アパートの最終お掃除②
「⋯⋯刹那。もういい。」
ルーク社長が、低く、静かな声で名前を呼んだ。
「ひゃいっ!?」
刹那さんの背筋がピンと伸びる。
「邪魔しないの。もう、そういう段階じゃないでしょ。それに、そろそろ時間だよ⋯⋯」
ルーク社長の言葉に、刹那さんはぐっと言葉を詰まらせた。
口を横一文字に結び、苦しそうに目を伏せると、ゆっくりと健太くんの前から脇へ退いた。
「ルーク社長⋯⋯? 健太くんが言ったこと、すごく引っかかっちゃって⋯⋯どういう意味ですか⋯⋯?」
私の声が、小さく震える。
さっき健太くんが言った言葉が、頭の中で何度も何度もリフレインしていた。
『なんでお姉ちゃんは僕を触れるの?』
『あ、そっか! お姉ちゃんも!「普通じゃない」のかぁ〜』
そう、私は健太くんの頭を、ごく普通に撫でた。
幽霊をぶん殴ったこともあった⋯⋯
もともと幼い頃から人に見えないものが「見えちゃう」体質だったみたいで、この会社に入ってからも『また私の見えちゃう体質』としか思っていなかった。
胸の奥が、冷たく凍りついていくような感覚がした。
息がうまく吸えない。
ルーク社長は、私から目を逸らさなかった。
いつもの可愛らしい表情のまま、けれどその瞳には、深く、溢れるような愛おしさと切なさが満ちていた。
ルーク社長は私との距離をひとつ詰めると、私の胸元――さっき透明に戻したばかりのネックレスにそっと触れた。
「美鈴ちゃん。このネックレス何のためのものかわかる?」
「え? それは⋯⋯幽霊が幽霊に見えるって、刹那さんが⋯⋯」
確か、私は幽霊も幽霊じゃないものも同じ見えてるから危険だからってもらった⋯⋯
「これはね、君が『自分は生きている』と思い込むための、小さなおまじないなんだ。この世界に留まるためのアンカー。でもね、君がこの世の真実に近づくたび、そして君の心が『向こう』へ帰ろうとするたびに、黒く濁ってしまうんだよ」
「自分は⋯⋯生きている、思い込む⋯⋯?」
理解が追いつかない。
どういう⋯⋯こと?
「私は⋯⋯生き⋯⋯え? だって、私、ここで普通に生活してて⋯⋯カフェのパングラタンだって⋯⋯食べて⋯⋯」
「明ちゃんのカフェの料理はね、この世の法則が通用しない場所で作られているんだよ。だから君も、美味しく食べられたんだ」
ルーク社長の声はどこまでも優しく、私の心にすーっと染み込んでいく。
「美鈴ちゃん。君はね⋯⋯あの日、刹那に会った日に、この世界での寿命を終えているんだよ」
え?
パチン、と頭の中で何かが弾けた。
あのブラック企業で毎日終電まで働いて、体は鉛のように重くて。
雨の中、意識が遠のきそうになりながら歩いていた道。
そこで出会ったのが、スーツを着た刹那さんだった?
私⋯⋯あの時、倒れて⋯⋯?
「私⋯⋯?あれ?」
私の震える姿を見て、刹那さんがついに顔を上げて、ボロボロと涙をこぼしながら頭を下げた。
「美鈴さん⋯⋯すんません、美鈴さん⋯⋯!あの時⋯⋯ 顔色真っ白でボロボロの体で倒れて⋯⋯もう、息してなかったんすよ⋯⋯! なのに、起きたら普通に『やだぁ、遅刻しちゃう!』って笑うから⋯⋯自分⋯⋯何も言えなくて⋯⋯っ! そのまましばらくって思ってしまったんです。
幽霊に触らせなかったのも、乗り移られるからじゃなくて⋯⋯幽霊同士で直接触れ合ったら、自分が死んでるって気づいちゃうので⋯⋯!」
刹那さんの叫ぶような泣き声が、廊下に響く。
「え?⋯⋯じゃあ、なんで⋯⋯」
涙がボロボロと溢れ出して止まらない。
「なんで私を⋯⋯『引越し屋』なんかにスカウトしたんですか⋯⋯?」
ルーク社長が、私の冷たくなった両手を優しく包み込んだ。
「過労で命を落としたあの日、君は自分が死んだことにも気づかないくらい一生懸命で、誰よりも優しい魂だった。あんなにきれいな魂は見たことなくて⋯⋯
本来ならそのまま向こうへ連れて行くはずだったんだけどね⋯⋯
君のその温かい心を見て、僕はある重大な役にスカウトしたくなったんだよ」
ルーク社長は私をじっと見つめ、温かく微笑んだ。
「【死後の世界の受付嬢】として。刹那から送られた魂はね、未練があったり、死を受け入れられなくて不安でいっぱいの魂とか⋯⋯そういう普通ではないものなんだ。
普通なものはほかの場所へ行くんだけどね?
そういう普通ではない魂たちを温かく時に厳しく出迎えて、次の場所へ送り出せるのは、君みたいな人しかいないって思ってさ。
でも、いきなり言っても受け入れられないでしょう? だからこの会社で色んな霊の引越しを手伝いながら、君自身が自分の死を自然に受け入れるための⋯⋯準備期間を作っていたんだよ。ごめんね?すぐに言わなくて⋯⋯」
「⋯⋯」
「僕が君を迎えに来たんだ、美鈴ちゃん。ごめんね。」
ルーク社長の手の温もりを感じながら、私は涙で霞む視界の中で、自分の手を見た。
薄く、ほんの少しだけ透け始めている自分の手を。




