【第36話】「僕が『恋人』だから?」
久しぶりに姿を見せた《幽影》に、カウンターのワイルドウルフは、眉をひそめた。
「お前、最近姿が見えなかったが……何してた」
その口調は、どこか固い。
《幽影》は無言で、その顔を見返す。
それを予期していたかのように、ワイルドウルフは声を低めた。
「――あいつの身元を調べた。話がある」
「……」
ワイルドウルフは、カウンターを他の事務員に任せると、《幽影》とともに、作戦室へと向かった。
誰もいない作戦室で、ワイルドウルフは、《幽影》と向き合って座る。
神妙な面持ちで懐を探り、丁寧に畳まれた一枚の紙を取り出し、読み上げた。
「出身は、ローディル領のフェル村。今じゃ廃村になった、山奥の田舎村だ」
《幽影》の眉が、わずかに動く。
「8年前――そこで、過去に類を見ねえと言われる、おぞましい事件が起こった」
ワイルドウルフも眉をひそめながら、記録を淡々と読み進める。
「……イカれた愉快犯が村を占拠し、村人全員を山中の洞窟に集め、嬲り始めた……時間をかけて」
「……」
「山奥の寒村で発覚も遅れ、村人が人質になったことで騎士団も表立って動けず――このギルドに、討伐依頼が来た」
ワイルドウルフは黙って話を聞く《幽影》を、正面から見た。
確かめるように。
「《幽影》……お前が、そこに派遣されたと、記録が残ってる」
「……」
「討伐は無事成功。だが……」
そこで、ワイルドウルフは言葉を切った。
その先を口にすることを躊躇うように、一瞬口ごもる。
「村人は、全員、無残に殺されていた……ただ一人を除いて」
「……もういい」
そこで初めて、《幽影》が低く言った。
「続きを聞かなくても、わかっている」
ワイルドウルフは、視線を逸らし、続けた。
「記録では、お前に助け出された後、王都の孤児院に引き取られた……となっている」
ワイルドウルフの瞳が、《幽影》を射貫いた。
「お前、最初から、知ってたのか」
《幽影》は、何も答えない。
だが、それはワイルドウルフの問いを肯定したことと同じだった。
「……あいつの育ったという孤児院だが」
ワイルドウルフはゆっくりと息を吐き、重苦しい口調で告げる。
「あれを後援しているのは、慈善家で有名な貴族だ。孤児院だけじゃない。救貧院にも多額の寄付をしてる」
その視線は、たしなめるようでもあり、その危うさを気にかけているようでもあった。
「下手に動けば、こっちが潰されるぞ」
「……わかっている」
《幽影》は、それだけ言うと、懐にしまった記録帳に触れる。
「……今の私にできるのは、時が来るまで、見守ることだけだ」
その緑の瞳に、確かな決意を宿して。
※※※
夜、僕はいつものようにノクスを待つため、寮へと続く廊下を歩いていた。
すると、廊下の隅に、《断罪》先輩の姿が映る。
外の訓練場の方へ向かっていくようだった。
《断罪》先輩が、こんな時間に残っているのは、珍しい。
……今なら、いつも苦しそうにしている理由を、聞けるかもしれない。
僕はそう考えると、《断罪》先輩の後を追った。
《断罪》先輩は、静かな訓練場の真ん中で、剣を振っていた。
迷いを振り切ろうとするかのように、力強く、何度も。
僕が近づこうと一歩踏み出すと、すぐに気配を察知したのか、勢いよく振り返る。
「お前……」
僕の顔を見て、《断罪》先輩が目を見開いた。
「お疲れさまです、《断罪》先輩」
「どうした、こんな時間に」
「《断罪》先輩の姿が見えたので」
「……俺が?」
また、沈黙。
僕はその顔を見上げると、ずっと気に掛かっていたことを、口に出した。
「……あの、《断罪》先輩」
「……ん?」
「僕、また何かしてしまったんでしょうか」
「……え?」
「僕、わからなくて。何か嫌な思いをさせてしまっていたら、教えてください」
