新しい世界へ⋯⋯
アパートから事務所へと向かう車の中は、いつもと変わらない賑やかなラジオの音が流れていた。
後部座席に座る私の手は、やっぱり少しだけ透けていて、光の粒がかすかにキラキラと揺れている。
「⋯⋯刹那さん。泣き止みました?」
「な、泣いてないっすよ!自分、目がドライアイなだけなんで!」
運転席の刹那さんは、バックミラー越しに真っ赤な目を擦りながら、わざとらしい大声を出した。
助手席のルーク社長が
「ふふっ」
と優しく微笑む。
「美鈴ちゃん。アパートのお掃除、本当に素晴らしい仕事だったよ。健太くんもお母さんも、きっとこれで前を向いて歩いていける」
「ルーク社長⋯⋯ありがとうございます。私、気づいたんです。引越のお仕事って、ただ運ぶだけじゃなくて⋯⋯遺された人の想いと、旅立つ人の想いを結び直すことだったんですね!」
自分が過労死したと知った時、ショックがなかったと言えば嘘になる。
毎日終電まで働き詰めで、自分の限界にも気づけないまま、誰にも看取られずにひっそりと途切れてしまった私の人生。
⋯⋯でも、不思議と後悔や怨みはなかった。
最後にこんな温かい会社に出会えて、刹那さんとバカみたいに笑い合って、ルーク社長に優しく守られて。
誰かの『最後のお引っ越し』を手伝うことで、私自身も、少しずつ掃除されていたんだと思う。
「美鈴さん」
刹那さんが信号待ちで車を止め、振り返った。
その目はやっぱりうるうるしていて、今にもまた涙が溢れそうだった。
「自分⋯⋯美鈴さんが来てくれて、本当に嬉しかったんすよぉ。お茶淹れるのも上手いし⋯⋯何より、美鈴がいてくれて、ホッとしたんす」
「ねえ、刹那。信号青。」
刹那さんの言葉をルーク社長が冷たく遮る。
「いつでも会えるんだから。新しい世界へいくだけだろ。」
ルーク社長はそう言って私の手を握る。
「だから⋯⋯向こうの世界はまた新しい人生の始まりなんだよ?」
「はい! 胸を張って、頑張ります」
車がゆっくりと停車する。
1階のカフェのドアを開けると、美味しそうな香りが部屋いっぱいに広がっていた。
「おかえりなさい! 美鈴っち!社長!刹那ちゃん!」
カウンターの奥から、明ち子が飛びっきりの笑顔で出迎えてくれた。
「パングラタン焼きたてだよ!」
「わ!美味しそうな匂いだぁ〜!」
ルーク社長はニコニコと笑って、私を見る。
「これ食べてからにしよう!」
「はい!」
「熱いから気をつけてね、美鈴っち!」
明子さんがテーブルに運んできてくれたグラタン皿からは、ホワイトソースの甘い香りと香ばしく焦げたチーズの匂いが立ち上っていた。
「いただきまーす!」
スプーンを入れると、トロトロのソースとサクサクのパンが絡み合う。一口、口に運ぶと、じんわりとした温もりが体中に広がっていった。
「美味しい!明子さん!すごく美味しいです!」
「良かったぁ! 美鈴っちが『お引っ越し』するって社長から聞いてさ。これ食べたら、新しい世界でも絶対元気にやっていけるよ!」
「自分にも!自分にもパングラタンください⋯⋯っ大盛りで!!」
鼻をグスグス鳴らしながらパングラタンを頬張る刹那さんを見て、みんなで顔を見合わせて笑い合った。
こんなに穏やかで、温かい時間。
過労死する前の私には、想像もできなかった未来だ。
お腹も心もすっかり満たされた頃、ルーク社長が優しく立ち上がった。
「さて⋯⋯そろそろ行こうか、美鈴ちゃん」
「はい!」
私は着ていた上着を整え、ゆっくりと立ち上がった。
足元から胸のあたりまで、光の粒がキラキラと包み込み、私の体はもう半分以上透けている。でも、不思議と怖さはまったくなかった。
カフェの奥の重厚な木製のドアの前に立ち、ルーク社長がポケットから1本の鍵を取り出す。
「この扉の向こうが、君の新しいスタート地点だよ。向こうの受付には、君の到着を待っている人がたくさんいるから」
「美鈴さんっ⋯⋯!」
刹那さんがボロボロと涙をこぼしながら、胸ポケットから何かを取り出して私の手に握らせてくれた。
「これ⋯⋯自分が作った『迷子にならないお守り』です! 向こうでも、美鈴さんらしく笑顔で頑張ってくださいね!」
「⋯⋯刹那!お前⋯⋯いつでも会えるだろうが⋯⋯」
ルーク社長は冷たく刹那さんに言い放つ。
「そりゃそうですけどぉ〜同じ場所にはいないのでぇ⋯⋯」
刹那さんはしょんぼり下を向いている。
その時、明子さんがぎゅっと抱きしめてくれた。
「美鈴っち、行ってらっしゃい! 応援してるからね!また食べきてよ!ここはすぐ来れる場所だからね!」
「明子さん!ありがとう!」
ルーク社長がカチャリと音を立ててドアを開ける。
そこからは、見たこともないような眩しく、温かい光が溢れ出していた。
「さあ、美鈴ちゃん。新しい世界での第一歩だ」
ルーク社長に背中を優しく押され、私はみんなを振り向いて、心からの笑顔で深くお辞儀をした。
「刹那さん!明子さん!⋯⋯本当にお世話になりました! 私、行ってきます!」
扉に一歩、足を踏み入れた。




