【第42話】歪んだ幸福
あの日から、ノクスは、たくさん笑ってくれるようになった。
「ノクス、待っていました」
「……うん、僕も会いたかった」
僕が抱きつくと嬉しそうに目を細めて、優しくキスしてくれる。
「花が枯れそうだったから、代わりの花、持ってきたよ」
「ありがとうございます」
ノクスは僕を気遣って、日々、色々なものを持ってきてくれる。
「君、こういうの読む?」
「面白そうですね」
机の上に置かれた、ノクスの本。
「たまには、別のお茶も飲みたいなって。お菓子もあるよ」
「はい。美味しそうです」
いつの間にか増えた、色々な種類の茶葉や、お菓子。
クローゼットには、ノクスの服も掛かっていた。
最近は、帰らないことが増えたから。
そんな日はいつも、ノクスは僕を抱き締めて眠る。
甘い香りと、温かな腕に包まれていると、安心した。
僕は、必要とされている。
――これが、「恋人」なんだ。
朝、僕が研究室へ入っていくと。
「寝不足か?」
《教授》先輩が、僕の顔を見て、即座に口を開いた。
「いえ、そんなことありません」
そう答えると、《教授》先輩は小さく眉をひそめる。
「隈ができているが」
「そうですか?仕事に問題はありませんから、大丈夫です」
気付かなかった。
目をこする。
昨日も、夜遅くまでノクスと話していたから、そう見えるのだろうか。
「……」
《教授》先輩は、何か言いたげに僕の顔を見て――
何も言わず、視線を戻した。
夕方の食堂で、イグナスさんといつものように食事していると。
「お前、どっか体調でも悪いのか?」
「え?」
唐突にそう聞かれ、僕は面食らった。
「いえ、なんともありません」
イグナスさんは納得いかない様子で、僕の皿を見る。
「最近、あんま食ってねえだろ」
僕はどう答えたらいいか、一瞬戸惑った。
ノクスと長時間一緒にいるようになったから、一緒にお茶を飲んだり、お菓子を食べたりすることが増えた。
……だから、夕食でお腹いっぱいにならないように、気をつけていただけなんだけど。
――そうだ。夜になれば、また、ノクスが来てくれる。
今日は、どんな話をしよう。
「……お前、最近どうした」
イグナスさんの表情が、少しだけ、険しくなった。
「……?」
「妙にぼんやりしてる」
そこへ。
「――どうしたの?そんな怖い顔して」
イグナスさんとの会話を遮るように、ノクスがやってきた。
その姿を見たイグナスさんは、気まずそうに視線をそらす。
「……別に」
「ノクスも、これから夕食ですか?」
僕は何気なく、そう問いかけた。
――ノクスの表情が、凍り付く。
その顔を見た瞬間、気付いた。
「……あ」
――失敗してしまった。
「みんには内緒」と、言われていたのに。
周りにいた数人が、驚いたように、こちらを見た。
「……は?」
イグナスさんが、ノクスの顔を凝視する。
その顔から、ゆっくりと表情が消えていった。
そして――
その金色の瞳が、何かを探るように、僕に向けられる。
僕は、何も言えない。
でも――ノクスは怒らなかった。
「……大丈夫だよ。どうしたの?」
何事もなかったかのように微笑み、僕の手を引く。
「……え?」
「……向こうで、話しようか」
「……おい」
イグナスさんの声が、背中に刺さる。
けれど、ノクスは何も答えず、視線を向けることもなかった。
※※※
違和感は、あった。
あいつの、見たことのない笑顔。
一度だけ見た、やけに手の込んだ服装。
「おかしくないように」という言葉。
一緒に食べたという料理。
そして、最近の、やけにぼんやりとした様子。
《毒蛇》の変化。
あいつを見る視線。
他の男に対する態度。
女からの花を受け取らなかったこと。
最後の、思い詰めたような表情。
――あいつは、呼んだ。
「ノクス」と。
足が、自然と、寮へ向かった。
確かめるために。
扉の前に立つ。
訓練された耳が、聞きたくもない音を拾った。
「……っ、あ」
苦しそうな声。
衣擦れの音。
押し殺すような息遣い。
そして。
「……少し、我慢して」
「――ッ!!」
まさか。
無理矢理――。
扉に、手をかける。
鍵のかかったそれを強引に開け、目にしたものは。
寝台の上で《毒蛇》にしがみつく、小さな姿だった。
「……何、してる」
掠れた声が漏れた。
部屋を見渡す。
飾られた花。
高そうなブランケット。
高級そうな茶葉。
二つあるマグカップ。
男物の着替え。
……なんだ、これは。
……何をやっているんだ、こいつらは。
《毒蛇》が、ゆっくりと身を起こす。
「……見ての通りだけど?」
あいつを、腕に抱き締めたまま。
俺の視線からその肌を隠すように、上着を着せる。
「恋人なんです」
あいつは笑った。
本当に。
心から安心したみたいに。
《毒蛇》に身を預けながら。
――幸せそうに。
……居場所を、作ってやりたかった。
……「そのままでいい」と伝えたかった。
なのに。
俺が守ろうとしていたものは。
もう、取り返しがつかないほどに。
壊れていた。




