13.犯行動機
「……おらぁ!」
清掃員はワインドアップの構えから――一気に流れるような投球動作で、右腕を振り下ろした。手に溜まっていた自身の血液もろとも。
彼はよほど力を込めて投げたのか、投球後に少しだけバランスを崩し、左斜め前につんのめった。
「……なっ!」
飛来する血――だった固形物。
その数は、もはや数えることすらできないほどの物量だった。
おそらく、彼は包丁で切った自分の血を液体のまま投げ、血が散弾銃のようにばらけて放たれた瞬間、魔法で血を固体に変化させたのだ。その飛礫と化した血が、こちらに向かって飛んできた――鋭利な刃物のような形をしながら。
硫化水素を固体化したときもそうだったが、彼の魔法は物質を固体化するとき、ある程度の精度で形作ることができるようだ。それは大雑把な塊だったり、見つかりにくい粉末状だったり――人を傷つける鋭利な刃形だったり。
「ふっ」
りんごさんは日傘を開き、血の飛礫から、己自身と後ろにいるぼくを防御した。しかし足元まで防御することはできず、彼女の膝下に、飛礫が何個か突き刺さった。
傘を開いたときなのか、飛礫を喰らった衝撃なのかはわからないが、彼女は手にしていた瓶を床に落とした。瓶は床をころころと転がり、やがて壁に当たって止まった。
「りんごさんっ!」
「わたしは平気です。それより門間さんは大丈夫ですか?」
「はい。りんごさんが壁になってくれたお陰で……」
おそらく、固体化した血は『魔法』の産物なので、ぼくに当たったところで、傷一つつかないとは思うけど。
「そう。それはよかった……」
そう安堵したあと、りんごさんは足の状態を確認するように、何度か足の爪先で床をとんとんと叩いた。その余裕のある表情から見て、ひとまず問題はないだろう。
「ぎゃはは!」
清掃員は怪我を負った彼女を見てか、下卑た笑いを漏らした。
その厭らしく醜悪で殺意のこもった笑みに、不覚にもぼくは慄いてしまい、あやうく血の気を失いそうになった。彼には明確な殺意があった。エレベーターにいた彼女たちも、この殺意によって殺されたのだと、ぼくは確信した。
「てめえ。俺の殺意に、今にも血の気を失いそうな、情けない顔をしてんな? でもよ。血の気っつーか血を失ってるのは、俺のほうだっつーの……ぎゃはは!」
独特な笑いの清掃員。彼はその間、何度も固体化した血の飛礫を投げていた。りんごさんは傘で防御するだけで精一杯という具合で、明らかに防戦一方だった。
「それに……明確な殺意?」
清掃員は一度手を止めて、こちらを物凄い形相で睨んだ。
「あるに決まってんだろうが! あんな……カス女っ! 本当は直接この手で殺してやりたかったぜ! 畜生がっ……!」
そう叫ぶと、清掃員は堰を切ったように喋りだした。
「あいつが……あの売女が全部悪いんだ! あの、浮気野郎がな!」
彼はぼくを睨みながら叫ぶ。
「どうせアケミの野郎は、お前にも色目を使ったんだろう? あいつはそういう奴だからな」
「…………」
アケミというのは小柄で派手な香水をつけていた、綺麗な女性のほうだろう。たしかに彼女は、エレベーター内でぼくに言い寄ってきている。あれは彼女の気まぐれではなく、日常的におこなっていた所業なのだろう。そんな彼女の振る舞いに彼の堪忍袋の緒が切れた、といったところだろう。
「だけど眼鏡の女性と門間さんまで殺すことなかったんじゃありませんか?」
「うるせえ!」
清掃員はりんごさんに向かって血の飛礫を投げた。顔と上半身は傘で防御しているので無傷だったが、投げるたびに飛礫が足に突き刺さっていく。すでに彼女の足はハリネズミのような有様だった。
「お前ら女はいつもそうだ! ちょっと美人でちやほやされるからって、調子に乗って自分の都合ばっかり押しつけやがって! あの二人、浮気のことを詰めてきた俺に向かって、何て返してきたと思う? 『他の男に現を抜かされる、魅力のないあんたが悪い』って言い訳してきたんだぞ! だから俺は仕方なく折れて『他の男と別れてくれたら、今までのことは全部水に流す』って言ったら、あの眼鏡の女が意地の悪い顔で『清掃員で甲斐性のないあんたを選ぶわけないでしょ』って言ってきやがったんだ!」
