【第6話】《天然》と《毒蛇》~色仕掛けと毒蛇のキス~
その日、食堂には、妙に落ち着かない雰囲気が漂っていた。
特に女性店員たちはそわそわした様子で、何度もギルドの入口を伺っている。
中には「早く、お会いしたい……」と呟いている人もいた。
……なんだろう。有名人でも来るのかな?
――その時。
「光」そのものみたいな男の人が、ギルドに入ってきた。
さらさらの金髪がギルドの照明を受けてきらめく。
澄んだ青い瞳は優しげに細められ、形の良い唇には、柔和な笑みが浮かんでいた。
すらりとした長身に、指先まで美しい、洗練された身のこなし。
まるで物語の王子様が、そのまま抜け出してきたみたいだった。
ワイルドウルフさんに何事か話しかけた後、「王子様」は食堂に向かって歩いてくる。
食堂の女性店員たちは揃って目を奪われ、立ち尽くしていた。
「《毒蛇》さま……今日も素敵……」
「《毒蛇》……?」
それ……この人のコードネーム?
思わず呟くと、「王子様」は僕に目を留めて、微笑んだ。
「そうだよ。ひどいコードネームだと思わない?」
その笑顔は、初めて会うのに驚くほど自然で、優しくて――
どこから見ても、非の打ちどころがなかった。
食堂に、女性店員たちの溜息が落ちる。
その時、厨房から、ユリアさんの声が響いた。
「あんたたち、見とれてないでさっさと仕事に戻りな!」
ユリアさんは《毒蛇》先輩に恨めしげな視線を送り、溜息をついた。
「まったく、あんたが来ると仕事にならないよ。さっさと食って帰りな」
「ふふ、ひどいな」
女性店員たちが慌てて散り散りになる。
注文を聞こうとした僕が口を開く前に、《毒蛇》先輩が穏やかに話しかけてきた。
「君、なんだか面倒な能力持ちみたいだね」
この前の騒動の事を言っているのだろうか。僕にもよくわかってないんだけど。
とっさに返事ができずに《毒蛇》先輩の瞳を覗き込む。
青い瞳に、一瞬だけ別の光が宿った気がした。
「そんなものに頼らなくても――もっと綺麗に殺せる方法、教えてあげようか?」
「え、そんな方法あるんですか?」
思わぬ提案に、目を丸くする。
僕の反応を楽しむように、《毒蛇》先輩はくすりと笑った。
「うん、ちょうどいい任務があるんだ。一緒においでよ」
「でも僕、Eランクですし、勝手なことは……」
任務の話なら、僕の一存では決められない。
すると、《毒蛇》先輩はそんな僕を安心させるかのように、ちらりとカウンターを見た。
「大丈夫。見学だと思えばいい。ワイルドウルフさんには僕から話をつけておくよ」
「本当ですか?それなら見てみたいです」
――綺麗に殺せる方法。
僕が頷くと、《毒蛇》先輩は目を細めた。
「ふふ、楽しい旅になりそうだ」
「……旅、ですか?」
「うん、今回の標的は王都の外にいるんだ。だから、馬車の旅……と言っても、半日程度だけどね」
――こうして僕は《毒蛇》先輩の任務へついていくことになった。
※※※
寮暮らしの僕は、《毒蛇》先輩とギルドの入り口で待ち合わせることになった。
「お前、余計なことはするなよ。あくまで見学だ」
ワイルドウルフさんが、荷物を持って立つ僕に、いつものいかつい顔で告げる。
「はい、『綺麗に殺せる方法』勉強してきますね」
「……まあ、《毒蛇》にも釘を刺しておいたが、何しろあいつだからな」
白髪交じりの髪を撫で付け、考え込むワイルドウルフさん。
そのとき――
「ひどいな、僕は優しい先輩ですよ?」
扉が開く音とともに、本当に優しげな声がそう告げた。
「あ、おはようございます《毒蛇》先輩」
挨拶すると、先輩はあの王子様みたいな笑顔で、にっこりと笑う。
なぜか周りの空気が、一瞬だけ華やいだ気がした。
