【第27話】居場所
一日しか経っていないこともあり、僕が辞表を出したことは、ほとんど知られていなかった。
《教授》先輩たちに連れられて深夜に戻った僕を、ワイルドウルフさんが渋面で出迎える。
「……お前な。あんな封筒だけ置いて、黙って出て行くんじゃねえ」
「お騒がせして、すみませんでした」
頭を下げると、大きな溜息が落ちた。
「……今さら何かあったら、寝覚めが悪いだろ」
ワイルドウルフさんはぽつりと言い、白髪交じりの頭を、ぐしゃぐしゃと掻く。
「彼は、これから私の研究室の助手として置く」
「……そうか」
《教授》先輩の唐突な言葉にも、ワイルドウルフさんは反対しなかった。
「なら、今までの雑用は他の奴に回す。お前はそいつの手伝いに専念しろ」
「はい、わかりました」
カウンターを離れると、《教授》先輩は僕に寮へ戻るよう促す。
「今日は休め。……明日から、少しずつ仕事を教える」
「はい、よろしくお願いします」
《狂刃》先輩も《毒蛇》先輩も、何か言いたげに僕を見ていたけれど――
結局、何も言わずに、ギルドを後にした。
※※※
翌朝、僕が食堂へ挨拶に行くと、ユリアさんが出迎えてくれた。
「……聞いたよ。あの眼鏡の手伝いすることになったって」
あの眼鏡……《教授》先輩のことか。
「坊や、働き者で助かってたのに、残念だよ」
ユリアさんは肩をすくめて、笑う。
そして、僕の頭を、そっと撫でてくれた。
「……無理するんじゃないよ。また、いつでも飯食いに来な」
「はい、ありがとうございます」
――そうこうしているうちに、《教授》先輩がギルドにやってきた。
「おはようございます。今日からよろしくお願いします」
「……ああ」
僕が出迎えて頭を下げると、《教授》先輩は、一瞬遅れて頷いた。
「まずは研究室へ案内する。……ついてこい」
ギルドには、通常の訓練場はもちろん、毒や魔術など、各々の得意分野の研究をするための施設もある。
魔術師は国家資格でもあるから、国公認のこのギルドでは、任務で魔術の使用や研究をすることが許可されていた。
中でもAランクの魔術師である《教授》先輩には、専用の部屋が与えられているらしい。
一度も入ったことのないそこへ、僕は足を踏み入れた。
最初に感じたのは――インクのような匂い。
《教授》先輩の研究室は、圧巻だった。
壁一面の本棚に、難しそうな本がびっしりと収まっている。
木製の長机には、魔法陣みたいな模様が書かれた紙が何枚も置かれ、そばには呪符のようなものも並べられていた。
執務机の上には、積まれた書類。
その正面には、来客用の机と椅子があった。
小さな窓がひとつだけで、朝でも少し薄暗い。
その代わりのように置かれているランプの光は控えめで、静かで落ち着いた雰囲気を醸し出している。
「隣は、仮眠室になっている」
そう言われて奥を見ると、扉が見えた。続き部屋になっているらしい。
「すごいですね。魔術師の部屋っていう感じがします」
「……君らしい感想だな」
銀縁眼鏡を押し上げ、《教授》先輩は呆れたように呟く。
「君には、まずこの部屋の環境整備を任せる」
「環境整備、ですか?」
「そうだ。君は家事が得意なのだろう。研究に没頭していると、外観への注意がおろそかになりがちだからな」
よく見ると、本棚にはうっすらと埃が溜まり、本のタイトルの並びもばらばらだった。
花瓶らしきものもあるけれど、何も飾られていない。
「つまり、お部屋を綺麗にすればいいんでしょうか?」
「ああ。できる範囲でいい。食事の休憩も、自由に取ってかまわない」
「仕事」としては、ずいぶん恵まれている気がする……いいんだろうか。
「私は基本的にこの部屋にいる。何か不明点があれば聞け」
「はい、わかりました」
……そして、僕はさっそく掃除用具を取りに向かった。
掃除は上から――ということで、僕はギルドの備品から脚立や雑巾を借り、本棚の埃落としから始めることにした。
脚立を本棚に立てかけ、雑巾を持ち、棚の上へと腕を伸ばす。
……綺麗に拭きたいのに、奥まであとちょっと、届かない。
つま先を伸ばすと――ふいに脚立が、ぐらりと傾いだ。
「――わっ」
落ちる、と思ったところで――
「――《軽身》」
低い声が響く。
身体が、ふわりと浮いた。
同時に脚立の動きも止まる。
驚いて《教授》先輩の方に顔を向けると――
《教授》先輩は執務机に座ったまま、僕に向かって手をかざしていた。
眉根を寄せながら立ち上がり、こちらに近づいてくる。
「全く……脅かすな」
ゆっくりと、身体が床に降りる。
「ありがとうございました」
《教授》先輩は脚立を受け止め、大きく息を吐いた。
「無茶をするな。怪我をすれば、作業効率が落ちる」
「はい、すみません」
僕が頭を下げると、《教授》先輩は口をつぐみ、何かを言いかける。
そして――
「……責めているわけではない」
ぽつりと、呟いた。
それからも、掃除を続けていると――ふいに、扉をノックする音がした。
「入れ」
《教授》先輩が入室を許可すると、入ってきたのは《狂刃》先輩だった。
