14.絶体絶命
全身に液体硫化水素を浴びたりんごさんは、無言のまま崩れ落ちた。
「りんごさんっ!」
ぼくは倒れた彼女のもとに駆け寄った。彼女の白い肌が、浴びた箇所から凍傷のように爛れ、ぐずぐずと崩れていた。
液体化した硫化水素は瞬く間に固体化しており、先ほどのような塊へと戻っていた。おそらく、硫化水素を固体へ即座に戻したのは、そのままにしておくと、液体化した硫化水素が蒸発し、清掃員自らが窒息死してしまうからだろう。さすがに魔法の扱いには手慣れているようだった。
「ぎゃはは! ざまあみろっ! 調子に乗ってるからだバカ女!」
清掃員が、勝ち誇って叫んだ。
「俺を警察に引き渡すだと? 寝言は寝て言えってんだ、この売女がっ!」
「くっ……」
清掃員は、さらに饒舌に語り出す。
「液体にすりゃ、氷点下の冷たさで肌が焼けるんだよ。気体にして散布して、すぐ液体に変えてぶっかける。頭いいだろ俺は。何の魔法も使えねえ下等生物が、俺に逆らってんじゃねえぞ!」
ぼくは彼の言葉を無視しつつ、倒れたりんごさんを抱き起こそうとした。
「……?」
しかし、その手が止まった。
あれ……?
彼女の身体、何か違和感が……。
そんなふうに思案にくれるぼくの背後から、清掃員の声が追撃する。
「……それにしても、その女の綺麗な顔を見てると無性にイライラするぜ。アケミにも振られてご無沙汰だったからな。……よし決めたぜ。てめえを殺してから、その死体をめちゃくちゃにしてやる。そのあと、ゆっくりその死体を消してやるよ。ぎゃはは!」
「…………」
彼女に対する違和感は、今は置いておこう。
それよりも今は、この現状を打開することが先決だ。
ぼくは立ち上がり、彼女に持たされていた例の大きな鞄を両手で拾った。
ずっしりと、かなりの重量がある鞄。彼女が合図したときに使えと言われたが、今はそんなことを言っている場合ではないだろう。
ぼくは半身の姿勢になり、身体の後ろ側に鞄を構えた。
野球の打者のように振るか、ハンマー投げのように放るか。相手の出方を見つつ、両対応できるように――いつでも、彼の身体にぶつけられるように集中する。
「ああ? 何だてめえ? もしかして抵抗しようってのか?」
彼は余裕のある表情で、こちらを見ていた。
「どうせお前も魔法が使えない雑魚なんだろう? 安心しろ。てめえもその女のついでにぶっ殺してやるよ。……だが楽に逝けると思うな。俺はお前みたいな顔のいい男が、めちゃくちゃ嫌いなんだよ。それにアケミの件もあるしなぁ」
そう言いながら、清掃員は一歩間合いを詰めた。
「早くこの女をいたぶりたいところだが、まずはお前をいたぶるほうが先だ」
「……くっ」
清掃員がさらに一歩間合いを詰めようとした――その瞬間を狙い、ぼくは鞄を全力でフルスイングした。しかし。
「おっと」
彼は鞄を素手で受け止めて、鞄ごとぼくを押し返した。
「うわっ! ……いてて」
押された衝撃で、ぼくは床に突っ伏した。しかも倒れた拍子に肘を擦りむいてしまい、血が少しだけ滴っていた。
「おいおい。力なら俺に勝てると思ったのか? お前みたいなヒョロガリに、元スポーツマンの俺が負けるわけねえだろ!」
「くそっ……」
「おらっ! 歯ぁ喰いしばれ! 立てなくなるまでボコボコにしてやるよ!」
「それはいけません」
と。
清掃員が拳を振り上げたところで、聞き馴染みのある声が耳に届いた。
「なにっ!?」
清掃員は声のしたほうを振り向く――よりも早く、声の主であるりんごさんは日傘を振り上げていた。そして今度は、それを彼の胴体に鋭く叩き込んだ。
「会心の一打です」
「ぐっ……!」
どかっ、と壁に激突する清掃員。
「ち……くしょう……」
そしてそのまま、彼は壁を背に、ずるずるとへたり込んだ。
「ふう」
一息ついたあと、彼女はこちらを向いた。
「門間さん。ナイスアシストです」
ですが――と、彼女はぼくの返事を待たずに続ける。
「あまり無茶はなさらないでください。依頼人に怪我をされたら元も子もないですから」
「はい……ごめんなさい」
「それに。その鞄はそういう用途ではありません。それはわたしが合図するまで大事に持っていてください。いずれ使うときがくると思いますから」
「……わかりました。ただそれよりも……りんごさん、どうして……」
ぼくは、彼女に対する疑問を口にした。
りんごさんは平然とした表情で立っていた。液体硫化水素を全身に浴び、顔の皮膚が爛れているにもかかわらず、何ともなさそうに微笑していた。
床に倒れ伏していたときは、どう見ても無事には見えなかったが……。どうして彼女は、平気な顔で起き上がれたのだろう。
彼女にはまだ、ぼくの知らない『別の顔』が、あるということなのだろうか……?
