15.魔女の心臓
≪魔法とは、言語と論理の暴力である≫
先ほど、りんごさんが読んでいた『術式概論』に記載されていた著者の言葉通り……なのかはわからないが、清掃員が右手を突き出して「呪文」を紡いだ――その瞬間だった。
りんごさんの両膝から下のすべての部分が――靴も、タイツも、スカートの裾すらも、跡形もなく消滅した。
彼女の足は、切り離されて吹っ飛んだわけでもなく、血飛沫が舞い上がるわけでもなく、はじめからこの世に存在していなかったかのように――風に吹かれた砂塵のように消えた。
「あ。……っ!」
突然両足が消えたことにより、バランスを失ったりんごさんは、勢いよく前方に倒れ込んだ。その際顔面を強く打った。
「……っ!? なにぃ!?」
ぼくは眼前で起こった凄まじい光景に、とてつもない衝撃を受けて驚きの声を上げた。
い……一体、どういうことだ?
清掃員は『物質の三態を変化させる』魔法以外にも、別のなんらかの魔法が使えたということなのか?
「……違いますよ」
と、ぼくの考えを否定するように、うつ伏せの状態になってしまったりんごさんが口をはさんだ。
彼女は両足を消滅させられたというのに、それでもなお正気を保っていた。しかし呼吸は荒く、支えがなくなったことが原因で、上体を起こすことができていなかった。しかも、彼女の端正な顔が倒れた衝撃でさらに爛れ、ほとんどゾンビのような状態になっていた。
つまりは全身ボロボロだった。
その姿だけで、彼女がどれほど「壊れて」しまったかが、嫌でも理解できてしまう。
普通なら、死んでいてもおかしくない状態だった。
しかしそんな状態になってもなお――それでもなんとか、彼女は日傘に寄りかかって上体を起こし、立ち膝のような姿勢を取った。
「これは先ほどの魔法と同じものです。彼は……わたしの両足を気体に変えたのです」
「な、何ですって?」
両足――人体を気体に変えただと?
そんな高レベルな芸当も可能なのか? 彼の『物質の三態を変化させる』魔法というものは?
……いや、彼は言っていた。
――俺の魔法は『死体を消せる』、と。
これは、そういう意味だったのか。
『魔法式』の発動条件は「使用者自身の体液を物質に混ぜること」だ。そして彼は、刃形にした鋭利な血を――彼女の足に突き刺していた。
こうなると、傘で上半身を防御していたのは不幸中の幸いだったと言えよう。
「ま、人体を消すとなると、それなりに魔力は消耗するし、なによりあんな長ったらしい呪文の詠唱をしなくちゃならねえから、戦闘中は隙だらけで、滅多に使えねえんだけどな」
そんな説明をしながら、清掃員はへたり込んでいるぼくたちの目の前に立った。
そんな重要な情報を漏らしていいのか、とぼくは一瞬だけ思ったが、それはつまり言い換えると、彼なりの勝利宣言と捉えるのが正しいのだろう。
「これでてめえは逃げられなくなったな。ま、足がなくなって達磨みてえになっちまったが、これはこれでいけるな。……あ、そうだ。精液でも『魔法式』が使えるのか、この際だから試してみるか」
「彼女に触るな!」
ぼくは清掃員に喰ってかかった――両手が塞がっていたので、蹴りによる一撃をお見舞いしようとした。しかし、ぼくの蹴りは虚しく空を切った。その隙を狙われ、ぼくは彼に鳩尾を痛打された。
「……っ!」
さらに清掃員は、怯んで前屈みになったぼくの側頭部に、華麗な回し蹴りを叩き込んだ。
ぼくは壁に激突し、その場に崩れ落ちた。
「…………」
意識こそ失わなかったが、立つことができない。
さらに彼は、りんごさんから反撃を喰らわないよう、まず彼女の日傘を蹴り飛ばした。日傘は無情にも後方に吹っ飛んでいった。日傘の支えがなくなった彼女は、ごろんと仰向けの姿勢で倒れた。
「終わりだな」
清掃員は、りんごさんの下腹部に体重を乗せて跨った。
「乱暴に跨るのは紳士の嗜みではないですね」
そう言うと彼女は、抵抗しようと腹筋を起こしながら右拳を繰り出した。しかしこれもあえなく受け止められてしまい、彼女の両腕は彼の脚で押さえつけられた。
「てめえ、さっきはよくも殴ってくれた……なっ!」
先ほどの日傘による一撃を恨んでいた彼は、お返しとばかりに彼女の顔を殴った。鈍い音が部屋中に響く。今の衝撃でさらに顔の爛れが悪化したかもしれない。
「…………」
しかし彼女は泣きも喚きもせず、ただじっと清掃員を睨んでいた。
なんでもない、というふうに。
「けっ! 反抗的な目ぇしやがって。だがな、いつまで強がっていられるかな? アケミの分もぶち込むから覚悟しとけよ」
かちゃかちゃと、ベルトを外そうとする清掃員。
「……口に近づけたら嚙み千切りますよ」
「うるせえ!」
今度は逆の頬を殴る清掃員。さらに彼は、床に落としていた包丁を拾い、彼女の眼前に突き出した。
「ベラベラとうるせえ奴だな。イライラするから喋んな! 次に喋ったら殺すぞ!」
「噛みますよ」
「……っ! てめえっ!」
彼女の挑発に、彼は完全に激昂した。自分でもうまく怒りの制御ができないようだ。
「殺す! 殺す! 絶対に殺す! この包丁をてめえの胸元に突き立ててやる!」
「や、やめろっ!」
ぼくが彼女を守らなければ!