彼は再度、血の飛礫を投げる。しかし怒りで制球が定まらないのか、その飛礫はりんごさんには当たらず、あらぬ方向に飛んでいった。
「だから殺したんだ。二人ともな」
「門間さんも巻き込んだのは?」
「俺は最初、こいつがアケミの浮気相手に見えたんだ。整った中性的な顔立ちが似てて、そう見えちまったんだ。そしたら思わずカッとなっちまった」
「そ、そんな……」
ぼくは愕然とする。いくら『女難の相』による不幸体質が影響しているからといって、そんなうっかりミスが原因で命を狙われたことに、深い絶望とある種の諦念が募っていた。
「まあでも、どの道アケミに近づく男は全員殺そうと思ってたけどな」
「やめておいたほうがいいですよ。今回は警察にばれませんでしたが……そんなことを続けていればいつか必ず証拠が残りますから」
りんごさんの説得に清掃員は「証拠が残る?」と、不敵に笑った。
「証拠は残んねえよ、絶対にな」
「それはどうやって?」
「俺の魔法は『死体を消せる』と言ったら……どうする?」
「……?」
死体を消せる?
「……はっ!」
彼の発言を理解できないでいるぼくよりも先に――りんごさんは何かに気づいたように、自身の足元を見た。
「まさかっ!?」
「もう遅え! 後ろを見やがれ!」
ぼくとりんごさんは、言われて振り向く。
そこには床に転がった瓶があった。瓶の蓋は閉めていたのだが、血の飛礫が当たったことにより瓶が割れ、中から固形の硫化水素がこぼれていた。どうやら、先ほどあらぬ方向に飛んでいったと思われた飛礫は、彼が制球を乱したのではなく、最初から瓶に当てるためのものだったらしい。
「ふんっ!」
清掃員は血に塗れた右手を前方――硫化水素に向けながら、そんな掛け声を発した。すると、その固体硫化水素は、いきなり「ぼふっ」と音を立てて消えた。
いや、消えたのではない。固体から気体へ『相』を変えたのだ。
あの硫化水素は、すでに『魔法式』が組み込まれている。だから常温でも固体の状態を保っていられるのだ。つまり言い換えると、清掃員が十メートル以内にいれば、あの硫化水素の『相』は、いつでも変化させられるということだ。
「くっ」
ぼくは反射的に口を塞いだ。『魔法不干渉』で意味がないと理解しつつも、咄嗟に防衛反応で動いてしまう。
対称的にりんごさんは、その一瞬の隙を突き――清掃員に向かって距離を詰めた。
それを見た彼は、床に散らばっていた大判の薄い雑誌を手に取り、それを「ぶおん」と音が鳴るくらい大きく扇ぐ。部屋の埃が舞うのが見えた。そしてその直後、清掃員も口を塞いで彼女に対峙する。
「……?」
……彼は一体、何をしているんだ?
そんな中、さらに彼女は間合いを詰める。日傘はすでに閉じられており、そのまま彼の胴体めがけてスイングをする直前だった。
「喰らいなさ――」
しかし。
「上に気をつけなくていいのかよ?」
と彼は勝ち誇った表情で、彼女に忠告した。
「――い」
なにかに気づいたりんごさんは上方を見上げた。
その視線を追うようにぼくも続く。
するとそこには、気体に戻って埃と一緒に舞い上がった硫化水素が――いつの間にか液体へと変化していた。
消えたように見えた硫化水素が、再びぼくとりんごさんの眼前に。
傘は――清掃員に一撃を入れるために振り上げてしまっている。
今さら開くことはできない。
「……あ」
りんごさんが呆気に取られたのも束の間、液体化して質量を得た硫化水素の雫は、重力に従うようにそのまま床へと落ちてくる。
その真下に、りんごさんがいることなど関係がないかのように。
「……っ!」
――硫化水素の雨が、りんごさんの全身に降り注いだ。