「おはよう。今日はよろしくね」
ワイルドウルフさんが溜息をつく。
「お前、ちゃんとそいつ見てろよ」
「もちろん、ちゃんと守りますよ」
と、そのとき。
「……おい」
低い声で話しかけられ、振り返る。
「あ、《狂刃》先輩。おはようございます」
《狂刃》先輩は、簡単な旅支度をしている僕と《毒蛇》先輩を交互に見て、眉をひそめた。
「……何してんだ、お前ら」
「これから《毒蛇》先輩の任務に連れて行ってもらうんです」
僕が答えると、その顔がなぜか険しくなる。
「……どんな任務だ」
その声は、《毒蛇》先輩に向けられていた。
でも、《毒蛇》先輩は動じない。にこりと笑う。
「任務の内容なんて、秘密に決まってるよね?」
《狂刃》先輩は舌打ちすると、苦々しげな顔で僕を見た。
「馬鹿が……」
その呟きの意味は、僕にはわからなかった。
ただ、《毒蛇》先輩だけが、楽しそうに微笑んでいた。
王都の外に出る任務は初めてだった。
「移動魔術で一瞬――なんていけばいいけど、これも暗殺の醍醐味だよね」
馬車乗り場に向かいながら、《毒蛇》先輩が冗談めかして言う。
この国では、魔術師は免許制。
中でも攻撃魔術と移動魔術は「軍事魔術」として、厳しく管理されている。
遠出といえば、馬車を使うのが普通だ。
馬車乗り場に着いた瞬間、周囲の空気がざわめいた。
「……ねえ、あの人」
「すごく綺麗……」
「貴族?」
「馬鹿ね、貴族はこんなところに来ないでしょ」
女性たちの視線が、全部《毒蛇》先輩に集まっている。
《毒蛇》先輩は慣れた様子で軽く微笑んでみせた。
それだけで、数人の女性が硬直して荷物を取り落とす。
……すごい。
「本当に王子様みたいですね」
「王子様?」
《毒蛇》先輩は一瞬目を丸くし、それから小さく吹き出した。
「ふふ、男の子にそんな風に言われるのは初めてだよ」
乗り合い馬車が到着する。
「じゃあ、『王子様』らしくしてみようか?――ほら、お手をどうぞ」
「え?ありがとうございます」
一人で乗れるけど……せっかく親切に言ってくれているし。
僕はその手を取った。細く長い指先が、そっと絡まる。
その瞬間、なぜか周囲が小さくざわめいた。
《毒蛇》先輩は、僕の手を引いたまま馬車のステップに足をかける。
そして、そのまま奥の座席に座った。
……あれ?
乗ったのに、手が離れない。
「……あの、もう乗れましたよ?」
そう言うと、《毒蛇》先輩は一瞬きょとんとした顔をして、それから小さく笑った。
「ふふ……そうだね」
ようやく手が離れる。
でも、その青い瞳は、どこか面白そうに僕を見ていた。
ガタガタと揺れる乗り合い馬車の座席で、僕は過ぎ去ってゆく街道の景色を眺めていた。
すると、隣に座る《毒蛇》先輩が、ふと話しかけてくる。
「ずっと外を見てるけど、そんなに珍しい?」
「はい、王都の外にはほとんど出たことがないので」
物心ついた時からずっと王都の施設で暮らしていたから。
「へえ?まあ、ランクが上がれば、自然と遠出するようになると思うよ」
「《毒蛇》先輩は、何ランクなんですか?」
何気なく尋ねると、先輩はさらりと言った。
「僕?Aランクだよ」
「そうなんですか?僕、ついていって足手まといになりませんか?」
「……君、今さらそれ言う?」
《毒蛇》先輩は意外そうに呟く。
「一緒に任務に行った《幽影》《教授》《狂刃》……もしかして、全員ランク知らない?」
そう聞かれて、初めてその事実に思い当たる。
「そういえば、聞いていませんでした」
「ははっ……ほんとに面白いね、君」
先輩は揺れる座席の上で、肩を震わせて笑った。
「じゃあ教えてあげる。《幽影》さんは伝説枠のSランク。《教授》さんと《狂刃》はAランクだよ」
