【第20話】静かな侵食~恋人の練習~
ある日の夕方。
いつものように、《狂刃》先輩と向かい合って食事をしていると――
「……任務が入った」
ぽつりと、呟く声。
僕は食事の手を止め、顔を上げる。
「そうなんですね。どちらに行かれるんですか?」
「ゼルヴァトールだ」
そう言われて、施設で習った地理を、頭の中に思い描く。
ゼルヴァトール要塞都市。東の国境の防衛を担う、大都市だ。
「……隣国の連中を引き入れて、諜報活動を斡旋してる組織の殲滅だ」
《狂刃》先輩の口調は、重い。
「拠点を全部潰す……一月は帰れねえ」
Aランクの暗殺者である《狂刃》先輩に、高度な任務が与えられるのは、当たり前のことだ。
なのに、その表情はなぜか曇っている。
「……任務、行きたくないんですか?」
首を傾げて、《狂刃》先輩の金色の瞳を覗き込む。
その瞳が、少しだけ、揺れたような気がした。
※※※
ギルドでの夕食を終えた後。
「おい……あんた」
《狂刃》は、同じくギルドから出て行こうとする《幽影》を呼び止めた。
《幽影》は足を止め、視線だけを《狂刃》に向ける。
「明日から、任務でしばらく空ける」
《狂刃》は一度、言葉を選ぶように躊躇い――それでも続けた。
「……あんたと、あいつの関係は、知らねえが」
「……」
「……あいつを、頼む」
《幽影》は、《狂刃》に向き直り、静かに問いかけた。
「……『頼む』とは、何を指す?」
「……」
その緑の瞳が、まっすぐに《狂刃》を射貫く。
まるで、すべてを見透かしているかのように。
「『あいつから遠ざけろ』とでも言うのか」
《狂刃》は、一瞬息を呑む。
視線を逸らしかけ――そんな自分に苛立ったかのように、小さく舌打ちした。
《幽影》は、そんな《狂刃》から視線を逸らさぬまま、告げる。
「……私は、あの子の命と、意思を守るだけだ」
《狂刃》は、その言葉の意味を噛みしめるように《幽影》を見返し――わずかに、頷いた。
「……それでいい」
※※※
翌朝。
僕が厨房の仕込みの手伝いをしていると、《狂刃》先輩がやってきた。
これから遠出することが一目でわかる旅装に、背中には、大きな斧。
「おはようございます。これから出発ですか?」
「……ああ」
《狂刃》先輩は、僕の顔をじっと見つめた。
――そして、短く告げる。
「じゃあな」
「……あれ?朝ご飯、食べて行かないんですか?」
「……顔を見に寄っただけだ」
――わざわざ、僕に挨拶しに来てくれたんだろうか。
「そうなんですか?お気をつけて」
「……気をつけるのは、お前のほうだろ」
《狂刃》先輩は、眉をひそめて――
一瞬だけ、何かを言いかけて。
それを飲み込むように、僕の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。
しばらくして、《毒蛇》先輩がやってきた。
食堂をちらりと見渡して、意外そうに呟く。
「おはよう。今日は、彼、来てないんだ」
「はい。任務に行かれました」
「へえ……なるほどね」
《毒蛇》先輩は席に着くと、少し考えるように、僕を見上げた。
「じゃあ、夕食は僕と一緒にどう?君がよければ、だけど」
「はい、かまいません」
「よかった。今度は別の店に連れて行ってあげるよ」
「別の店、ですか?」
てっきり、ギルドで食事するものだと思った僕は、首を傾げる。
《毒蛇》先輩は微笑んで、声を潜めた。
「――いい機会だから、また色々教えてあげる。前の続き、ね」
「ありがとうございます。勉強になります」
お礼を言うと、《毒蛇》先輩は、わずかに目を細める。
「ふふ……じゃあ、仕事が終わる頃、迎えに来るね」
「わかりました」
そして、一日の手伝いを追えた後。
約束通り、《毒蛇》先輩は食堂へやってきた。
「お疲れさま」
なぜか、手に小さな籠を持っている。
中には、小瓶のようなものが、いくつか見えた。
僕の視線に気付くと、《毒蛇》先輩は、ただ微笑む。
「行く前に、ちょっと準備しようか」
「……準備、ですか?」
首を傾げると、《毒蛇》先輩は、まるで内緒話でもするかのように、僕の耳元で囁いた。
「……君の部屋、行っていい?」
……僕の部屋?どうしてだろう。
でも、特に拒否する理由はない。
「はい、どうぞ」
そう答えると、《毒蛇》先輩は、予想していたかのように肩をすくめた。
「……君、いくらなんでも無防備すぎるでしょ。もう少し、疑った方がいいよ」
「?《毒蛇》先輩を疑う理由は、ないですよね」
《毒蛇》先輩は、ほんの一瞬だけ、僕を見つめて――
「……まあ、いいや。行こうか」
それ以上何も言わず、歩き出した。
「……へえ、寮の部屋って、こんな感じなんだね」
