【第17話】全部いいです
朝、僕が食堂の手伝いをしていると、いつもより少し早い時間に《狂刃》先輩がやってきた。
「おはようございます。今日は早いですね」
《狂刃》先輩は僕の姿を確かめるように見て、躊躇いがちに口を開く。
「……《毒蛇》の野郎、何か妙な真似しなかったか」
いきなりそんなことを聞かれて、僕は面食らった。
――昨日は色々教えてもらって、服も買ってもらい、高価なブレスレットまで頂いてしまった。
むしろ、もらってばかりで申し訳ないくらいだ。
「妙な真似って、どんなことでしょう?」
僕が聞き返すと、《狂刃》先輩は脱力したように溜息をついた。
「……お前に聞いても無駄か」
どっかりと食堂の椅子に腰を下ろして、メニューを開く。
そこへ、《幽影》先輩が入ってきた。
ちらりとこちらを確認して、静かに近づいてくる。
「……体調はどうだ」
「大丈夫です」
「……そうか」
いつも通りの、無駄のない会話。
でも、その顔は、ほんの少しだけ微笑んでいる。
カウンターのワイルドウルフさんが、強面の顔に恐怖の表情を貼り付けて呟いた。
「《幽影》……お前、独身生活が長すぎて、とうとうおかしくなっちまったのか?」
《幽影》先輩の深い緑色の瞳が、何か言いたげにワイルドウルフさんに向く。
そして。
「……孫は元気か」
――唐突に、《幽影》先輩が、そう口を開いた。
「……」
ワイルドウルフさんの軽口が、ぴたりと止まる。
僕と《狂刃》先輩も、一瞬、声を失った。
……孫?
「お孫さんがいらっしゃるんですか?」
「《幽影》……てめぇ」
低い声で唸り、《幽影》先輩を睨み付けるワイルドウルフさん。
「――楽しそうな話、してるじゃないか」
ふと、勝ち気そうな女性の声が割り込んでくる。
振り向くと、ユリアさんが立っていた。
「……うるせぇのが来やがったな」
ワイルドウルフさんが、明らかに嫌そうな顔をする。
その反応をむしろ楽しむかのように、ユリアさんは肩をすくめてみせた。
「つれないねえ。昔はしつこいくらい『俺と結婚しようぜ、《黒百合》!!』とか言ってたくせにさ」
「やめろぉぉぉ!!言うな!!」
ワイルドウルフさんは一瞬で青ざめ、カウンターから飛び出してくる。
こんなに慌てている姿を見るのは、初めてだ。
必死に遮ろうとするけれど、ユリアさんはよく通る声で、つらつらと言う。
「あれだけ言い寄ってきたくせに、さっさと堅気の女ひっかけて結婚してさ。『孫が生まれたから』であっさり現役引退した時は驚いたよ」
「言うな!!やめろ!!だいたい、おまえこそ『高嶺の花』ぶって本気にしてなかったろ!!……今は見る影もねえが」
「――何か言ったかい?」
「……別に」
周りの暗殺者たち――特に僕と同じくらいの年齢の人たちは、遠慮がちにこちらを見ながらも、興味深げに聞き耳を立てている。
ワイルドウルフさんは、諦めたように首を振り、頭を抱えた。
僕も、初めて聞く内容に、目を丸くする。
「お二人とも、暗殺者だったんですか?」
「そうだよ。このジジイは《狼》。あたしは《黒百合》ってコードネームでさ。そこの《幽影》とも同期なんだ」
……知らなかった。
「《狂刃》先輩、知ってましたか?」
思わず問いかけると、《狂刃》先輩は頷いた。
「……まあな。俺がここに来た時は、まだ《狼》だったからな」
そして、ぼそりと付け加える。
「……引退した理由は、初めて聞いた」
「はあ……若い連中の前で、格好つかねえだろ……」
ワイルドウルフさんが、がっくりと肩を落とす。
その姿をからかうように眺めてから、ユリアさんはふと思い出したように《幽影》先輩を見た。
「あんたがいきなり若返ったのも、その頃じゃなかったかい?」
《幽影》先輩は、静かにユリアさんを見返す。
あまり表情が動くことのないその顔は、彫刻のように整っている。
《毒蛇》先輩の華やかさとは違って、月みたいに静かなのに、目が離せない。
「あの時は、目玉が飛び出るかと思ったよ。まったく、魔術ってのは便利なもんだ」
それを聞いて、僕は身を乗り出す。