……そんなすごい人たちと、一緒に任務に行けたんだ。
僕は初めて知って、小さく息を吐いた。
それに、今回は《毒蛇》先輩と一緒だ。
「ありがとうございます、《毒蛇》先輩。僕、頑張って勉強しますね」
「……ほんと、いちいち可愛い反応するね」
先輩は笑いながら、僕を観察するように目を細めた。
乗り合い馬車が、終点に到着する。
看板には「マルシア」と記されていた。
王都に出入りする商人の多くが拠点にしている都市だと、習ったことがある。
「さて、まずは事前準備から始めようか」
《毒蛇》先輩は馬車から降りると、近くの宿へ向かった。
一息ついてから、穏やかに切り出す。
「今回はね、潜入任務なんだ」
「潜入ですか?」
「そう。標的は貴族。僕たちは、『商品』として潜り込む」
「……商品?」
どんな商品だろう。
続きを待っていると、《毒蛇》先輩は笑みを浮かべたまま、僕をじっと見つめた。
まるで、何かを確かめるみたいに。
「一緒にお酒を飲んで、会話して、貴族に『楽しみ』を与えるための商品。意味わかる?」
試すような問いかけ。でも、僕にはよくわからなかった。
「酒場の店員さんみたいなものですか?貴族の人は、そういう人を買うんですか?」
逆に聞き返すと、《毒蛇》先輩の青い瞳がすっと細められた。
「……なるほど」
一瞬の沈黙。
《毒蛇》先輩は、言葉を選ぶように口を開いた。
「酒場の店員とは、ちょっと違うかな。もっと……個人的な楽しみを提供するんだよ」
「へえ……そういう仕事があるんですね。何をすればいいんでしょうか」
僕が尋ねると、《毒蛇》先輩はテーブルの上の茶器を片付け始めた。
「じゃあ、潜入のための振る舞いを練習してみようか。不自然に見えたら困るからね」
「はい、よろしくお願いします」
僕は頷いた。同行させてもらう以上、足を引っ張るわけにはいかない。
「そこまで固くならなくてもいいよ」
《毒蛇》先輩は僕を安心させるかのように、にこりと笑う。
「潜入のための手はずは整えてある。少しくらい失敗しても、僕がどうにかするから」
こともなげに言う《毒蛇》先輩の声には、経験を積んだ者だけが持つ、風格と余裕が宿っていた。
……高ランクの暗殺者って、やっぱりすごいな。
「まず、大前提だけど。僕たちは標的に何をされても、嫌がってはいけない」
僕に言い聞かせるように、《毒蛇》先輩はゆっくりと説明してくれる。
「貴族を『楽しませて』お金をもらうために『買ってもらった』。そういう仕事だと思って」
「はい」
僕が返事をすると、《毒蛇》先輩は、ふっと笑う。
「あとは、笑顔」
「……笑顔、ですか?」
「そう。でも、作り笑いじゃない。『あの時』の顔だ」
「あの時?」
僕が考え込むと、《毒蛇》先輩は悪戯っぽく囁く。
「『もっと綺麗に殺せる方法が見てみたい』って言った時の、ああいう顔」
「……僕、笑ってました?」
「うん、嬉しそうにね……ほら、やってみて」
言われて、その時のことを思い返す。
――綺麗に、苦しませずに殺すことができたら……
「……そう、すごくいい」
……褒められた。
自分がどんな顔をしているのかは、わからなかったけど。
「次は、お酒の注ぎ方だ」
《毒蛇》先輩は立ち上がると、部屋に用意されていた葡萄酒の瓶とグラスを取って戻ってくる。
グラスを僕に持たせ、両手で葡萄酒の瓶を持つと、静かに注ぐ。
僕は、思わず目を奪われた。
伏し目がちの青い瞳、瓶を持つしなやかな指先、音を立てずに注がれていく赤い液体。
――とても綺麗だ。
「君も、やってみて」
今度は《毒蛇》先輩がグラスを持つ。
「注ぐ前に、一度だけ貴族の顔を見て笑うんだ。さっきの笑顔で『どうぞ』とだけ言えばいい」