手に、大きな袋を持っている。
「あれ、《狂刃》先輩。どうしたんですか?」
「とっくに昼過ぎだぞ。お前、飯食ってねえだろ」
「もうそんな時間ですか?」
……掃除に集中していて、気付かなかった。
「そんなことだろうと思った」
呆れたように言って、《狂刃》先輩は来客用の机の上に、持ってきた袋を置いた。
紙に包まれたパンや葡萄酒の瓶が、次々と取り出される。
「わざわざ持ってきてくださったんですか?ありがとうございます」
お礼を言うと、《狂刃》先輩は鼻を鳴らした。
「別に……つーか、お前、何してんだよ」
「お掃除です」
「それは見りゃわかる」
《狂刃》先輩は、雑巾を持つ僕の姿を見て眉をひそめ、書類に向かっている《教授》先輩にぼやいた。
「おい、『助手』って……これ、ただの雑用係だろ」
「……環境整備は大事だ」
《教授》先輩は銀縁眼鏡を押し上げながら、短く答える。
「そうですよね。《教授》先輩はお忙しいですから」
「はぁ……そういうとこ、相変わらずだな」
《狂刃》先輩は気が抜けたように肩をすくめ、溜息をつく。
でも次の瞬間、ふと真剣な表情になった。
「……仕事が終わる頃、迎えに来る」
「……え?」
きょとんとして首を傾げると、《狂刃》先輩はぶっきらぼうに言った。
「食堂の手伝いはやめても、飯は食うだろ」
「はい」
「だから、迎えに来る」
「……わざわざですか?」
問いかけると、《狂刃》先輩は一瞬声を詰まらせ――視線を逸らした。
「……別にいいだろ。帰るついでだ」
「はい、ありがとうございます」
「……ああ」
《狂刃》先輩が、小さく笑う。
その様子を、《教授》先輩は、ただ静かに見ていた。
その、少し後で。
《毒蛇》先輩が、研究室に訪ねてきた。
「ちょっと話せる?」
そう僕に問いかけ、《教授》先輩をちらりと見る。
「……またか」
《教授》先輩は溜息をつき、銀縁眼鏡を押し上げる。
「少し出てくる」とだけ言い、研究室を後にした。
研究室に二人きりになると、《毒蛇》先輩が、口を開く。
「調子はどう?」
「まだ掃除しかしていませんが……役に立てるように、頑張りたいです」
「……そっか」
《毒蛇》先輩の指先が、僕の頬に触れる。
まるで、確かめるように。
「君は、そういう子だよね」
「……《毒蛇》先輩?」
僕は、その青い瞳を見上げる。
《毒蛇》先輩は、いつものように穏やかな顔で、笑った。
「明日から、任務に行くんだ。だから、挨拶しておこうと思って」
「任務、ですか?」
「うん。……『恋人の練習』も、もう必要なさそうだし」
そう言われて、僕は思わず問いかけていた。
「僕、ちゃんとできるようになりましたか?」
《毒蛇》先輩は、一瞬だけ間を置いて――優しく微笑んだ。
「そうだね。上手にできてたよ……誰にでも」
あのお店でのことを言っているのだろうか。
《毒蛇》先輩がそう言ってくれるなら、ちゃんとできるようになったんだ。
思わず、顔がほころぶ。
「《毒蛇》先輩のおかげです。ありがとうございました」
「……」
指先が、そっと離れた。
「じゃあね」
いつもと同じ笑顔。
「はい、お気をつけて」
……いつもの、挨拶のはずなのに。
なぜだか、遠くへ行ってしまうような気がした。
夕方になると、再び扉をノックする音がした。
「終わったか」
《狂刃》先輩は、本当に僕を迎えに来てくれた。
掃除を終えた部屋の中を見渡し、また呆れたように肩をすくめる。
綺麗に磨き終わった本棚と床。
タイトル順に並べた本。
外出を控えるように言われていたから、花瓶には訓練場から摘んできた花を生けた。
「……お前、ほんとに真面目だな。一日中掃除してたのかよ」
「お仕事ですから」
ずっと机に向かって仕事をしていた《教授》先輩も、意外そうに呟く。
「……人の手が入ると、違うものだな」
「こんな感じで大丈夫でしたか?」
尋ねると、《教授》先輩はまた銀縁眼鏡を押し上げた。
「……ああ。整然とした空間は、集中力の維持にも効果的だ」
……満足してもらえたらしい。よかった。
――そして、今までみたいに、《狂刃》先輩と一緒に食堂で夕飯を食べる。
「今日も、牛肉の煮込みですね」
「まあな。結局これだ」
何気ない会話をしながら、食事していると。
《狂刃》先輩は、ふと言葉を探すようにためらい、それから問いかけてきた。
「……お前、次の休み、いつだ?」
「お休みですか?……ちょうど明日ですけど」
僕が答えると、《狂刃》先輩は何気ない調子で続ける。
「なら、一日、どっか行くか」
「お出かけですか?」
「最近、まともに外出てなかったろ」
僕が任務や外出を控えるように言われていたことを、気にしてくれたんだろうか。
「でも、《狂刃》先輩はお仕事ですよね?ご迷惑じゃ……」
「迷惑じゃねえ」
言い終わる前に、きっぱりと言われ、目を丸くする。
「気にすんな。俺が休みだって言えば休みになるんだよ」
「……そういうものなんですか」
もう、夜の「恋人の練習」はない。
《狂刃》先輩と出かける約束をして、僕はそのまま、寮へと戻った。