「……くそが」
わずかに意識が残っていた清掃員は、吐き捨てるように呟いた。
その様子を見る限り、しばらく立ち上がることができないようだった。
「てめえはなんで……何で硫化水素を吸って……浴びて……無事でいられるんだよ!?」
清掃員もぼくと同じ疑問を抱いたのか、そんな質問を彼女に投げかけた。
「あなた……もしかしてお馬鹿さんなのですか? その質問はすでに一回聞きましたよ? 先ほどだって酸素濃度の低い密閉空間で生き延びていたんです。その時点で疑問を解消しないのは愚の骨頂なのではないかしらん?」
「う、うるせえ! だ、だっておかしいだろうがっ! 液体硫化水素をあんな大量に浴びたのに……死なないまでも、無事でいられるわけがねえだろうがっ! どうなってんだ、お前の身体は!?」
「だから言ったじゃないですか。わたしは変態であり変体だと。いや……まだあなたには言ってませんでしたっけ?」
軽く舌を出して、とぼけてみせるりんごさん。
先ほどまでとは、完全に形勢が逆転していた。
「うーん。それにしても」
と彼女は、ぼくの擦りむいた肘に鼻を近づけた。
「ああ。やっぱり血の匂いはいいですね。この匂いとともに今すぐアッサムティーを極めたいものです」
……やっぱりこの人、ただの変態なのでは? ぼくはそう強く思った。
「ああ……それより門間さん。これを持っていてくださいませんか?」
りんごさんは、塊状と化した固体硫化水素が入った瓶を、こちらにぽいっと放り投げた。どうやら清掃員を倒したあと、固体硫化水素を別の瓶に入れ、こっそり懐に忍ばせていたらしい。
「うわっ!」
ぼくはそれを危うく落としかけたが、なんとかキャッチすることに成功した。キャッチした衝撃で暴発するかもしれないと恐れたが、そんなことは起こらなかった。
「しっかり持っていてください。手を放しちゃ駄目ですよ」
「は、はい。わかりました」
りんごさんにそう言われてしまえば、従うほかないだろう。ぼくは右手に固体硫化水素、左手に鞄を握りしめた。
「さてと」
りんごさんは、清掃員に向き直った。
「あなたに魔法を教えた”魔女”について聞きたいことがあります。話してくれるなら五体満足のまま警察に引き渡しますよ」
「…………」
彼女の質問に、彼は沈黙した。
その表情は、恐怖の色を帯びていた。
「し、知らねえ……。俺は何も知らねえ……」
しどろもどろになる清掃員。先ほどまでの威勢は完全に消え失せており、指先や唇が微かに震えていた。
「あなたは自在に魔法を使えている。つまり一度は”魔女”と接触したことがあるということです。あなたの血に”魔女”の血が混ざっているのは匂いでわかりますから」
「知らない……俺は知らない……言えない……俺は何も言ってない……」
うわごとのように繰り返す清掃員。その震えは段々と増していた。その挙動不審から察するに、もしかすると彼は、”魔女”の情報を漏らすという『罪』がばれて、”魔女”本人から『罰』を受けることを怖れているのかもしれない。
しかしりんごさんは、そんなことなどお構いなしに続ける。
「あなたに魔法を教えた”魔女”は誰ですか? 見た目の特徴。扱う言語や口調。使用する魔法の能力。住処……どんな些細なことでも構いません。教えていただけるのであればこれ以上傷つけることはいたしません。そのまま警察にお引き渡しすることを約束いたします」
「……本当に、無事なまま保護してくれるのか?」
清掃員は観念したのか、懇願するような目で訊いた。
「ええ。刑部警部であれば事情はある程度察してくれるでしょうしね」
「…………わかった」
長い逡巡のあと、彼は諦めたように言った。ぜえぜえと、むしろ息は荒くなっている。乱れた呼吸を整えながら、慎重に呟く。
「俺に魔法を教えた”魔女”は――」
しかしそこから、二の句が告がれることはなかった。
「……そんなもん、教えるわけがねえだろうがあああああっ!」
そう叫ぶ彼の目には、まだ微かに反逆の意思が残っていた。
彼は咆哮と同時に立ち上がり、一瞬の隙を突かれたりんごさんめがけて、ラグビー選手のようにタックルを仕掛けた。彼女の鳩尾に彼の肩がクリーンヒットする。
「……うっ!」
男女の体重差で、りんごさんは為す術なく吹き飛ばされ、背中から壁に激突した。
「がはっ……!」
清掃員と壁に挟まれる形となり、ふらふらとするりんごさん。その目は虚ろになっており、完全にグロッキー状態となっていた。
「りんごさんっ!」
「ぐぬぬ……」
ぼくの呼びかけにまったく反応しない。どうやら彼女の意識は飛びかけており、こちらの声が聞こえていないようだった。
その隙に清掃員は立ち上がり、右手をりんごさんの足――彼の固体化した鋭利な血が突き刺さっている足に、勢いよく突き出した。
「やめろ……っ!」
ぼくの叫びは、間に合わなかった。
「けほらけほら、つちのなかみゃ、かうなかみ、えざるうにゃら――」
清掃員は謎の言語を発した。
だけど、それがなんの言葉なのか、ぼくは直感的に理解した――それは魔法を唱えるときの『呪文』のように聞こえた。
「――けほら!」
清掃員が呪文を唱え終えた瞬間。
りんごさんの両足は跡形もなく――消滅した。




