【第32話】「帰りたくないな」
「……みんなには、内緒ね」
「恋人」になった後、ノクスは、そう言った。
「……どうしてですか?」
理由を尋ねると、綺麗な青い瞳が、僕を見て少しだけ揺れる。
僕の髪を撫でながら、ノクスは、優しい声で言った。
「……邪魔、されたくないから」
……邪魔されたくない?
「邪魔する人なんて、いないと思いますけど」
「……自覚ないんだ」
ノクスは、小さく笑って、肩をすくめた。
髪を撫でていた指が、僕の頬に滑る。
そのまま顔が近づいてきて、僕は目を閉じた。
そっと唇が触れて、離れる。
「……おやすみ。また、明日ね」
「はい、おやすみなさい」
僕は微笑んで、帰っていくノクスの姿を見送った。
――今度は、きっと大丈夫だ。
「正しい恋人」を教えてもらったから。
翌朝。
《教授》先輩の研究室で、僕は書類の整理をしていた。
最近は掃除だけではなく、少しずつ「助手」らしいこともさせてもらっている。
《教授》先輩はいつも執務机に向かい、何か数式のようなものを書いたり、難しそうな本を読んだりしていた。
そして、たまに立ち上がって魔術を試したり、呪符のようなものを作成したり。
僕が物珍しそうに見ていると、《教授》先輩は、時々むず痒そうな顔で、視線を逸らす。
しばらく研究室での仕事をしているうちに、僕はあることに気付いた。
「――あの、《教授》先輩。いつも、お昼ご飯、食べてませんよね?」
僕がそう尋ねると、《教授》先輩は今日も執務机に座ったまま、銀縁眼鏡を押し上げる。
「ああ、集中していると、食堂まで行くのも非効率だからな」
「じゃあ、僕が何か作って持ってきましょうか?」
「……君が?」
「はい、ご迷惑でなければ」
《教授》先輩は、一瞬の間の後に、ぼそりと呟く。
「……迷惑では、ないが」
「よかったです。では、ちょっと行ってきますね」
厨房に行って材料を少し分けてもらえないか頼むと、ユリアさんは快く承諾してくれた。
簡単につまめて、栄養も取れるように、野菜と卵のサンドイッチを作る。
一緒に紅茶も淹れて、お盆に載せた。
「お待たせしました」
お盆ごと机に置くと、《教授》先輩はサンドイッチを横目で見て、一つ掴む。
書類に目を通しながら、サンドイッチを流し込むように紅茶をすすると、その銀灰色の瞳が、わずかに見開かれた。
「……これは、私がいつも頼んでいた茶葉だな」
「はい。いつも食堂で注文していらっしゃったので」
「……」
《教授》先輩は書類から顔を上げると、僕の顔をじっと見た。
「……君は、なかなか物覚えがいいな」
「そうですか?ありがとうございます」
僕が首を傾げると、《教授》先輩はすぐに書類に視線を戻し、銀縁眼鏡を押し上げる。
「昼食の提案も、まあ効率的だ。手が空いていれば、明日からも頼む」
「はい」
……褒めてもらえた、のかな?
「……慣れてきたら、他の仕事も任せよう」
「はい、お役に立てるなら嬉しいです」
「……」
《教授》先輩は無言で、僕が作った食事を全部食べてくれた。
片付けようと立ち上がったところで、扉をノックする音が聞こえる。
「……入れ」
《教授》先輩が口元を拭ってから、入出を許可すると――入ってきたのは、ノクスだった。
「差し入れ、持ってきたよ」
ノクスは当たり前のように来客用の椅子に座り、手に持っていた荷物を机に置く。
お洒落な包みの、お菓子の箱だ。
「ありがとうございます」
「……お前もか」
《教授》先輩が呟くと、ノクスは怪訝な顔をした。
「……『も』?」
そこへ。
「おい、差し入れ持ってきたぞ」
イグナスさんが、顔を見せた。
来客用の椅子に座っているノクスに気付くと、あからさまに眉をひそめる。
「……お前、帰ってたのかよ」
「……悪い?」
ノクスは足を組みながら、椅子にふんぞり返り、イグナスさんを見上げる。
「また、こいつにちょっかい出してんのか」
「君こそ、僕がいない間に、ずいぶん仲良くなったみたいだけど?」
微笑みを浮かべるノクスに、イグナスさんは渋面になった。
「……関係ねえだろ」
《教授》先輩が銀縁眼鏡を押し上げ、眉間に皺を寄せる。
――そして、ぼそりと一言。
「……お前たち。よそでやれ」
それを聞いたイグナスさんは気まずそうに舌打ちすると、手に持っていた袋を置き、身を翻す。
「……仕事の邪魔できねえか。後でな」
「はい。ではまた後で」