部屋に入ると、《毒蛇》先輩は、物珍しそうに辺りを見回す。
木製の机と椅子に、寝台、そしてクローゼットと、大きな姿見。
「ずいぶん簡素だね。不便じゃない?」
「いえ、十分すぎるくらいです」
施設で暮らしていた僕にとっては、個室を貸してもらえるというだけで、本当にありがたい。
でも、《毒蛇》先輩にとっては違うらしい。
「じゃあ、準備していこうか」
「はい、何をすればいいでしょう?」
僕が問いかけると、《毒蛇》先輩は、手に持っていた籠を机の上に置いた。
「今日は、身だしなみを整える練習」
「身だしなみ、ですか?」
「そう。この前言ったでしょ?デートの服装選びには『誰とどこに行くか』を基準にするといいって」
そうして、にこりと微笑む。
「僕に合わせて、服を選んでみようか。行く場所は、この前行ったカフェと同等の店」
……それは、すごく高級な店なんじゃないだろうか。
「この前買った服、持ってるよね?」
「はい」
僕はクローゼットを開ける。
中には、この前《毒蛇》先輩が買ってくれた服が、ずらりと並んでいた。
でも結局、僕には使い所がわからず、そのままになっている。
「この中で、どれを着ていったらいいと思う?」
《毒蛇》先輩は、僕の反応を試すように、軽い調子で聞いてくる。
……正直、全然わからなかった。
思わず《毒蛇》先輩の服装を見る。
「僕に合わせて選んでみようか」と言われたその服装は、落ち着いた藍色のシャツに、黒い細身のパンツ。
その上から、高級そうな黒のジャケットを羽織り、アクセサリーはシンプルな銀のネックレスだけ。
僕はまた、クローゼットに視線を戻す。
でも、何を選べば「正解」なのか、見当もつかなかった。
クローゼットの前で固まっていると、《毒蛇》先輩が、後ろでふっと笑う。
「難しい?」
「はい、すみません、全然わかりません」
「じゃあ、ヒント。『清潔感』と『落ち着き』。それから『色』」
「清潔感に、落ち着きに、色……」
僕は《毒蛇》先輩とクローゼットを見比べながら、1つずつ選んでいく。
「……これで、どうでしょうか?」
選んだ服を、《毒蛇》先輩に見せる。
「清潔」そうな白いシャツに、「落ち着いて」見えそうな黒いパンツ。それから、《毒蛇》先輩と同じ、黒色のジャケット。
《毒蛇》先輩はそれを見て、にこりと微笑む。
「うん、いい感じだよ」
「そうですか?」
間違ってはいなかったようで、ほっとする。
「でも、ジャケットはこっちの方がいいかな」
《毒蛇》先輩はクローゼットから、薄手の紺色のジャケットを取り出す。
「君の雰囲気なら、黒一色より、こういう素材や色を混ぜた方が似合って見えるよ」
「……自分に似合うかも、考える必要があるんですね」
……「恋人」って、みんな、こんなに色々考えているのか。
僕の考えを読んだかのように、《毒蛇》先輩は穏やかに言う。
「大丈夫。こういうのは、経験を積めばすぐに選べるようになるから」
「そうなんですね。後で練習します」
「……そんなに気合いを入れるものでもないけど」
《毒蛇》先輩は眉間に皺を寄せる僕を、面白そうに見ていた。
「じゃあ、最後は簡単な問題にしようか。アクセサリ-は、どれにする?」
そう言われて、僕は少しだけ考える。
アクセサリーと言われても、ほとんど持っていない。
すぐに頭に浮かんだのは、あの薄緑色の輝きだった。
「これですか?」
僕は、クローゼットにしまってあった小箱から、《毒蛇》先輩から買ってもらったブレスレットを取り出す。
《毒蛇》先輩は、そんな僕を見て、目を細めた。
「……正解」
選んだものに着替えると、《毒蛇》先輩は満足げに頷く。
「うん、いいね。じゃあ、仕上げにしようか」
「仕上げですか?」
「そう。ちょっとそこに座って。櫛、あるよね?」
「はい」
言われた通り椅子に座り、机の中から櫛を取り出す。
それを受け取ると、《毒蛇》先輩は持ってきた籠の中から、いくつかの小瓶を選び、机の上に並べた。
「服装に合わせて、髪も整えると、ぐっと印象が変わるよ」
《毒蛇》先輩は僕の後ろに立ち、僕の髪に櫛を通す。
その手つきは手慣れているように見えるのに、とても丁寧だった。
「君は元がいいし、少し整えるだけで見違えるはずだよ」
「そうですか?」
そうして、小瓶の中身を手に取り、《毒蛇》先輩は、僕の髪に指を差し入れる。
時折、何かを確認するように手が止まり、ゆっくりと絡めるように整えられていく。
ふんわりと、甘くていい香りがした。
されるがままにしていると、数分もしないうちに、《毒蛇》先輩の手が離れた。
「いいよ。ほら、鏡見てみて」
立ち上がり、全身鏡の前に立つ。
そこに映っていたのは――僕じゃないみたいだった。
