【第53話】「死なないでください」
いつの間にか、黒い剣の攻撃は止んでいた。
しん、と静まり返った劇場で。
誰もが、その光景に、目を奪われていた。
ノクスの身体が、傾ぐ。
倒れ込んできた身体を反射的に支え、僕は《教授》先輩の姿を探した。
駆けつけてきた《教授》先輩の表情は――まるで。
何かを、悟っているかのようだった。
ノクスの胸元に手をかざし、詠唱する。
けれど、回復魔術の光は……霧散した。
ノクスが、また咳き込む。
喘鳴のような音が、静かな劇場で、やけに響いて聞こえた。
――呼吸が、おかしい。
「……おそらく、肺に損傷がある」
《教授》先輩が、目を伏せ、呟く。
「回復魔術では……内臓の損傷を治すことは、不可能だ」
その意味するところは、明白だった。
イグナスさんが、呆然とした表情で、ノクスの姿を見つめている。
《断罪》先輩も、何も言えずに立ち尽くしていた。
僕は……どうしたらいいのか、わからなかった。
その時。
「……ごめんね」
苦しげな呼吸の合間を縫うように。
「僕は、ずっと、嘘つきだった」
ノクスが、言葉を絞り出した。
「……ノクス?」
「君が壊れてるって、最初から、わかってた」
「恋人の練習も」
「……遊びの、つもりだった」
……何を言っているのだろう。
――僕が壊れてるって、『最初から、わかってた』?
――『遊び』だった?
わからない。
ノクスは、出会った時から、優しかったのに。
そんな僕を見て、ノクスは、力なく笑う。
「……君は、ずっと」
「僕を、信じてくれていたね」
「だから……っ」
ノクスは苦しそうに息を吸う。
それでも、言葉だけは止めなかった。
「ずっと、本当のことを、言えなかった」
――「全部話すから」
その約束を、果たそうとしているみたいに。
「……本気で」
ノクスが咳き込む。
血が唇を濡らした。
「好きに、なったから」
――『好き』。
イグナスさんが言ってくれたのと、同じ言葉。
「……ノクス」
「……ごめんね」
ノクスは、また、そう言った。
まるで、何か罪でも、犯したみたいに。
「君は、恋なんてわからないって、知っていたのに」
「僕だけのものに、したかった」
「そんな資格、ないのに」
――誰も、何も言わない。
「でも」
「傷つけたく、なかった」
「……嫌われたく、なかった」
「……好きだったから」
ノクスが嘘をついていた理由。
「僕を……『好き』だったから?」
「……僕に、嫌われたく、なかったから?」
それだけのことで……あんなに、苦しんでいた?
嫌いになんて、なるわけがない。
だって。
最初から、僕が壊れていたと、知っていたなら。
遊びだったと言うなら。
いつでも、捨てられたはずなのに。
――『離れないで。お願いだから』
ノクスは、最後まで。
僕を、捨てなかった。
イグナスさんが、顔を歪めて、舌打ちする。
「……バカだろ」
「遅えんだよ……!!」
ノクスは、それを聞いて、わずかに微笑む。
そして、僕の頬に、手を伸ばした。
「……君は、そのままでいい」
大きく息を吸おうとして、激しく咳き込む。
新たな血が、口元から溢れた。
《教授》先輩が、見かねたように、その肩を掴む。
「……もうやめろ。肺に負担がかかる」
けれど、ノクスは首を振った。
掠れた声で、続ける。
「……約束、したから」
《断罪》先輩が、苦しそうに、視線をそらした。
「……苦しかったのは」
咳が止まらない。
「君が、壊れていたからじゃ、ない」
苦しげに息を継ぐ。
「僕が、ずっと、嘘つきだったから」
ヴァルターさんが、静かに、目を伏せる。
「だから」
「名前も、聞けなかった」
「……ルシア」
ノクスが、僕の名前を呼んだ。
消え入りそうな声で。
「綺麗な、名前だね……」