そう言ってイグナスさんを見送ると、ノクスが小さく眉をひそめた。
「……後で?」
「はい、仕事が終わったら、迎えにきてくれるんです」
「……なんで?」
「一緒にご飯を食べているので」
「……毎日?」
「はい」
「……へえ」
「?」
「……頭が痛い」
《教授》先輩が、執務机に座ったまま、こめかみを押さえた。
――「イグナスさん」に「《狂刃》先輩」。
――それから、「ノクス」と「《毒蛇》先輩」。
……みんなの前で、間違えないようにしなきゃ。
僕は、そんな《教授》先輩を見ながら、ぼんやりとそう考えていた。
夜。
《狂刃》先輩との夕食を終えて、寮に戻る。
――扉をノックする音がした。
僕は、急いで扉を開ける。
そうして、中に入ってきた人物に抱きついた。
「ノクス、待っていました」
教わった通りの笑顔で微笑み、その身体に身を寄せる。
甘い香りがした。
「……うん」
ノクスが微笑み、僕をそっと抱き締める。
喜んでくれているのだろうか。
僕の背中を撫でながら、ノクスは何かに気付いたように、ふと机の上を見た。
「……なに、あのドラゴン。しかも二体」
その視線の先にあったのは、牙を剥いた黒いドラゴンと、翼を広げた赤いドラゴンの像。
「お土産です」
「お土産?」
「はい。《狂刃》先輩にリュンフェルト高原に連れて行ってもらったんです」
「……へえ。楽しかった?」
なぜか、ノクスの声が、少しだけ低くなった気がした。
「はい。一緒に《ドラゴン串焼き》を食べて、お土産を見て、散歩して、それから寝ました」
「……ちょっと待って。さらっと何言ってるの?」
ノクスの顔色が変わる。
何か気になることでもあったんだろうか。
「?」
「……寝たって、どこで?」
「草原です」
「……草原?」
「はい、気持ちよかったです」
そう言った瞬間――ノクスは息を呑み、固まった。
「……草原で、何したの」
「お昼寝ですけど」
「……」
「ノクス?」
首を傾げると……ノクスは頭を抱え、大きな溜息をついた。
「……君、心臓に悪いよ。脅かさないで」
「何か驚くような話、ありましたか?」
きょとんとする僕を見て、ノクスは脱力したように、椅子に腰掛ける。
そこで気がついたように、部屋を見渡した。
「そういえば、ここ、椅子が一つしかないね。今度持ってこようか」
「あ、気がつきませんでした」
前にノクスが来た時は一緒に座らなかったから、思いつかなかった。
「……ここ、座る?」
「え?」
ノクスが、冗談めかして、自分の膝の上を示す。
……僕が乗ったりしたら、重いと思うけど。
「重いですし、ベッドに一緒に座りませんか?」
そう提案すると、ノクスは一瞬言葉を失い、それから苦笑した。
「……ほんと、僕の予想を超えてくるよね、君」
「?」
「……まあいいや。君がいいなら」
そう言って、僕たちは並んでベッドの上に座る。
ノクスの手が肩に回り、僕はその身体にもたれかかった。
そのまま、たわいない話をする。
これが、「恋人らしいこと」なんだろうか。
「……もうこんな時間だね」
ノクスが、窓の外を見て、ぽつりと呟いた。
「……帰りたくないな」
……帰りたくない?
「それなら、泊まっていかれますか?」
気を利かせたつもりで言うと、ノクスが目を見開いた。
「……え?」
「狭いですが、ノクス一人なら寝れると思いますし」
「いや、君はどうするの」
「床で寝ます」
「そんなこと、させられるわけないでしょ」
僕を気遣ってくれるノクスは、やっぱり優しい。
「では、一緒に寝ますか?」
「……は?」
そう提案した途端、ノクスは硬直した。
どうしてだろう。それで問題ないと思うけど。
「……はぁ」
ノクスは、困ったように溜息をつくと――僕の頬に、手を伸ばした。
「……君、さっきから、僕のこと試してるの?」
「?」
青い瞳が、僕の目をじっと覗き込んでくる。
綺麗な顔が近づいてきて――キスされるかと思ったけれど、そのまま止まった。
「……そんなわけないか」
ノクスは顔を離し、僕の髪を撫でる。
「そんなこと、簡単に言っちゃ駄目だよ」
「?僕は別に、泊まって頂いて構いませんが」
「君のそういうところ、ほんとにさ……」
「ええと……何か間違えてましたか」
「……ううん」
そう尋ねると、ノクスは優しく笑って、首を振った。
「……僕をこれだけ振り回せるの、君くらいだよ」
そうして、僕たちはまた、キスをした。




