【第9話】《教授》の一般常識講座~恋人とは~
「デリケートな内容だ、二人きりで話す」
そう言って、《教授》先輩は、僕を食堂から連れ出した。
誰もいない、ギルドの作戦室。
大規模な任務がある時は、ここで会議をすることもあるらしい。
長机と椅子が並び、板書するための、白い大きなボードがある。
静かな空間の中で、《教授》先輩はゆっくりと息を吐き、僕をちらりと見た。
「……まずは、座れ」
「はい」
言われた通りに僕が座ると、《教授》先輩は向かいに腰を下ろした。
「話の前に、確認だが」
《教授》先輩は、いつものように銀縁眼鏡を押し上げる。
「《断罪》と恋人関係になった、というのは、事実か?」
「はい」
「……では、《毒蛇》と……」
《教授》先輩が一瞬言い淀む。
「……口づけした、というのも、事実か?」
「はい」
「だが、特別な関係ではないと?」
「特別な関係って、なんですか?」
僕が口を開くたびに、《教授》先輩の眉間の皺が深くなる。
「君は……『恋人』という言葉の意味を、理解しているか?」
「?」
首を傾げると、《教授》先輩は考え込むように眉をひそめた。
「いや、聞き方が悪いか……君は、どのようないきさつで《断罪》と恋人関係になった?」
僕は、昨夜のことを思い返す。
「任務の後に、『お前が好きだ、恋人として付き合ってくれ』って言われました」
「……それで、君はなんと答えた?」
「わかりました、って」
「……なぜ、そう答えた?」
「断る理由がなかったので」
「……そうか」
《教授》先輩は、一度目を閉じた。
まるで、何かを飲み込むように。
そうして、また口を開く。
「では……《毒蛇》と口づけした時、何を思った?」
……何を思った?
「どうしてするのか、不思議でしたけど」
「……そうではない。嫌だとか、嬉しいとかいう感情だ」
嫌だとか、嬉しいとか……?
「どちらも特に感じませんでしたけど」
「……」
《教授》先輩は、僕の答えを聞くと、小さく溜息をついた。
「……理解した。いや、理解したくはないが、問題は把握した」
銀灰色の瞳が、僕をまっすぐに見る。
「君は『合意』をしただけだ。『感情』を伴っていない」
その言葉は、まるで僕に言い聞かせるように、ゆっくりと告げられた。
「誰が相手だったとしても、『断る理由がない』限り、君は同じように受け入れるのではないか?」
……?
「それの、何が問題なんでしょうか?」
断る理由がないのに。
「……」
《教授》先輩は、何かを言いかけて――やめた。
「……ならば、『一般的な恋人』の定義だけは伝えておこう」
すっと立ち上がり、白いボードの前まで歩いていく。
備え付けのペンを取ると、《教授》先輩はボードに手早く文字を書き始めた。
『①特定の相手を選ぶ』
『②その相手を優先する意思』
『③相互の感情(好意)』
「この三つが成立して、初めて『恋人関係』と呼ばれる」
僕は、その文字をまじまじと見る。
「……選ぶ、ですか?」
「そうだ……《断罪》は、君だから選んだのだろう」
《教授》先輩は静かにそう言った。正直、よくわからない。
「優先する意思っていうのは?」
「他者よりも、その相手を優先しようとすることだ」
「優先って、任務よりもですか?」
「……それは前提がずれている」
《教授》先輩は、脱力したように、かぶりを振った。
「他の人間よりも、その相手を『喜ばせたい』、『一緒にいたい』という感情のことだ」
「……感情」
《教授》先輩は頷く。
「そうだ。特に身体的接触には、双方の合意が必要だ」
「身体的接触って……」
「それは――」
「性欲処理のことですよね?」
「……は?」
空気が止まった。
《教授》先輩が、ぴたりと手を止める。
「……今、何と言った?」
「性欲処理です。施設で少し聞きました」
「……」
「大人の男の人と女の人がすることだって。男同士でもできるんですね」
《教授》先輩が、ずれた眼鏡をゆっくりと戻す。
「……君は、どんな施設にいたんだ」
僕は首を傾げる。
「普通の孤児院ですけど。家族は皆、死んだので」
《教授》先輩は、すぐには何も言わなかった。
「……そうか」
ぽつりと、言葉が落ちる。
次の瞬間――
扉が、バァン!と大きく開け放たれた。
同時に《断罪》先輩が、勢いよく飛び込んでくる。
「すまねえ!!お前に『不埒だ!!』なんて言っちまった!!」
《断罪》先輩はずんずん歩いてくると、僕の肩をがしっと掴んだ。なぜか涙ぐんでいる。
「お前は悪くねぇ!知らなかっただけだ!悪いのは純粋なお前を弄んだ《毒蛇》の野郎だ!!」
「弄んだなんて、人聞きが悪いな」
「……ほとんど事実だろうが」
後ろから、《毒蛇》先輩がひょいと顔を出した。
さらに後ろには、仏頂面の《狂刃》先輩もいる。
《教授》先輩が、呆れたように溜息をついた。
「……お前たち、いつからそこにいた」
「最初からだ!!」
「ふふ、隠密能力ゼロの《断罪》のカバーは大変でしたよ」
「うるさい黙れ!!」
《断罪》先輩は《毒蛇》先輩を睨んでから、僕に向き直った。
「いいんだ、これから知っていけばいい!俺が教えてやる!!」
僕がぽかんとしている間に、《断罪》先輩は高らかに宣言した。
「まずはお互いを知ることからだ!!デートするぞ!!」
「デートですか?」
「そうだ!一緒に遊んだり、うまいものを食べに行くんだ!!」
《断罪》先輩は、にかっと笑う。
そこへ、穏やかな声が、すっと入ってきた。
「なら、僕も一緒に行こうかな」
「はあ!?なんでだよ!!」
《毒蛇》先輩が、僕を見て微笑む。
「『恋人とは何か』が知りたいなら、教えてあげられるよ?僕はそういうの専門だから」
「そうなんですか?」
「おい、やめとけ。絶対ろくなことにならねぇぞ」
《狂刃》先輩が舌打ちして、僕と《毒蛇》先輩の間に立つ。
《毒蛇》先輩は、ふっと笑った。
「そんなに心配なら、君も来たら?」
「……は?」
「おい!勝手に決めるな!!」
わめく《断罪》先輩。
……どうしたらいいんだろう。
答えを求めて《教授》先輩を見上げる。
でも、《教授》先輩は言い合う《断罪》先輩たちを見て、遠い目をしていた。
そして、ぽつりと呟く。
「……これは、私がどうこうできる問題ではない」
《教授》先輩は、深く息を吐いた。
その視線が、僕に向けられる。
「だが一つだけ言える」
静かな声だった。
「そのままでは、いずれ誰かが壊れる」
一拍、間を置いて。
「……おそらくは、君以外の誰かがな」
……僕には、その意味がよくわからなかった。