「……こうですか?」
瓶を持ち上げ、《毒蛇》先輩に顔を向ける。
「――どうぞ」
言われた通りに笑い、瓶を慎重に傾ける。こういう事をするのは初めてだ。
手がぶれ、瓶の口がグラスに当たって音を立てる。
「……あ」
思わず声を上げると、《毒蛇》先輩が喉の奥で笑った。
「……うん、それでいい」
「え、ほんとですか?」
……全然できてないと思うけど。
疑問の視線を向けると、《毒蛇》先輩は、何かを確信したような目で、僕を見ていた。
「君は、そのままでいい」
言いながらグラスを置くと、《毒蛇》先輩は袖口を探り始めた。
「最後に、これを渡しておくね」
取り出されたのは、小指くらいの長さの針。
「これは……」
「毒針だよ」
見た目は普通の針にしか見えない。《毒蛇》先輩は針を指先で弄びながら続ける。
「標的は、たぶん僕か君のどちらかを選んで『部屋に来い』と言う」
「そうなんですか?」
「うん。僕が選ばれれば簡単なんだけど、標的にも好みがあるからね。君が選ばれる可能性もある。だから、保険として君にも暗殺の準備をしておいて欲しいんだ」
「わかりました」
そう言って、《毒蛇》先輩は、針を僕に手渡す。
受け取りながら、ふと、ワイルドウルフさんの言葉が脳裏をよぎった。
「……でも、いいんですか?ワイルドウルフさんには『余計なことはするな』って言われましたけど」
僕の疑問に、《毒蛇》先輩はただ微笑んだ。
「大丈夫だよ。僕がいるから。たとえ君が失敗しても、暗殺は絶対に成功する」
……すごい自信だ。
「もしも君が選ばれたら、聞かれたことに素直に答えて。そうすれば、標的を楽しませることができるよ」
「そうなんですね」
よくわからないけど、《毒蛇》先輩が言うならそうなんだろう。
「『殺せる』と思う瞬間が来たら」
《毒蛇》先輩は僕を見る。
「それで刺すんだ」
指先で軽く針を示す。
「一瞬で終わる」
「わかりました」
僕は針を袖口に仕込み、頷いた。
《毒蛇》先輩はそんな僕の行動を、じっと見ていた。
時々見せるその顔は、まるで、何かを読み取ろうとするみたいだ。
「……君、あまり緊張してるようには見えないね。こういう任務、初めてでしょ?」
静かな声音で、《毒蛇》先輩はそう尋ねてくる。
――もしかして、先輩として気にかけてくれてるのかな?
「はい、でも一瞬で死ねる毒なんですよね?なら良かったです」
「……そう」
《毒蛇》先輩は、少しだけ目を細めた。
でも、それ以上、何も言わなかった。
※※※
夕方。
僕たちは、マルシア郊外の大きな屋敷の応接室にいた。
ここは王都に住まう標的の別邸。
でも、表向きはマルシア商人の邸宅として管理させているのだと、《毒蛇》先輩から聞いた。
「あまりおおっぴらにできない趣味だから、『遊ぶ』時だけ客としてこの屋敷に来るんだよ」
《毒蛇》先輩が手を回したという仲介人が、屋敷の主人である商人に、僕たちを「商品」として引き渡す。
「今回は、二人か」
出迎えた商人は、まず《毒蛇》先輩を見て、はっきりと目を見開いた。
「これは……今まで見たこともないような上玉だな」
その視線を受けて、《毒蛇》先輩は微笑み、綺麗な所作で頭を下げた。
「光栄です。貴族様に楽しんで頂けるよう、尽くします」
「ほう?随分慣れているようだな」
商人がにやりとした笑みを浮かべ、そう言うと――
《毒蛇》先輩の空気が、がらりと変わった。
「俺には、この見た目くらいしか取り柄がありませんから……おわかりでしょう?」
横で黙って立ちながら、僕は驚いていた。
口調も、雰囲気も全然違う。
どこか艶のある声音に、皮肉げな笑み。
青い瞳に挑発するような光をたたえながら、首を傾げる。
