【第44話】「ここにいる」
寮の部屋を出て、僕の足は、自然と野外訓練場に向かった。
なんとなく、外の空気を吸いたくなったから。
訓練場の真ん中までふらりと歩き、空を見上げる。
月が、綺麗だった。
ぼんやりと、さっきまでのことを考える。
ノクス。
イグナスさん。
僕のことで、喧嘩していた。
二人とも、とても苦しそうだった。
それなのに。
二人が何に怒っているのか。
どうして、そんなに辛そうな顔をするのか。
僕には……わからない。
一緒にいて、不快な思いをさせるなら。
やっぱり、離れた方が、いいんだろうか。
そんなことを考えていると――ふいに、後ろから静かな声がかかった。
「――夜中に一人でいるのは、危険だ」
足音も立てずに現れた、影のような人。
「……《幽影》先輩?」
いつもなら、とっくに帰っているはずの時間なのに。
「どうして、ここに?」
「……」
《幽影》先輩は、僕の顔を見て、わずかに目を伏せた。
そのまま、静かに近づいてくる。
そして――何も言わず、僕をそっと抱き寄せた。
「……《幽影》先輩?」
「――」
囁くように、名前を呼ばれる。
――あの日に交換した、僕の名前を。
「……はい。なんでしょうか?」
「……呼んだだけだ」
「……どうしてですか?」
尋ねると、腕の力がほんの少しだけ、強まった気がした。
「――君が、消えそうな気がしたから」
「……」
不思議なことを言うな、と思った。
けれど。
《幽影》先輩なら、このよくわからない気持ちも、受け止めてくれるような気がした。
その胸に顔を埋めて、呟く。
「……僕、やっぱり、おかしいみたいです」
「……」
「でも、何がおかしいのか、わからなくて」
「……」
「頑張ったつもりだったのに……また、嫌な思いを、させてしまいました」
「……そうか」
《幽影》先輩は、何があったのかは、聞かなかった。
ただ、静かに聞いてくれる。
「……僕、どうしたらいいんでしょうか」
その問いに対する答えは、なかった。
でも。
《幽影》先輩は、言った。
「たとえ、最後に、何も残らなくても」
「――私は、ここにいる」
その低い声は、淡々としているのに、温かく耳に響いた。
「……ヴァルターさん」
気付けば、そう呼んでいた。
ヴァルターさんは、一瞬だけ目を見開く。
「……君の帰る場所は、ここにある」
ヴァルターさんの指先が、そっと僕の頭を撫でた。
……どうしてだろう。
そんなはずは、ないのに。
こうして頭を撫でられていると――
どこか、懐かしいような気持ちになった。
※※※
「山奥の村で、異常な事件が起こっている」
依頼を受けて駆けつけた時、目にしたのは、想像を絶する、醜悪な現場だった。
赤く染まった土壁。
立ちこめる異様な臭い。
周囲に転がる――「村人だった」ものの一部。
その中で。
ただ一人だけ、綺麗な姿のまま、生き残っていた少年がいた。
虐殺犯を殺した自分を見ても、その表情は、少しも変わらなかった。
地獄のような環境から解放された、喜びも。
家族を目の前で惨たらしく殺された、悲しみも。
なぜもっと早く来なかったという、怒りも。
――何も、なかった。
乾ききった涙の痕。
何も映さない瞳。
壊れる前に、その目が何を映していたのか、考えたくもなかった。
少年は、淡々と言った。
「僕のことも、殺してくれませんか?」
自分は、答えた。
「……君を殺せという依頼は、受けていない」
「……」
少年の表情は、変わらなかった。
だが。
最後に、一言だけ。
「……いい人も、悪い人も、死んだら同じなのに」
その言葉が、いつまでも、耳に残った。
その後、少年が王都の孤児院に引き取られたと、聞いた。
自分は、殺さなかった。
依頼を受けていなかったから。
あの子の願いを、聞き届けてやれなかった。
その結果、壊れたまま、こうして生きている。
――だから。
今度こそは、その意思を守ろうと、誓った。
間違っているとわかっていても。
苦しむとわかっていても。
正しさだけでは、救えないから。
だから、ただ見守ると決めた。
あの日、救えなかった少年が選ぶ道を。
たとえ、その結果が――どんなことに、なっても。




