11.現場検証②
「…………」
半開きの扉の隙間から部屋の中を覗いた。
休憩室は六畳ほどの広さだった。部屋の左手前には横になれる大きさのソファとローテーブル、左奥には長机の上に少し古い型のテレビと電気ポッド、右奥にはロッカーが四つ、そして床には乱雑に積まれた大量の本が置かれていた。家具や物が散乱しているためか、実際の間取りよりも狭く感じた。
「誰もいないですね」
無人の室内を見て、ぼくはそう言った。しかし。
「いえ。あれを見てください」
と、りんごさんは机の上の湯呑を指差した。
「まだ湯気が出ている湯呑みがあるということは先ほどまで誰かがここにいた可能性が高いですね。なんならこれはわたしたちを誘い出すための『罠』かもしれません」
「罠!?」
当然、魔法絡みの罠ということだろう。
「だとしても問題ありません」
りんごさんはあっさり言った。
「向こうがわたしたちを誘い込みたいのならこちらはわざと誘い込まれてあげればいい。中で何が起こるのか――魔法の物的証拠が見られるのですから」
「で、でもそれって……すぐにでも敵が襲ってくるかも、ってことですよね?」
「むしろ好都合です。向こうから来てくれるなら手間が省けますから」
ぞっとするぼくとは対照的に彼女は平然としていた。相変わらずこの人には、恐怖というものがないらしい。
「だったら、こっちも何か対抗策を練らないと……」
「策ならありますよ」
「え、そうなんですか?」
「はい」
自信ありげに微笑するりんごさん。
「名づけて『青の紅玉』作戦です」
「…………」
不安だ。すごく。
あるいは、先ほど彼女が事務所の別室でしていた「準備」に、何か関係があるのだろうか?
「すんすん……」
そんなことを考えているぼくを差し置いて、彼女はすでに休憩室の中に這入っていた。そして部屋のいたるところを隈なく調べているのか、しきりににおいを嗅いでいた。
「うっ……。この部屋少し臭いですね。換気扇がないから生活臭がこもっています」
臭いに敏感なりんごさんは、男所帯特有のこもった空気に眉を顰めた。
食べかけのカップ麺、大量の煙草の吸殻、洗っていないタオル、床に投げ捨てられたグラビア雑誌。たしかにこの部屋は、花園探偵事務所のようないい匂いがする空間とは正反対の、悍ましい臭気を発する部屋だった。
「たしかに、すごい臭いですね」
「なんだか眩暈がしてきました……」
部屋の臭いで彼女はすでにグロッキー状態になっていた。……こんなんで、本当に魔法使い相手に渡り合えるのだろうか、と少しだけ先行きが不安になった。
「……ん?」
ほどなくして、ぼくは床に置いてあったある一冊に目を留めた。古い装丁の本だった。題名は『術式概論』と題されている。
「これは……魔法に関する本ですね」
ぼくはその本をりんごさんに渡すと、彼女は飛ばし読みでページを繰った。ぼくも横から覗いてみたが、ぼくにはプログラミングの専門書と区別がつかなかった。謎の言語と記号、そして図ばかりだ。
「≪『魔法式』は、術者自身の体液……主に血を触媒として対象へ固定される。血の付着した部位こそが、術の発動の起点となり、操りうる質量は、用いた血の量に比例する。ゆえに術者は、己の血を媒体とすることを基本とせよ≫……ふむ。これは『魔法式』の実用書のようですね」
「じゃあやっぱり、あの清掃員は魔法使いということですね」
「決まりですね。これ以上の物的証拠はありません」
そう言うりんごさんの指が、ある頁で止まった。
「≪魔法とは言語と論理の暴力である。よって扱う者には、それ相応の知性と覚悟が求められる≫。……随分と大それたことを書く人もいるんですね。必要以上に思想を押しつける著者はあまり好ましくありません」
りんごさんがそんなふうに呟いていた――そのときだった。
扉の向こうで、床を踏む音が一度だけ聞こえた。
ぼくは振り返ったが、そこには誰もいなかった。
「……今、なにか足音が」
「ええ」
りんごさんは本から顔を上げずに言う。
「こちらを見ている気配が一つあります。先ほどから衣服に付いた煙草の臭いが部屋の外から流れていましたから。どうやら相手はわたしたちの動きを観察していたようですね。そしてその正体を見極め終わり――敵と認識し攻撃に転じてきた」
次の瞬間。
いきなり半開きの扉が「バンッ」と、勢いよく閉じられた。
「……っ!」
突然のことに一瞬身体が固まってしまったが、ぼくはすぐさま我に返り、手にしていた鞄を放ってドアノブに飛びついた。しかし、外側から押さえつけられているからなのか、ノブを回しても押しても扉は微動だにしなかった。
「……駄目だ、閉じ込められました!」
「やはり罠でしたか。予想どおりでしたね」
「予想どおり!? わかってたなら言ってくださいよ!」
「事前に言っていたらこの部屋に這入っていましたか?」
「這入りませんよ!」
言い合っていると、突然ロッカーの上にあった何かが落ちてきた。それは何かの液体が入った掃除用バケツだった。どうやら扉を勢いよく閉めた拍子に落ちてしまったらしい。
「……なんだ? これは水……なのか?」
「あらまあ。この匂いは血ですね」
床に撒き散った血を見たにもかかわらず、あっけらかんとした口調のりんごさん。
「血って……なんでこんなものがバケツの中に」
「大丈夫。落ち着いてください。焦っては相手の思う壺です」
りんごさんは毅然とした態度で、慌てているぼくを宥めた。
「おそらくこれから犯人の攻撃がくることが予想されます。ですが絶対に焦ってはいけません。あなたの身に何か異常が起こったとしても絶対に慌てたりパニックにならないでください。わたしより身体の大きい殿方を腕力だけで押さえつける自信はありませんから――これは命令です」
そう言うと、りんごさんはぼくに歩み寄り、優しくぼくの身体を抱き寄せた……って、抱き寄せた!?