「やっぱり、魔術なんですか?」
ずっと疑問に思っていた、《幽影》先輩の見た目の理由。
尋ねると、ユリアさんは腰に手を当てながら頷く。
「そうだよ、こいつは魔術師免許も持ってるのさ。だから今でも、こうして現役やれてる」
「……あんなに強いのに、魔術まで使えるんですね」
僕が感嘆の声を漏らすと、ユリアさんは肩をすくめた。
「反則だろ?あたしも使えりゃ今頃は……」
即座に、ワイルドウルフさんが口を挟む。
「想像すんな。外見がいくら良くても中身はババアだ」
「――久しぶりに、鞭でぶっ叩いてやろうか?」
「……やめとく」
軽口の応酬の中、《幽影》先輩が冷静に指摘する。
「……肉体を戦いに最適化しているだけだ。視覚的印象に意味はない」
「でも、《幽影》先輩は見た目も本当にかっこいいです」
《ファントム》がもし実在していたら、きっとこんな感じなんだろうな。
「強くて、かっこよくて……本物の暗殺者って感じで、憧れます」
「……」
尊敬の気持ちを込めて言うと、《狂刃》先輩が、無言で僕と《幽影》先輩を交互に見た。
《幽影》先輩も、何か言いたげに、じっと僕を見つめる。
「……?」
深い緑色の瞳に映るのは、きょとんとした僕の顔。
「……だから、そのツラで意味深な視線を向けるな!!誤解する要素しかねえぞ!!」
ワイルドウルフさんの叫びが、食堂にこだました。
食堂が騒がしくなり、僕が注文と配膳のために動き回っていると、《毒蛇》先輩が入ってきた。
「おはよう。昨日は楽しかったね」
いつもの穏やかな笑顔で《毒蛇》先輩は言い、席につく。
「はい、ありがとうございました」
僕も注文を聞くために、《毒蛇》先輩のテーブルに向かった。
食事をしていた《狂刃》先輩が、《毒蛇》先輩をじろりと見る。
「……てめえ、また妙なこと教えてねえだろうな」
「妙なことって、例えば?」
《毒蛇》先輩が面白そうに聞き返す。
《狂刃》先輩は僕の顔を見て、言葉に詰まった。
「普通にデートしてきただけだよ、ね?」
《毒蛇》先輩は、僕に向かって確認するように、にこりと微笑む。
「服屋を見て、食事して、ブレスレットを買って……あれ?」
視線が僕の手首に移り、《毒蛇》先輩は、不思議そうに首を傾げた。
「あのブレスレット、つけてないんだ?」
「さすがに、宝石は持ち歩けません。落としたら大変なので」
《狂刃》先輩が固まる。
「……はぁ?宝石?」
唖然とした表情で、《狂刃》先輩は《毒蛇》先輩の顔を凝視した。
「……てめえ、こんな天然にそんなもんやったのか。何がしたいんだよ」
「どんな反応するかなって。『高価な物を贈って、相手に自分を印象づけるんですね』って言われたよ」
その瞬間、《狂刃》先輩は、吹き出すのをこらえるかのように、唇を引き結んだ。
手に持っていた麦酒のグラスが、一瞬大きく揺れる。
「面白いよね、この子」
にこにこと笑う《毒蛇》先輩。
「……こいつで遊ぶな、マジで」
《狂刃》先輩は麦酒を一口含み、表情を戻す。
――注文を聞いて厨房に戻る前。
《毒蛇》先輩は、さりげなく身を乗り出して――
「……後で、昨日の復習しようか」
僕にだけ聞こえる声で、そっと囁いた。
仕事が終わった後は、また狂刃先輩と一緒に、夕飯を食べた。
「じゃあな」
「はい、お疲れ様でした」
僕みたいな寮暮らしの暗殺者以外は、一日の仕事が終わると、それぞれ自分の拠点に戻っていく。
ギルドから帰っていく《狂刃》先輩を見送って、僕は《毒蛇》先輩との約束の場所へ向かった。
――ギルドの野外訓練場。
この間、《幽影》先輩と来たばかりだ。
ベンチを見ると、《毒蛇》先輩は、もう座って待っていた。
僕の気配に気付いたのか、すぐに振り返る。
「お疲れさま」
「お疲れ様です」
僕は足早に近づき、隣に腰掛けた。
「すみません、お仕事の後にわざわざ」
「いいよ、僕から誘ったんだから」
昨日、《毒蛇》先輩から、会える時はここで「恋人の練習」をしようと言われていた。
どうしてこの場所なのかと尋ねたら、《毒蛇》先輩いわく、「月明かりの下とか、雰囲気あるでしょ」らしい。
