かもしれないですね」
そう言うとりんごさんは唇を艶めかしげに舐めながら、不敵に微笑んだ。
その微笑こそ、まるで”魔女”のように悪い女のそれだった。




