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【第45話】傷つけたくないから

翌日。

僕は、朝一番で、《教授》先輩の研究室に顔を出した。


「……すみません。今日は、お休みを頂いてもいいでしょうか」


「……体調不良か?」


僕の顔を見て、《教授》先輩が銀縁眼鏡を押し上げる。

そんなふうに見える顔をしていただろうか。


「……違います」


僕は、首を振った。


「ただ」


「僕、二人に嫌な思いをさせてしまったみたいで」


《教授》先輩の表情が、わずかに強張る。


「ですから、今日は会わない方がいいと思うんです」


自分の口から出た言葉が、ひどく重く感じた。


「外に出たら……また、同じ思いをさせてしまうかもしれませんから」


「……そうか」


《教授》先輩は、それ以上、何も言わなかった。

ただ、言葉が見つからないような顔で、目を伏せた。



鍵をかけて、部屋にこもる。


どうしてか、何もする気になれず、寝台にごろりと横になった。

イグナスさんから選んでもらった枕元のナイフが、視界に入る。


「……」


――『そのままでいい』

――『お前は、お前のままでいい』


と、いつか言ってくれた。


でも。

僕に問題があるなら、どうして、そう言ったのだろうか。


……どうして、本当のことを言ってくれなかったのだろうか。


窓辺の花瓶に、視線が移る。

飾られた花は、また枯れそうになっていた。


ノクス。


――『君は、何も失敗なんかしてない』


「恋人をやめましょう」と言った時に、ノクスは確かにそう言った。

それからは笑ってくれるようになったと思っていたのに――違った。


……どうして、ずっと嘘をついていたんだろう。


いつでも、恋人をやめられたはずなのに。

どうして――「離れないで」と、あんなに必死だったのだろう。



考え込んでいるうちに、気付けば、夕方になっていた。


足音が、近づいてくる。

遠慮がちに、扉を叩く音がした。


「……いるんだろ」


イグナスさんの声。


「……少し、話せるか?」


僕は、とっさに答えられなかった。

しばらく考えて、ようやく言葉を絞り出す。


「……すみません。今日は、部屋で休みます」


一拍、間を置いて。


「……そうか」


イグナスさんの足音は、静かに遠ざかっていった。



そして、夜になる。


――聞き慣れた足音。

――扉をノックする音。


……ノクス。


「……ごめんなさい」


僕は、それしか言えなかった。

もう、ノクスの苦しそうな顔は、見たくなかった。


扉の外で、息を呑む気配がする。


足音は、しばらく離れなかった。

長い沈黙のあと。


「……うん。わかった」


寂しそうな声とともに、ノクスの気配は、ゆっくりと離れていった。



しばらくして。

ふいに、予想もしていなかった声がかかった。


「……起きているか」


……《幽影》先輩?


「食事は、取ったか」


そう言われて、僕は、朝から何も食べていないことに気付いた。


「……いえ」


「……食べに行くぞ」


「え……?」


食堂は、もう閉まっている時間だ。

《幽影》先輩から、こんなふうに誘われたのは、初めてだった。


僕は、そっと寝台から起き上がり、扉を開ける。

《幽影》先輩は、いつもの黒装束姿で、いつも通りの落ち着いた表情で、そこに立っていた。


「行こう」


寡黙で、無駄なことは喋らないのに。

短い言葉の中に、どこか、優しい温度を感じた。


外に出て、僕はただ、前を歩く《幽影》先輩についていく。


「……あの、《幽影》先輩」


呼びかけると、《幽影》先輩は、静かに振り返った。


「……ヴァルターでいい」


「……いいんですか?」


――昨日は、思わずそう呼んでしまったけれど。


「君がそう呼びたいのなら」


「……ヴァルターさん」


僕は、湧き上がってくる疑問を、そのまま口に出した。


「どうして、いつもこんな風に、僕を気遣ってくださるんですか?」


「……」


ヴァルターさんが立ち止まる。

僕は、その緑の瞳を覗き込んだ。


考えてみれば、不思議だった。

初めて任務に連れて行ってもらった時は、ただ、先輩だからだと思っていたけど。


「伝説の暗殺者」とまで言われている《幽影》先輩が、僕なんかを気にかける必要なんて、ないはずだ。


それなのに。


《狂刃》先輩との任務で怪我をした時、一番に駆けつけてくれた。

《断罪》先輩に不快な思いをさせてしまった時、側にいてくれた。

「ちゃんと食べているか」と、頭を撫でててくれた。

任務で離れる時、「何があろうと、駆けつける」と、伝令魔術の札をくれた。


そして、今も。


「僕は、ヴァルターさんに、何も返せないのに」


「……そんなふうに言うな」


僕を見るヴァルターさんの深い緑色の瞳が、一瞬だけ、大きく揺れた気がした。

そして、また、僕の頭を撫でる。


「……私は、君が思うほど、立派な人間ではない」


「……」


何が言いたいのかは、よくわからなかった。


けれど。

その日、僕たちは――初めて、二人きりで食事をした。



それからも、僕は外に出ることができなかった。

イグナスさんもノクスも、毎日部屋を尋ねてきてくれたけど――会えなかった。


いくら考えても、何が悪いのか、どうしたらいいのか、わからなかったから。


それでも、ヴァルターさんだけは、毎晩、食事に連れて行ってくれた。


そんなある日。

ヴァルターさんと食事をした後、一緒に、寮に向かう廊下を歩いていると。


――イグナスさんが、待っていた。


「……《狂刃》先輩」


「……大事な話がある」


その声は……ひどく、真剣だった。

ヴァルターさんが、隣で静かに目を細める。


――何かを察したように。


僕には、その意味がわからなかった。

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