ギルドの灯りが完全に落ちることはないけれど、この時間になると、もう訓練場を使っている人はいなかった。
「じゃあ、昨日の復習から始めようか」
「はい、よろしくお願いします」
《毒蛇》先輩が、試すように僕の顔を覗き込んでくる。
「恋人の距離、ちゃんと覚えてる?」
「はい、こうですよね?」
僕は《毒蛇》先輩にぴったりくっつき、その手に自分の手を重ねた。
「うん、ちゃんと覚えてるね」
《毒蛇》先輩の指先が、僕の手に絡まる。
「今日は、相手を喜ばせる方法を練習してみようか」
「喜ばせる練習ですか?」
「うん、まずは本当に基本的なことから。『相手のいいところを見つけて褒める』だけ」
「褒める、ですか」
「そう。褒められて嫌な気分になる人はいないでしょ?それが恋人ならなおさら。相手は『自分を深く知ってくれている』って喜ぶものだよ」
「なるほど」
《毒蛇》先輩は、また試すような微笑みを浮かべて、僕を見た。
「試しに、僕のこと褒めてみて」
「……」
僕は、言葉に詰まった。
《毒蛇》先輩が、意外そうに呟く。
「……僕、そんなに魅力ない?」
僕は、慌てて首を振る。
「いえ、沢山ありすぎて、どう褒めたらいいかわからなかったので」
「へえ?例えば?」
「ええと……」
僕は、指を折りながら答えた。
「綺麗で、かっこよくて、お洒落で、姿勢が良くて、優しくて、余裕があって……」
《毒蛇》先輩が、小さく吹き出す。
「……じゃあ、どこが一番いいと思う?」
「全部いいです」
即座に答えたその瞬間、空気が止まった気がした。
《毒蛇》先輩が、わずかに目を見開く。
一拍置いて、その唇が、じんわりと笑みの形を作った。
「……それ、反則じゃない?」
《毒蛇》先輩はくすくす笑いながら、僕の頬に手を伸ばしてくる。
「……キスの練習も、する?」
耳元で、囁くような声が落ちた。
「君、どうやって息したらいいか、わからないって言ってたでしょ?」
「はい」
「呼吸は、普通にしてて大丈夫だから。落ち着いて合わせてみて」
「そうなんですか。やってみます」
頷くと、《毒蛇》先輩は苦笑した。
「もっと気楽にして大丈夫だよ」
そうして、僕の顎を軽く持ち上げる。
――唇が、重なった。
《毒蛇》先輩に言われたことを思い出しながら、いつも通り、ゆっくり呼吸する。
《毒蛇》先輩は僕の反応を確かめるように、わずかに唇を離した。
「……そう、上手だよ」
笑いを含んだ声。
そして、すぐにまた口づけられた。
《毒蛇》先輩は、僕の腰を支えるように引き寄せ、舌を絡めてくる。
「ん……っ」
ちゃんと息はできているのに、変な声は出てしまう。
でも、それが普通だと、この前《毒蛇》先輩は言っていた。
――「恋人のキス」とは、こういうものらしい。
試すように、少しずつキスの角度が変わる。
「……っ」
なぜか、ほんの一瞬だけ、身体の力が抜けかけた。
直後に、そっと唇が離れる。
《毒蛇》先輩は、息を乱している僕の顔を確かめるように、じっと見た。
「……ちゃんと、反応するんだ」
指先が、僕の頬をするりと撫でる。
……もう、いいのかな?
「終わりましたか?」
「……は?」
僕は、《毒蛇》先輩から、身体を離す。
「ありがとうございました。ちゃんと息できました」
お礼を言うと、《毒蛇》先輩は、拍子抜けしたように呟いた。
「……君、もうちょっと、余韻とかさ」
「余韻、ですか?」
……恋人のキスには、そういうのも必要なのか。
「必要なら、覚えます。どうすればいいでしょう」
「……いや、そういうことじゃないんだけど」
《毒蛇》先輩は言葉を濁した後、諦めたように、ふっと笑った。
「……まあ、いいや。そのうちわかるか」
※※※
密やかに口づけを交わす、二つの影。
闇に溶けるようにして、その光景を見守る姿があった。
深い緑の瞳が、そっと伏せられる。
「……それが、君の選択なら」
――感情ごと、飲み込むような、静かな声で。
「今度こそ、私は――」
呟く声は、誰の耳にも届かなかった。




