【第31話】「恋人になろうか」
《断罪》先輩は任務から帰ってきてから、ずっと、どこか様子が変だった。
僕が挨拶するたびに、顔を強張らせ、言葉を詰まらせる。
何か言いたいことがあるのに、それを必死で飲み込んでいるような……そんな顔だった。
また、気付かないうちに、失敗してしまったのだろうか。
――僕には、わからない。
イグナスさんは、あれからちょくちょく、研究室まで来てくれるようになった。
「ほら、差し入れだ」
「ありがとうございます、《狂刃》先輩」
「イグナスさん」は二人きりの時だけと言われたから、普段は「《狂刃》先輩」のまま。
「……あまり入り浸るなよ」
そのたびに、《教授》先輩が呆れたように銀縁眼鏡を押し上げる。
夕方になると、イグナスさんが迎えに来てくれて、一緒に夕飯を食べる。
そのまま食堂に行ったり、時々外食したり。
今日は、この前イグナスさんと行った、《気まぐれ店主の創作料理店》でご飯を食べた。
「お前、どうする?」
「《爆裂肉団子》にします」
「……あれ、気に入ったのか」
僕が何かを選ぶと、イグナスさんはいつも、どこか嬉しそうに笑う。
「イグナスさんは、何を食べますか?」
「……《秘密の黒い塊》いってみるか?」
「頑張ってください」
「お前も食えよ」
気付けば、そんな話を、自然とするようになっていた。
帰りは、ギルドまで、イグナスさんが送ってくれる。
寮へ続く廊下の前で、ふと、イグナスさんが思い出したように尋ねてきた。
「そういや、お前、あの使い道のなさそうな像、どうした?」
「あ、部屋に飾ってあります」
リュンフェルト高原に連れて行ってもらった時のお土産、「ドラゴン神像」。
――僕が買った黒いドラゴンと、イグナスさんがくれた、赤いドラゴン。
「……飾ってる?どこにだ」
「机の上です。並べたら、かっこいいかなって」
僕が答えると、イグナスさんは、小さく吹き出した。
「……机の上かよ。想像すると、すげえ絵面だな」
「よかったら、見に来ますか?」
何気なく聞くと、イグナスさんが、一瞬固まった。
「……お前、そんなこと、軽く言うなよな」
「?」
部屋に誘ったら、駄目だったんだろうか。
首を傾げると、イグナスさんは溜息をついて、僕の頭をくしゃりと撫でた。
「……また明日な」
「はい。ではまた、イグナスさん」
帰っていくイグナスさんを見送り、寮へ戻ろうとすると――
「……ねえ」
背後から、聞き慣れた声がして、僕は振り返った。
「あ、《毒蛇》先輩。任務から戻られたんですね。お疲れ様でした」
挨拶しても、《毒蛇》先輩は、笑わなかった。
なぜか、ひどく驚いたような顔で、僕を見ている。
「……今の」
わずかに、掠れたような声。
「イグナスさんって、何?」
「……え?」
聞こえてしまったらしい。
僕は一瞬、言葉に詰まった。
「イグナス」と呼ぶのは「二人きりの時だけ」と言われていたから。
「えっと……」
どう答えたらいいか迷っていると、突然腕を引かれ、通路の影に引き込まれる。
《毒蛇》先輩の腕が、僕を閉じ込めるように、壁に回った。
「……《毒蛇》先輩?」
その顔を見上げると、青い瞳が、僕を射貫くように見つめていた。
「……あいつと、したの?」
……あいつ?
イグナスさんのことだろうか。そんな言い方していたっけ。
疑問に思いながら、首を傾げる。
「……何をですか?」
「……っ」
――その瞬間。
強く、唇を塞がれた。
壁に、身体が押しつけられる。
「……?」
どうしたんだろう。
「恋人の練習」は、もう必要ないと言っていたのに。
でも、僕は教わった通りに、目を閉じた。
《毒蛇》先輩が、僕の腰を引き寄せる。
いつもの、甘い香りがした。
「……んっ」
口づけが深くなり、腕の力が、強まる。
まるで、僕がここにいることを、確かめるみたいに。
キスは、なかなか終わらなかった。
苦しくて無意識に顔を離そうとするたび、また唇を重ねられる。
「……っ、《毒蛇》、先輩」
僕は、ただ《毒蛇》先輩の腕の中で、その服にしがみつくことしかできなかった。
――長い時間が経った後。
唇が、離れた。
《毒蛇》先輩は、少し息を乱しながら、低い声で呟く。
「……こういうこと、したの?」
キスのことだろうか。イグナスさんと?
どうして、そんなことを聞くんだろう。
「していません」
「……」
僕が答えると、《毒蛇》先輩は一度だけ視線を落とし――
「……恋人になろうか」
そう、僕の耳元で、囁いた。
……恋人?
「……僕とですか?」
「うん」
「……どうしてですか?」
意味がわからなかった。
「《毒蛇》先輩なら、僕なんかより、もっといい人がいるのでは?」
誰が見ても魅力的な《毒蛇》先輩なら、恋人になりたいという人は、きっといくらでもいる。
なのに、《毒蛇》先輩は、首を横に振った。
「……君がいいんだよ」
「……僕が、ですか?」
……どうしてだろう。
人気者すぎて、綺麗な女の人は、もう見飽きてるんだろうか。
「ええと……珍獣みたいな感じですかね」
そう聞くと、《毒蛇》先輩は気が抜けたように、ふっと笑った。
「……ここまで言って、そんな受け取り方する?」
腕の力が、少しだけ弱まる。
「僕、今、普通に告白してるんだけど」
「告白、ですか」
なぜ、僕なんかがいいのかはわからないけど……頷いた。
「わかりました。僕でいいなら」
せっかく選んでもらえたのだから、今度こそ、失敗しないようにしたい。
「《毒蛇》先輩に喜んでもらえるように、頑張ります」
「……」
そう笑って言うと、《毒蛇》先輩は、なぜか少しだけ苦しそうに、目を伏せた。
その指先が、僕の頬に触れる。
「……ねえ、僕の名前、呼んで」
……名前?
「……《毒蛇》先輩?」
そう呼びかけると、《毒蛇》先輩は、静かに微笑んだ。
「……違うよ」
そして、僕の耳元に、唇を寄せる。
「――ノクス」
まるで、秘密の言葉みたいに。
「ノクスだよ。僕の名前」
「ノクス、さん?」
それが、《毒蛇》先輩の……本当の名前。
「ノクスでいいよ。恋人でしょ」
「……ノクス」
「……うん」
《毒蛇》先輩――ノクスが、僕をそっと抱き締める。
その腕は、とても温かかった。
なのに、ノクスは、吐き捨てるように呟く。
「……僕、最低だな」
……?
どうして、そんなふうに言うんだろう。
「ノクスは、いつも優しいです」
「……」
答えはなかった。
僕を抱き締める腕の力が、強まる。
しばらくそのまま抱き締められていると、ふと、ノクスは僕の顔を見て――
いつものように、優しく微笑んだ。
「……今度こそ、大事にするから」
……今度こそ?
告げられた言葉の意味は、よく、わからなかった。