首元の開いた服から覗く鎖骨に、商人の視線が吸い寄せられたのがわかった。
商人は咳払いし、僕に視線を移す。
「そっちのお前は……」
「俺の弟分みたいなものです」
《毒蛇》先輩が僕の肩に手を置く。
「この子、親に先立たれて困ってて。可哀想だから一緒に連れてきたんです。けっこう可愛いでしょう?」
商人は、僕をまじまじと見つめる。
その視線は《毒蛇》先輩へのものとは違い、何かを冷静に量っているようだった。
「……いいだろう、ついてこい」
僕たちを促し、商人は広い廊下を歩く。
他の部屋よりも明らかに豪奢な扉の前で止まると、商人は扉を叩き、控えめに声をかけた。
「ご主人様。今夜の相手を連れて参りました」
「入れ」
高圧的な声に促され、商人が扉を開ける。
そこにいたのは、40代くらいの男性貴族だった。
横に大きな身体を上質な衣服に包み、柔らかそうなクッションが置かれた長椅子に腰掛けて、ゆったりとくつろいでいる。
すぐそばのテーブルには、酒の瓶とグラスがいくつも置かれていた。
値踏みするような視線が、僕たちに向けられる。
「ほう……ずいぶんと、対象的な組み合わせだな」
興味深げな声。
《毒蛇》先輩はさっき商人の前でしたように、丁寧な仕草で頭を下げた。
「今夜は、よろしくお願い致します、貴族様」
ねっとりとした視線が、《毒蛇》先輩に絡みつく。
《毒蛇》先輩はその視線を微笑みながら受け止め、僕の背を軽く押した。
「ほら、お前も挨拶するんだ」
「……よろしくお願いします」
すると、貴族の眉が、ぴくりと動いた。
「ずいぶんとぎこちないな」
「申し訳ありません、貴族様。この子、緊張してるんです」
《毒蛇》先輩は僕を庇うように前に出ると、困ったように眉尻を下げた。
「俺はもう慣れたものですが、この子は初めてなので……どうか大目に見てやってください」
――《毒蛇》先輩がそう言った瞬間。
何かが引っかかったかのように、貴族が僕の姿をじっと見た。
「お前、いくつだ?」
「18歳です」
僕が答えると、貴族は椅子にもたれたまま、顎で自分の隣を示す。
「こちらへ座れ」
言われた通りに座ると、《毒蛇》先輩は呆れたように僕に注意してきた。
「ほら、ぼうっとしてないで、貴族様にお酒を注いでさしあげるんだ」
《毒蛇》先輩自身は跪いて、貴族にグラスを手渡している。
ああ、そういう意味だったのか。
僕は、手近な酒瓶をそっと持ち上げた。
「――どうぞ」
貴族の顔を見つめる。
そして、練習の時と同じように笑った。
《毒蛇》先輩はそのままでいいと言ったけど、また瓶の口がグラスに当たって、耳障りな音を立てる。
グラスを持つ貴族の手に、一瞬だけ力がこもった気がした。
……やっぱり失敗した。
でも、貴族は怒らなかった。
――その瞬間。
ほんの一瞬だけ、《毒蛇》先輩が目を細めた。
貴族は僕が注いだ酒を一息にあおり、深く息を吐く。
「今夜は、お前を買ってやろう――来い」
肩に手が回される。
重そうな身体がゆっくりと椅子から立ち上がった。
……《毒蛇》先輩が言った通りになった。
ちらりと目配せすると、《毒蛇》先輩は微笑んでいた。
「失礼のないようにね。ちゃんと『楽しませる』んだよ」
僕を見送る青い瞳には、どこか試すような光があった。
奥の扉を開けると、そこは寝室のようだった。
天蓋つきの大きな寝台がひとつと、酒瓶が置かれたテーブルだけの部屋。
……遊ぶには狭そうだけど、ここで何をするんだろう。
「お前、経験はないな?」
僕の肩を抱いたまま、確信を持ったように、貴族はそう問いかけてきた。
《毒蛇》先輩は「聞かれたことに素直に答えて」と言っていたけど……なんの経験だろう?