「……っ!?」
りんごさんは、ぼくにぴったりと身を寄せている。
突然のことに、ぼくの全身が強張った。
『女難の相』という特殊極まる体質により、数々の女性関係の不幸に見舞われ続けたぼくの身体は、エレベーター内で女性陣に囲まれたときや、水を操る女性に抱きつかれたときもそうだったが、女性が近くにいるだけで反射的に身構えたり、緊張とストレスで冷や汗が出てくるのである。
しかし。
りんごさんに抱きつかれても、ぼくの心身は不思議と穏やかだった。
なぜだろう……すごく安心する。
「わたしを信じてください。依頼者を守るのも探偵の仕事ですから」
彼女は優しく微笑みながら、顔をぼくの胸元に沈めた。
その数秒後。不意に、ぼくの意識は朦朧としはじめた。
「あ……」
この感覚に、ぼくは覚えがあった。
段々と視界が暗くなり、足元がおぼつかなくなるこの感覚を。
これは先日エレベーターで、不覚にも意識を失ったときの感覚に似ていた。
呼吸困難に陥ったときと近い感覚……。
しかし、以前とは明確に異なる箇所があった――それは臭いだ。意識を失う前に嗅いだ、あの腐った卵のような臭いが一切していないのに、なぜかぼくの意識は事切れる寸前だった。
そもそもあのとき、ぼくが呼吸困難に陥った原因は『過剰なストレスによる心因性のもの』だったはずだ。しかし今のぼくは、強いストレスなどは感じていない。それなのにもかかわらず、エレベーターで倒れた彼女たちの生死を確認するために屈んだときよりも、早く気を失いそうになっていた。
これは……硫化水素の濃度が上がっている? ……いや違う。どれだけ濃度を上げようが、魔法絡みの物質はぼくの『魔法不干渉』には効かない。それなのになぜ……。
思案するぼくの視界の端に、床に撒き散らされた血が映った。
「…………」
あれ……さっきより……血の量が減ってないか?
しかも、その代わりなのかはわからないが……なにやら淡い青色の結晶のような塊が、床に散乱しているし……。
――『青の紅玉』?
それは、例のガチョウの胃袋の中に入れられていた、青い宝石を連想させた。
だがしかし。
それに気づいたところで――もう遅い。
「くっ……」
意識が……途切れる……。
万が一生き残ったとしても、敵陣のど真ん中で気を失うということは、イコール「死」と同義だろう。それに……ぼくでさえ意識が途切れそうなのに、ぼくよりも身長が低いりんごさんはすでに一溜りもないはず……。
「りんごさん……」
ぼくは彼女を見下ろした。
すると、彼女は澄んだ瞳でぼくの顔を見上げていた。その顔は生気に満ちており、呼吸が苦しそうな気配は微塵もなかった。
彼女は人差し指を自分の唇に当て、「しーっ」と言った。
「……?」
しーっ?
どういう意味だろう?
何か異常が起こったとしても絶対に慌てるな、とりんごさんは言っていた。敵の攻撃はすでに始まっていて、慌てるどころか今にも気を失いそうになっているぼくだったが、そんなぼくが慌てふためくような事態が、果たしてこれから起こり得るのだろうか?
そんなことを考えていたぼくの意識は、ついに限界を迎えた。瞼が落ち、意識が飛びそうになり、膝から崩れ落――
「――ちゅっ」
と。
りんごさんは、倒れかけたぼくの口に――自身の唇を重ねた。
それを認識した直後、ぼくの視界は暗転した。