ぼくは彼にそう叫んだが、脳震盪による前後不覚で身体は一歩も動かない。
くそっ、動け! 動け! ぼくの身体! ……ちくちょう!
清掃員は包丁を高々と振り上げて――
「うふふ」
と。
興奮している清掃員に対して、りんごさんは小さく笑った。その笑みは、死を前にした恐怖による失笑ではなく、あくまでも相手の愚かさに対する冷笑だった。
「……死ねっ!」
――思いきりその刃を、彼女の胸に突き立てた。
刃は、彼女の胸部のちょうど中心に突き刺さった。
「………………………………」
「……けっ、黙っていればよかったものを」
りんごさんの動きが完全に止まったことと、床に伸びているぼくを確認してから、彼は安堵の表情を浮かべ、一度腰を浮かした。それから腕時計で現在時刻を確認する。
「十二時三十分……まだ仕事まで三十分も残ってやがる。ずいぶん長いこと楽しめそうだなあ……」
気持ちの悪い笑みを浮かべる清掃員。
彼はベルトを完全に緩め、再度りんごさんに跨ろうとしたところで――
「やはりあなたは……本当にお馬鹿さんなのかもしれないですね」
突如、彼女の瞳がぎょろりと動き、油断していた彼を捉えた。
「……っ!? う、うああああああああああっ!!」
死んだはずの彼女が急に動き出したことにより、彼はショックで絶叫した。さらに体勢がよろめいて、間の抜けた姿勢になってしまう。
彼女は――その一瞬の隙を見逃さなかった。
仰向けの状態から、両膝を素早く胸元へ引き寄せて、後方に重心を傾ける。それと同時に両肘を曲げ、開いた手のひらを耳の横へ滑らせた。指先は肩のほうを向き、肘は天井へ突き出すような角度になる。
「――ふっ!」
そして後方に溜めた力の反動を利用し、両脚を浮かせた。振り上げた両脚に引っ張られるように反った腰も浮き上がる。それとほぼ同時に床を両手で強く押した。
彼女の身体はネックスプリングのように、滑らかな弧を描いて宙へ浮いた。
その勢いのまま、彼女は膝の付け根部分で――飛び蹴りのように、彼の無防備な股間を下から突き上げた。
「は……はうぅ……っ!」
彼は苦悶の表情を浮かべて、その場にへたり込んだ。……あの様子じゃ当分動けまい。
彼女は素早く日傘を拾い上げると、それを使って立て膝の姿勢に戻った。
「だからさっきから仰っていますよね? わたしは変態であり変体だと。それに酸素濃度を下げようが液体硫化水素を浴びようが平気な身体だとも。その忠告を無視して淑女に乱暴しようとするから罰が当たるのですよ」
そう言って彼女は、自身の胸に突き刺さっている包丁の柄を両手で掴んだ。
「まあ……おそらくあなたは死んだと思い込んでいたわたしの死体が急に動いたショックでまともに思考が働かなかったのでしょう。ですがそれでも。この部屋で最初にわたしたちを窒息させたときに最優先でわたしの『正体』を確認しなければならなかったんです」
そしてりんごさんは、少し気取るような口調で言った。
「それが――あなたの敗因です」
「……くっ。お前は一体何者なんだ?」
清掃員は反抗的な目を向けたが、まだ立ち上がることはできなそうだった。
彼女はそんな彼の質問に「そうですね。それじゃあ……お教えしましょうか」と、初めて口を割った。
「そのためにはこの胸に刺さった包丁を外したいのですが……くっ……刃が衣服に絡まって……ええい。もういいです」
包丁を抜くのに悪戦苦闘していた彼女は、ついに痺れを切らし、刃でボロボロになったドレスの上衣を――破り捨てるように脱ぎ捨てた。
「……ぶはっ!?」
脱ぎ捨てた布の下から、小ぶりの胸があらわになる。彼女の綺麗な丘陵に、視線が釘づけになった。だが、それよりも気になったのは、彼女に突き立てられた包丁のほうだった。
その突き刺さっていた包丁の刃を、彼女はさらに深く押し込んだ。
「なっ……。りんごさんっ!? 大丈夫です……か……」
しかし。
彼女の胸からは――一滴も血が流れていなかった。
ただの一滴も、だ。
と言うか、そもそもの話。
刃形の鋭利な血が足に刺さったときも、液体硫化水素を全身に浴びて顔が爛れたときも、馬乗りで殴られたときも、両足を消滅されられたときも――彼女からは、一滴も血が流れていなかった。
りんごさんは胸部の中心に深々と突き刺さった刃を、ぐりぐりと梃子の原理の要領で、裂け目の孔を徐々に大きくしていく。そのときですら、血は一滴も流れなかったが、代わりに彼女の胸部は、いびつな音を立てながら崩れて落ちていった。
そして崩れた胸の奥から――『真っ赤な心臓』が現れた。
「それは……」
清掃員は目を見開いた。
「その心臓は……まさかっ!?」
彼女の心臓を見た清掃員は、急に動揺し、腰が抜けたように後ずさる。
「ええ。これは『魔女の心臓』です」
崩れた胸の奥で、真っ赤に染まった心臓が大きく脈を打ち続けていた。
「わたしは”魔女”の手によって作られた自律人形です。わたしは――わたし自身を作った”魔女”を探しています」