「ええと、なんの経験ですか?」
そのまま聞き返すと、貴族は怪訝な顔をした。
「……わからないはずがあるまい。お前、あの若者に連れられて来たのだろう?」
「はい。貴族様に、楽しんでもらうためのお仕事だって聞きました」
そう言った途端。
貴族の様子が明らかに変わった。
「そうか、そうか……」
何かに納得したように、繰り返し頷く。
その目が、にたりと細められた。
「本当に、何も知らずに来たのか」
貴族は僕の顔をじっと覗き込んだ。
なんだか嬉しそうだ。楽しんでくれているのかな?
「可愛いじゃないか」
次の瞬間。
貴族が、勢いよく僕に抱きついてきた。
そのまま体重をかけられ、寝台の上に倒れ込む。
「怖がることはない。初めてなら、優しくしてやろう」
貴族は僕の首筋に顔を埋める。
なぜか、呼吸が荒い。
……これが、貴族の遊びなんだろうか。
脳裏に、《毒蛇》先輩の言葉が蘇った。
『――殺せると思ったら、刺すんだ』
密着した身体。貴族の顔が、すぐ近くにある。
貴族は何かに夢中で、僕の動きには全く気付いていない。
――よかった。
今なら、苦しませずに終わらせられる。
貴族が、荒い息の下で呟く。
「今夜は……たっぷり付き合え」
「……はい」
首筋に腕を回す。
僕は、教わった通りの笑顔で、笑った。
そして――刺した。
部屋を出ると、《毒蛇》先輩が壁にもたれて立っていた。
「早かったね」
「はい、すぐに終わりました」
僕が報告すると、先輩はふっと笑い、また僕をじっと見た。
「どうだった?」
「不思議でした。ただ話していただけなのに、簡単に殺せたので」
貴族は、声もあげなかった。刺されたことにすら気付いていなかった。
「これが『綺麗に殺す方法』なんですね。教えてくださってありがとうございました」
思わず、笑みがこぼれた。
「……」
僕の顔を見つめる《毒蛇》先輩の青い瞳が、ほんのわずかに、揺らいだ気がした。
※※※
行きと同じ道のりを、乗り合い馬車で帰る。
深夜の馬車の座席には、僕たちしかいなかった。
車輪の音だけが、静かな夜に響いている。
「実はね」
また景色を眺めていると、《毒蛇》先輩が、ふと話しかけてきた。
「今回の標的の好みは、最初から知っていたんだ」
「え?そうなんですか?」
きょとんとする僕の顔を見て、先輩は、静かに微笑んだ。
「そのうえで、君が選ばれるように仕向けた。才能があると思ったから」
「才能ですか?」
「そう。君が新人として来た時から、ずっと見てたんだよ」
……全然気がつかなかった。
「はじめから、君に暗殺をさせるつもりだった。そう言ったら、怒る?」
そう言われて、僕は、少し考える。
……でも、怒る理由は見当たらなかった。
「いいえ」
「……そう」
そこで、《毒蛇》先輩は言葉を切った。
ガタガタと、馬車が揺れる音だけが、静かな夜に響く。
僕もまた馬車の外に視線を戻す。
――ふいに、《毒蛇》先輩の手が、僕の手に重ねられた。
「……?」
顔を向けると……すぐそばに、《毒蛇》先輩の綺麗な顔があった。
じっと、僕を見ている。
近い。どうしたんだろう。
「……《毒蛇》先輩?」
首を傾げると――
《毒蛇》先輩の唇が、そっと重なった。
柔らかな感触が触れて、すぐに離れる。
《毒蛇》先輩は、微笑んでいた。
「……今の、意味わかる?」
「キスですよね」
僕が答えると、その青い瞳が、まるで面白いものでも見たかのように細められる。
「ふうん……やっぱりね」
「?」
「君の無垢さは、武器になる……でも、同時にひどく危うい」
穏やかな声。先輩の金の髪が、ほのかな月明かりに照らされて、幻想的な光を放つ。
《毒蛇》先輩は僕の手を握ったまま、もう片方の指を唇に当てた。
「秘密だよ」
「秘密、ですか?」
「そう、僕とキスしたこと。誰にも言っちゃだめ」
「わかりました」
そうして、空が明るくなる頃、馬車は王都に到着した。