ノクスの呼吸が、小さくなっていく。
身体から、力が抜けていくのが、わかった。
「……っ」
ああ。
ノクスは死ぬんだ。
もう、苦しまなくていい。
もうすぐ、楽になれる。
それは、「いいこと」だ。
なのに。
それなのに。
どうして、こんなにも。
胸の奥が、痛いんだろう。
「……いやです」
言葉が、口をついて出た。
なぜかは、わからない。
でも。
今になって。
あの日のノクスの言葉が、頭に浮かんだ。
――『愛してるよ』
あの時、理解できなかった言葉。
今も、理解なんて、できないのに。
「死なないでください」
熱い何かが、自分の目から、溢れてくる。
イグナスさんが、息を呑む気配がした。
ヴァルターさんも。
《断罪》先輩も。
《教授》先輩も。
みんな、目を見開き、僕を見ている。
「一緒にいてください」
ノクスは死ぬのに。
「お願いです」
こんなことを言っても。
もう、意味なんてないのに。
「――――ノクス!!」
ノクスの身体に、縋り付く。
その唇が。
最後の力を、振り絞ったみたいに。
ほんのわずかに、動いた。
「……嬉しい」
――瞼が、ゆっくりと閉じていく。
「嫌です……!!」
声が、勝手に溢れた。
「お願いです……!行かないでください!!」
――その刹那。
視界が、白くなった。
ノクスの身体が、目を開けていられないほどの、まばゆい光に包まれる。
「……?」
目を開けた時には……ノクスの胸の傷が、消えていた。
苦しげだった呼吸は、まるで眠っているかのように、ゆっくりと、穏やかに戻る。
青白かった顔色に、わずかに赤みがさした。
《教授》先輩が、呆然と呟く。
「……信じられん」
その場の全員が、声を失ったまま、僕とノクスを見比べている。
「……え?」
ノクスが、ゆっくりと目を開く。
青い瞳が、僕を映した。
「……ルシア?」
「ノクス!!」
僕は、その身体に、しがみついた。
「僕、死んだんじゃ……」
訳がわからないといった様子で、ノクスが呟く。
けれど、僕は気にならなかった。
ノクスは、生きている。
それだけで、よかった。
「……よかった」
力いっぱい抱きつく僕を、ノクスが躊躇いがちに抱き返す。
ぐちゃぐちゃに濡れた僕の顔を、見つめながら。
「……本当に?」
「僕で、いいの?」
そう尋ねる声は、少しだけ震えていた。
僕は、迷わなかった。
「はい」
「ノクスが、いいんです」
自然と、笑みがこぼれていた。
「……ルシア」
ノクスが、僕を強く抱き締めてくれる。
床に転がされている仮面の男の人が、感極まったような声を漏らすのが聞こえた。
「……素晴らしい」
「これは、奇跡です」
「やはり、この子は、私の最高傑作――」
「――観察は、終わりだ」
ヴァルターさんのナイフが、その胸を、貫く。
「……え?」
仮面が、落ちる。
何が起こったのかわからない表情を貼り付けたままで――男の人は、動かなくなった。
騎士団の人たちが、ざわめく。
「……どうせ、法でも死刑だ」
《断罪》先輩が、小さくそう言うのが聞こえた。
僕は、その間もずっと、ノクスにしがみついていた。
離れたく、なかった。
もしかしたら、この気持ちが――
頭の中にあった靄のようなものが、急速に晴れていく。
「僕、ノクスのことが――」
言葉を続けようとした、その刹那。
「……あ」
頭に、割れるような激痛が走った。
「……ルシア?」
「あ……ああ」
思い出す。
小さな村。
突然現れた、怖い人。
叫びながら殺されていく、村のみんな。
父さんが、母さんが、妹が。
どうやって、死んでいったか。
「ルシア!?」
身体が、震える。
視界が、ぼやける。
ノクスの姿が、見えなくなっていく。
「ルシア!!」
「ノクス……」
伸ばそうとした手は――届かなかった。