いつも無造作に流していただけの黒髪は耳にかけられ、毛先にまで綺麗な艶がある。
白いシャツと黒いパンツの落ち着いた印象なのに、紺色のジャケットのおかげが、どこか柔らかい雰囲気にも見えた。
ジャケットから覗く手首には、《毒蛇》先輩からもらったブレスレットが輝いている。
ギルドにいるときは、いつも普段着代わりの黒装束ばかり着ているから、見慣れた自分の姿のはずなのに、まるで別人みたいだ。
「すごいですね。なんだか変な感じがします」
「大丈夫。よく似合ってるよ」
《毒蛇》先輩は僕の姿をじっと眺めて、満足げに微笑む。
「じゃあ、実践。店に行ってみようか」
その手が、自然に僕の指に絡められた。
《毒蛇》先輩に連れられて入ったのは、見るからに高級そうな店だった。
天井からは大きなシャンデリアがぶら下がり、席には高そうなテーブルクロスがかけられ、花まで飾られている。
明らかに僕には場違いな気がしたけれど、店員は一瞬こちらを見て、すぐに表情を整え、恭しく頭を下げた。
席まで案内される間に、すれ違う客や店員の視線が、《毒蛇》先輩に集中する。
でもその後に、ほんの一瞬だけ、その視線がこちらにも向いた気がした。
席に着くと、僕は《毒蛇》先輩に、そっと囁く。
「……あの、僕、こんなところに来て大丈夫でしょうか」
何か失敗してしまったら、《毒蛇》先輩に迷惑をかけてしまうかもしれない。
「大丈夫だよ。今日は練習だから」
《毒蛇》先輩は、僕を安心させるように、穏やかに微笑んだ。
「君、施設で育ったんだよね?こういう場所での食事のしかた、教わったことある?」
僕は少し考えて、首を振った。
「知識としては、少し聞いたことはありますが……実際に食べたことはないです」
「そう。なら、最初は僕の真似をすればいいよ」
《毒蛇》先輩は、皿の上に置かれたナプキンを、自分の膝の上で広げた。
それを見て、僕も同じようにする。
「こうですか?」
「うん。それでいい」
そうこうしているうちに、最初の料理が運ばれてくる。
《毒蛇》先輩は、僕に見せるようにしながら、綺麗な所作で食事を始めた。
「ナイフとフォークは、料理がくるたび、端から順に使うんだよ」
真似してやってみると、少し音が鳴った。
「音をたてないよう、気をつけて」
「はい。難しいですね」
「力が入りすぎてるね。そんなに握りしめなくて大丈夫」
《毒蛇》先輩は、ナイフを持つ僕の指先を、そっと包む。
言われた通りに、力を抜く。
「そう。そのまま、背筋、もう少し伸ばして」
ナイフを軽く握ったまま、力を入れすぎないよう、姿勢を正す。
「こんな感じですか?」
「そう。綺麗だよ」
失敗しないよう、食事に集中していると、《毒蛇》先輩が苦笑する気配がした。
「食べるときは、ずっと皿を見ない」
「?」
「相手がいるからね。時々、顔を上げて、会話を楽しむんだよ」
言われて顔を上げると、《毒蛇》先輩も、こちらを見ていた。
目が合うと、にこりと笑う。
「おいしい?」
「おいしいですけど……緊張します」
「ふふ。最初はみんなそうだよ」
こうして――
《毒蛇》先輩に全部教えてもらい、僕はどうにか「高級店での食事」を終えることができた。
食事を終えて外に出ると、もう外は真っ暗だった。
「ギルドまで送っていくよ。最近、なんだか物騒だから」
「ありがとうございます」
そうして、また自然に指を絡められる。
恋人なら、それが普通だと聞いたから、僕も特に気にしない。
並んで歩く。
ふと、《毒蛇》先輩が、口を開いた。
「……彼もしばらく戻らないみたいだし。君さえよければ、また、食事に行こうか」
「また、ですか?」
「うん。こういうのは慣れだからね」
「でも、そんなに毎回、ご迷惑になりませんか?」
――こんな高級な店に何度も。
「大丈夫だよ。迷惑なんかじゃないから」
僕の心配をよそに、《毒蛇》先輩は微笑む。
「……君、どこまで変われるんだろうね」
その瞳には、興味の色が浮かんでいるようにも見えた。
迷惑にならないなら、もっと「正しい恋人」について知りたい。
……もう、誰かを怒らせないように。
「ありがとうございます。失敗しないように、ちゃんと覚えます」
「……」
ギルドに着く前の、路地で。
《毒蛇》先輩が、立ち止まった。
肩に手を置かれ、綺麗な顔が、近づいてくる。
……キスの練習かな?
近づいてくる顔を、ただ見つめる。
避ける理由は、思いつかなかった。
《毒蛇》先輩は、そっと笑う。
「……目、閉じて」
「え?」
「キスするとき。君、この前も、目、開けたままだったでしょ」
そう言われ、初めてそれを意識する。
「そういうものなんですね」
「……うん」
僕は、そのまま言われた通りに、目を閉じた。