《断罪》先輩が、息を呑んだ。
「……どうして、そんなこと聞くんだ?」
「最近、僕と話す時、いつも苦しそうです」
僕の言葉に、《断罪》先輩の茶色の瞳が、大きく揺れた。
「……ッ、俺のせいで……」
その声は、やっぱり、ひどく苦しそうだった。
「……違うんだ」
《断罪》先輩が、小さく呟く。
「?」
「お前は、悪くねえ」
「でも」
「お前が……お前が悪いわけ、ねえだろ……!」
――次の瞬間。
僕は《断罪》先輩の腕の中にいた。
「……?」
その手は――力強いのに、震えていた。
けれど、《断罪》先輩は、それ以上何も言わない。
代わりのように、僕を抱き締める腕に、痛いくらいの力がこもる。
「……《断罪》先輩?」
……どうしたんだろう。
「俺は――」
そのとき。
「……何してるの?」
背後から、冷たい声が聞こえた。
「……《毒蛇》先輩?」
顔を向けると、ノクスが静かに立っていた。
その視線は、僕ではなく、《断罪》先輩に向けられている。
「――今さらでしょ」
「……お前」
《断罪》先輩は、ノクスの顔を見て――息を止めた。
腕の力が緩む。
「……そうだな。今さらだ」
《断罪》先輩は、地面に視線を落とし、目を閉じた。
「もう、取り返しがつかねえ」
……どういう意味だろう。
僕がじっと《断罪》先輩を見ていると。
《断罪》先輩が、突然、にかっと笑った。
「今まで、悪かったな!全部、お前のせいなんかじゃねえ。俺の個人的な問題なんだ」
「……そうなんですか?」
よく、わからないけれど。
何か、悩みでもあったのだろうか。
「ああ、だから……」
《断罪》先輩は、大きく息を吸い、明るい口調で言う。
「また、前みたいに話そうな!」
僕は、その言葉を聞いて、ほっと息を吐いた。
……よかった。
仲直り、できたみたいだ。
「はい。嬉しいです」
自然と、笑みがこぼれる。
《断罪》先輩は一瞬目を見開いて――
「……ああ。またな」
肩の力を抜いたように、笑った。
《断罪》先輩が去って行くと、ノクスは僕の耳元で、低く囁いた。
「……君の部屋、行こ」
部屋に入って、扉を閉じた瞬間。
ノクスが、強く僕を抱き締めた。
そのまま、唇が重なる。
「……っ?」
扉に押しつけられるような体勢で、キスが深くなり、その場から動けなくなる。
「ん……っ」
僕は、ノクスが顔を離すまで、その背中にしがみついていた。
わずかに呼吸を乱しながら、ノクスが尋ねてくる。
「……あいつ、なんで急に?何があったの」
《断罪》先輩のことだろうか。
「よくわかりません。どうしていつも苦しそうなのか、お聞きしたら急に」
「……そう」
「でも、また笑ってくれてよかったです」
僕がそう言って笑うと、ノクスが息を呑んだ。
「……っ」
また、唇が重なる。
さっきよりも、強いキス。
「……っん」
腕の力が、強まった。
ノクスの手が、確かめるように、僕の髪や背中を撫でる。
ぞくりとした感覚とともに、乱れていく呼吸。
その合間に、僕は口を開いた。
「……ノクス」
「……ん?」
「今日は、たくさんキスしますね」
「……嫌?」
ノクスが、低い声で問いかけてくる。
「いいえ」
僕は首を振る。
「嬉しいです」
その瞬間、ノクスが、息を止めた。
「……嬉しい?」
「はい。恋人として、ちゃんとできているみたいで」
「……」
沈黙が落ちた。
腕の力が、わずかに緩む。
ノクスは、ゆっくりと口を開いた。
「……僕が、『恋人』だから?」
まるで、確かめるように。
「はい。恋人として、僕を必要としてくれているんですよね?」
「……必要、か」
……どうしてだろう。
ノクスは笑っている。
「恋人」として、ちゃんと、できているはずなのに。
その笑顔は――今まで見たことがないほど、苦しそうだった。




