【第43話】絶望
寮の部屋に入ると、ノクスは鍵をかけた。
二人きりになり、僕はうつむく。
「……あの、すみません。僕、失敗してしまいました」
ノクスは微笑み、首を振った。
「……大丈夫だよ」
食堂で聞いたのと、同じ言葉。
「いつかはこうなるって、わかってた」
「……え?」
僕は、ノクスを見上げる。
長い指先が、僕の頬に触れた。
「……キスしていい?」
「?はい」
恋人になってから、わざわざそんなことは聞かなかったのに。
僕は首を傾げながらも、頷いた。
ノクスの唇が、ゆっくりと重なる。
唇が離れた時に見たノクスの瞳は――
妙に真剣な光を帯びて、僕を映していた。
「……この先も、欲しいって言ったら、どうする?」
「……この先?」
それは……「性欲処理」のことだろうか。
施設で聞いた、大人の男の人と女の人がすること。
どうするのかは、よくわからないけれど。
「はい。ノクスが望むなら」
僕は、迷わず頷いた。
ノクスが望むなら、応えたい。
「恋人」だから。
――それなのに。
僕の返事を聞いたノクスは……悲しげに笑った。
「……そうだよね」
「……ノクス?」
「君は、誰のものにもなれる」
どうして、そんなことを言うんだろう。
「でも……誰のものにも、したくない」
身体が傾ぐ。
寝台の上に、押し倒された。
ノクスが覆い被さってきて――唇が重なる。
「ん……っ」
口づけは、優しいのに、熱を帯びていた。
何度も、確かめるみたいに、深く。
「……っ、ノクス」
僕の身体を抱き締めながら。
ノクスのさらりとした金髪が、瞼にかかる。
どのくらいの時間が経ったのだろう。
ノクスが、そっと唇を離す。
わずかに呼吸を乱しながら。
青い瞳が、真っ直ぐに、僕を見つめた。
僕の目に映ったのは……これまでで一番、優しい微笑み。
――そして。
「……愛してるよ」
囁きが、落ちる。
――とても、大切な言葉を聞いた気がした。
聞き逃してはいけない気がした。
……なのに。
頭に霞がかかったみたいに。
意味が、理解できなかった。
「……」
だから、僕は何も言えなかった。
ノクスは、ただ微笑む。
まるで、僕がそんな反応をすることさえ、わかっていたみたいに。
ノクスが、僕の服に手をかける。
首筋に、唇が触れた。
「……くすぐったいです」
僕の反応に、ノクスはくすりと笑う。
けれど。
その唇が別のところに触れると、突然、ぞくりとした感覚が走った。
「っ……?」
「……嫌じゃない?」
不安そうな声。
驚いたけれど、嫌じゃなかった。
「はい。嫌じゃないです」
「……よかった」
指先が、肌をなぞる。
「んんっ……」
今まで、感じたことのない、よくわからない感覚。
「……あの、なんだか、変です。僕……」
「……大丈夫。可愛いよ」
ノクスは僕を安心させるかのように、耳元で囁く。
どういう意味かは、よくわからないけれど。
ちゃんと、できているなら、よかった。
「……っ、あ……」
ノクスの手が、僕の脚にかかった。
「……少し、我慢して」
……何をだろうか。
わからない。
でも。
ノクスが喜んでくれるなら、それでいい。
そう思って、ノクスにしがみついた。
その瞬間――。
扉が、勢いよく開け放たれた。
「……《狂刃》先輩?」
イグナスさんは、扉の前で立ち尽くしていた。
その両目は、いっぱいに見開かれ、こちらを凝視している。
まるで――
何か、理解できないものでも、見るように。
「……何、してる」
その声は、やけに平坦だった。
ノクスが、僕を抱き締めたまま、ゆっくりと身を起こす。
僕の肌を隠すように、乱れた上着を直してくれた。
「……見ての通りだけど?」
もう、内緒にしなくてもいいんだ。
自然と、笑みがこぼれる。
「恋人なんです」
「……」
「ノクスが、全部教えてくれました」
「……」
「僕と離れたくないって」
「……」
「これが、恋人なんですね」
「……」
「もう、おかしくないでしょう?」
「……」
イグナスさんは、言葉を発しなかった。
僕の顔を食い入るように見て……それから、ノクスに視線を移す。
その拳は、震えていた。
――低く、呟く。
「……てめえ」
ノクスは、その視線を黙って受け止める。
イグナスさんの顔が、歪んだ。
次の瞬間。
「――――てめええぇ!!!!」
イグナスさんが、ノクスに掴みかかった。
「……え?」
拳を振り上げ、その顔を殴る。
ノクスは、避けなかった。
「……っ」
僕は息を呑む。
……何が起こっているのか、わからない。
イグナスさんはよろけたノクスの胸倉を掴み、寝台から引きずり下ろす。
「何やってんだ!!何もわかってねえだろうが!!!」
怒声が、部屋に響く。
「……」
「お前、こんなんで、本当に満足なのかよ!!!」
「……はは」
――ノクスは、笑った。
乾いた笑いだった。
イグナスさんの手を、振り払う。
「……じゃあ、どうしろって?」
すっと、声が低くなる。
「離れろって?今さら見捨てろって?」
刺すような視線が、イグナスさんを貫いた。
「――君に、渡せって?」
「……ッ!!」
イグナスさんの拳が、また振り上げられる。
僕は寝台から駆け下りて、イグナスさんの腕を掴んだ。
「待ってください。ノクスは何も悪くありません」
「お前……!!」
「僕がお願いしたんです。恋人を教えて欲しいって」
「――っ」
イグナスさんが、息を止めた。
ノクスも、そんな僕の姿を見て、顔を歪める。
二人の顔を見た瞬間、僕は気付いた。
――あの時の《断罪》先輩と、同じ顔。
……うまく息ができないみたいに、苦しそうな顔。
「……どうして」
どうして、二人とも、僕を見てそんな顔をするんだろう。
ちゃんと、できていたはずなのに。
失敗していないって、言ってくれたのに。
でも、きっと、違うんだ。
「……どうして、なんでしょう」
なぜか、声が震えた。
二人が、はっとしたように僕を見る。
「……どうして、いつも失敗してしまうんでしょうか」
わからない。
「どうして、僕は……そんな顔をさせてしまうんでしょう」
「……ッ!!」
イグナスさんが、僕の腕を引いた。
そのまま、力強い腕が、僕を抱き締める。
――その腕は、震えていた。
「……違う」
「……」
「お前は……お前は、悪くねえんだよ……!」
その言葉が、頭の中で反芻される。
《断罪》先輩は言った。
――『お前が、悪いわけ、ねえだろ……!』
ノクスも言った。
――『君は何も悪くない』
そして今、イグナスさんも。
――『お前は、悪くねえんだよ……!』
だったら、どうして――。
「……嘘ですよね」
自然と、言葉が漏れた。
イグナスさんの腕が、強張る。
ノクスが息を呑んだ。
「僕、どこか、おかしいんでしょう?」
イグナスさんも、ノクスも、何も答えなかった。
ただ――今にも泣きそうな顔で、僕を見つめていた。
「……ごめんなさい。少し、一人で考えたいです」
イグナスさんの腕が緩んだ。
僕は、二人に背を向ける。
振り返る気には、なれなかった。
どちらも――追いかけてくることは、なかった。




