12.犯人の魔法
一体、どれだけの時間が過ぎたのかわからない――が。
目を開けると、ぼくは休憩室の床に倒れていた。
傍らには、横座りの姿勢のりんごさん。
その視線の向こうには――清掃員を捉えていた。
「すーっ、はーっ……」
慎重に呼吸をする。
「息が……苦しくない……」
すでに部屋の中は、自由に呼吸ができる空間に戻っていた。また、床に散らばっていたバケツの血は完全に消失しており、今わの際に見かけた淡い青色の結晶のような塊もなくなっていた。……見間違いだったのだろうか?
ぼくが起き上がったのを見て清掃員はたじろいだ。彼はぼくたちを見下ろし、ぽかんと口を開けていた。
「な……なんで生きてんだ。お前ら……」
清掃員の声は震えていた。死体になっているはずの二人が目を開けて起き上がっている。その光景に、彼は明らかに混乱していた。
「な、なんでっ! なんでお前ら二人とも生きてんだよ!?」
繰り返し怒声を発する彼のことなど意にも介さないりんごさんは、ゆっくりと立ち上がり悠然とドレスの埃を払っていた。
「ごきげんよう。さて本日の死体は――どちらかしら?」
お決まりの決め台詞を、皮肉めいた口調で言うりんごさん。
死体はどこにもない。ぼくも彼女も、息絶えることなく生き残っていた。
「だまれ! 俺の質問に答えろ! 一体どうやって、この呼吸ができない部屋で生き延びやがったんだ!」
たしかに清掃員の言う通りだった。
ぼくとりんごさんは、呼吸のできない密閉空間に、少なくとも五分以上いたにもかかわらず、こうして二人とも生存していたのだった。
正直ぼくもまだ、そのからくりがわからないでいた。
「ふむ」
しかしりんごさんは、彼の質問には答えようとせず、つかつかとロッカー(四つある内、血の入ったバケツが上に乗ってあったもの)に歩み寄った。ロッカーを開けようとしたが、扉にはダイヤル式の南京錠がかかっていた。すると彼女は手にしていた日傘で――錠を思いきりぶっ叩いた!
何度も。無言で。無表情で。
がん、がん、がん、がん、がん、がん、がん、がん、がん、がん、がん、がん、がん、がん、がん、がん、がん、がん、がん、がん、がん、がん、がん、がん、がん、がん――
「…………」
そんな狂気の沙汰を、まざまざと見せつけられたぼくと清掃員は、ただ唖然としながら傍観することしかできなかった。
場の空気は、完全にりんごさんが制していた。
彼女がロッカーの錠を数十回ほど叩くと、錠が壊れ落ちて扉が開いた。その中から、『灰緑色の塊』が入った瓶を取り出した。
りんごさんはその瓶を手にし、蓋を開け、中の塊のにおいを嗅ぎ、愉悦の表情を浮かべていた。
「なるほどなるほど。これが例の……」
ぶつぶつと呟くりんごさんは、その瓶を清掃員へと突きつけた。
「この塊が――あなたの魔法の正体ですね」
「りんごさん。それは一体なんですか? ぼくには、なにかの鉱石のようにしか見えませんが……」
上体を起こしつつ、瓶に入った塊の正体を訊ねた。
ぼくの質問に、彼女がこちらを振り向いた。
りんごさんと顔を見合わせたとき、ふと、彼女の艶やかな唇が視界に入った。ぼくは先ほどの彼女との記憶が思い起こされ、自分でもわかるぐらい頬が紅潮した。唇にはまだその感触と紅茶の味が残っており、ぼくは彼女とまともに目を合わせることができなかった。
なぜだろう。胸がすごく張り裂けそうなくらいドキドキする。
しかし、そんなぼくの懊悩とはうらはらに、当のりんごさんはというと、口づけのことなど意にも介さないような、平然とした態度で質問に答えた。
「この塊は先日の筐体内にばら撒かれた凶器――硫化水素です」
瓶を振りながら、りんごさんは言った。
「硫化水素!? その塊がですか!?」
ぼくは驚愕しつつ、彼女に訊き返した。
「ええ。この塊は『常温で固まった硫化水素』です。これは自然界ではありえない状態です。一般的に硫化水素が固体でいられる温度は氷点下八十五度より低い温度です。そしてこの部屋はどう見てもそんな温度ではありません。つまりこの硫化水素は彼の魔法によって自然の法則を無視し固体として保っている状態なのです」
りんごさんの演説に対し、清掃員は何も言わなかった。しかし、眉根を顰めた険しい表情を見る限り、その説は的を射ていたらしかった。
彼の無言を肯定と受け取ったりんごさんは続ける。
「そしてあなたの魔法の能力ですが――それは『物質の三態を自由に変化させる』。それがあなたの能力です」
「……物質の三態?」
ええと、たしか……固体、液体、気体のやつだっけ? 中学校の理科の授業で習ったような気がする。
「ご名答」
りんごさんは微笑した。
「本来。物質の『相』というのは温度や圧力に応じて変化する――例えば水を冷やせば氷になるし熱すれば水蒸気になりますよね? しかし彼の魔法はそういった『条件』をすべて無視して物質の『相』を自由に変化させることができるようです」
「そんなことが……」
「清掃員はその能力を使ってあらかじめ塊――のままだと目立つので粉末状か何かの形にしておいた硫化水素を筐体のどこかに仕掛けていた。そして標的が乗ったタイミングで固体から気体に変化させた。さらに標的を仕留めたあと硫化水素を再び固体に戻して回収した……といった寸法で彼女たちを殺害したのです」
つまり、エレベーター事件の真相はこうだ。
ぼくと彼女たちが、一階で左側エレベーターに乗り込んだ直後、右側エレベーターに乗っていた清掃員は、壁越しに『魔法式』が組み込まれた硫化水素を固体から気体に変化させ、右側エレベーターで自身も七階にあがった。そして全員を気絶させた頃合いを見計らい、左側エレベーターが七階に辿りつく直前、気体の硫化水素を固体に戻し、清掃員自身も七階まで上がる。七階到着後、清掃員は速やかに右側エレベーターから側エレベーターに移り、遺体の確認と固体化した硫化水素を回収し、誰にも見られていないことを確認してから、その場をあとにした。
「ちなみに空気中にばら撒かれた硫化水素って、すべて回収できるものなんですか?」
「可能ですよ。『魔法式』を組み込んだ物質はそれ自体が魔法みたいなものですから。一度気体にして空気中にばら撒いた物質を再度取りこぼしなくすべて固体化することなど造作もないです」
りんごさんは、手にしていた瓶の中の塊を見ながら言う。
「この硫化水素だって固体化しているとはいえ非常に危険な代物ですからね。本来だったらこんなふうに瓶に入れて保管するなんて危なくてできないですから」
「まあ、それは確かに……」
理に適っているのかどうかはわからなかったが、つまりはそういうことらしい。そもそも魔法を前にして、理も糞もないということはぼく自身体験済みのことなので、それらについてはあまり深く考えないことにした。
ぼくはそれよりも、知りたいことがある。
「じゃあ、この部屋の床に散らばっていた、あの青い宝石みたいな物質は何だったんですか?」
ぼくが気を失う直前に見た、あの青い宝石のような塊。
結晶の形が、瓶に入っている固体硫化水素に似ていた気がする。つまりあれも、魔法で姿を変えた何かということになる。
「ああ。あれは固体化した酸素です」
「酸素!?」
「固体酸素は宝石のような淡い青色をしているんです。おそらく清掃員は魔法が効かない門間さんのことを憶えていたんでしょうね」
「ぼくのことを?」
「はい。だから窒息させる方法を変えたんです」
「方法?」
「魔法化した毒ガス自体を吸わせても『魔法不干渉』である門間さんには影響がない。ですから清掃員は空気中の酸素を固体化させて酸素濃度を下げたのです。それなら窒息の直接の原因が魔法とは何の関係もなくなりますから」
「あ」
だから清掃員は、自分の血を入れたバケツを室内にばら撒いたのか。それを『魔法式』で空気中の酸素と融合し固体化させた、ということだろう。
「さてと」
ひと通り真相を話し終えたりんごさんは、再び清掃員に視線を向けた。
「依頼人からのご要望によりあなたを警察に引き渡します。おとなしくお縄になっていただけますか?」
「……ふざけんなよ」
清掃員の声が、低く沈んだ。
彼は入口付近に設置されている冷蔵庫から包丁を取り出した。そして、なんの躊躇いもなく自分の掌を、すうっと切った。
血が滲む。
傷口から溢れる血が、どんどん手の中に溜まっていく。
「……門間さん。わたしの後ろに隠れていてください」
りんごさんは日傘を構えて、清掃員に対峙する。
「抵抗するなら――ここからは知力ではなく武力でいきます」
「やれるもんならやってみやがれ、この売女がっ!」
怒声をあげた彼は、血で満たされた右手を、投手のワインドアップのように――大きく振りかぶった。




