13【根の国】
絢爛豪華な朝餉を前に、常一は引き攣った笑みを浮かべながら箸を動かしていた。
「おいしーい……」
口ではそう言うものの、味なんてほとんど分からない。
長い漆塗りの食卓には、朝食とは思えないほどの料理が並んでいる。
炊き立ての白米に艶やかな焼き魚、湯気を立てる吸い物、宝石みたいに盛り付けられた季節の果物。
さらに洋風の皿まで並んでいて、給仕たちが忙しなく行き来していた。
その豪華さに反比例するように、常一の胃はずっと重い。
正面に座る女の圧が、とにかく凄まじいのだ。
百九十はありそうな長身。
艶やかな黒髪を高く結い上げ、額からは小ぶりな角が二本のぞいている。
笑壺家の一人娘───粧子。彼女は朝から上機嫌だった。
「あははっ! だからね、わたくし、お色直しは最低でも五回は必要だと思うの!」
しゃらん、と金の簪にぶら下がった宝石が揺れる。
「ドレスも着物も着たいでしょう? 白無垢もいいし、緋色の打掛も素敵だし、中ツ国のふわふわしたドレスも憧れるのよねぇ」
「は、はぁ……」
「通り中を飾り付けて、屋台も出したいわ。朝から晩まで宴にして、皆に祝ってもらうの。あ、花火もいいわね! 大きいやつ!」
粧子は身振り手振りまで大きい。
豪快に笑い、豪快に語り、豪快に未来を決めていく。
常一が口を挟む隙など、米粒一つ入る余地もなかった。
「お父様ったら、早く常一様に仕事の話をしたいって言うのよ? 失礼でしょう? そんなの式の後にすればいいのに」
「そ、そうです……かね……」
相槌を打ちながら、常一はそっと味噌汁を啜った。
逃げたい。だが、逃げられない。
なにせ、ここは根の国にある笑壺家本邸である。
この屋敷から逃げたところで、外にも逃げ場はない。
三秒後には捕獲されて、ここに戻されるだろう。
常一がここへ“連れて来られて”から、ずっとこの調子だった。
粧子はやたら距離が近いし、周囲は完全に「未来の旦那様」扱いだし、常一の意思確認は綺麗に置き去りにされていた。
「ねぇ、常一様!」
突然、ぱっと粧子が身を乗り出した。
その手が小鉢に当たってひっくり返ってもおかまいなしだ。
「今日はお外でデートしましょうよ!」
「えっ……外? デート?」
「ええ!」
右から左に話を聞き流していた常一が戸惑うのをよそに、粧子は満面の笑みで頷いた。
「婚約者同士なんだもの。当然でしょう?」
当然、の圧が強い。
常一は助けを求めたくて振り向いたのに、後ろに控えていた使用人たちは、一斉ににこやかな笑みを返してきた。
「街を案内して差し上げるわ! 甘味処もあるし、芝居小屋もあるの。あ、常一様、お祭りはお好き? 今ちょうどシバテン通りで市をやっているのよ!」
「いや、あの、俺まだ心の準備が──」
「まあ!心の準備をしてくださっていたの!?」
「え、」
「デートと言っても大袈裟なものじゃないの。気負わなくて大丈夫ですわ!」
「そういうことでは……、はい」
いくら否定したところで、粧子は聞く耳を持たない。
これは、この数日で嫌という程思い知らされたことだ。
常一はとうとう諦めたように天井を仰いだ。
迫力ある天井画の龍が、「ご愁傷様」とでも言いたげにこちらを見下ろしていた。
*
あの日。
編集作業の休憩を兼ねて、常一は近所のコンビニまで夜食を買いに出ていた。
六月の雨はじっとりと肌にまとわりつく。
行きは小雨だったのに、帰る頃にはすっかり本降りになっていた。
片手にはコンビニ袋。もう片方の手でビニール傘を差して、人気のない住宅街を歩く。
時刻は零時を回っていた。
街灯の明かりはぼやけ、アスファルトは黒く濡れ、世界全体が水の膜をかぶっているみたいだった。
ふと、前方から誰かが歩いて来る気配がした。
雨の日はみんな足早だ。視界も悪いし、すれ違うだけなら気にも留めない。けれど、
───からん。
雨音にまじって、下駄の音が聞こえた。
こんな時間に、こんな土砂降りの中で、一体どんな変わった人だろう。
違和感に眉をひそめ、常一は傘を少し持ち上げた。
その瞬間だった。
ぬっ、と視界の奥から腕が伸びてきた。
「────ッ」
反応する間もなく、胴を鷲掴みにされる。信じられない力だった。
常一の身体が、まるで米俵みたいに軽々と持ち上がる。
「はッ?! なん、誰……ぐぇッ!」
そのまま間髪入れずに走り出し、雨粒が横殴りに顔へ叩きつけられる。
「ちょ、待っ……!」
叫ぼうとしても上下に揺さぶられて、胃がひっくり返りそうだった。
濡れたコンクリートを蹴る音。跳躍。風を裂く音。
時折、鼻先をかすめるのは湿った土と、線香みたいな古びた匂いだった。
──── 人間じゃないのかも。
その可能性が脳裏を過ぎって、全身が粟立つ。
途端、身体がふわりと浮いた。
「痛ッ!!」
どさっと放り投げられた拍子に、後頭部が硬い柱の角へぶつかった。鈍い衝撃が走り、視界が白く弾けた。
◇
「……どこや、ここ?」
次に目を覚ました時、常一は見知らぬ部屋の中にいた。
鼻先をくすぐるのは、白檀の香りだ。
敷かれている布団はふかふかで柔らかかった。
身体を少し動かしただけで、するりと上質な布が肌を撫でる。
四葩宅の煎餅布団とは比べものにならない代物だった。
ぼんやりと天井を見上げる。
太い梁には緻密な彫刻が施されていた。
花とも雲ともつかない文様が幾重にも彫り込まれ、ところどころに貼られた金箔が灯りを受けて鈍く光っている。
まるで寺か、どこぞの旧家の屋敷だ。
障子の向こうでは、人の気配が絶えず行き交っていた。
ぱたぱたと忙しない足音と、低く交わされる囁き声が漏れ聞こえてくる。
「……夢、ちゃうよな……?」
喉がひどく乾いていた。
掠れた声で呟きながら身を起こすと、ずきりと後頭部が痛む。
そこで、雨の夜の記憶が断片的に蘇った。
何者かに担がれ、連れ去られた。人間じゃない力と、疾走。
ならば、ここは……常一が顔を強張らせた、その時だった。
「ああ、よかった。目が覚めたんですね」
す、と障子が開く。
入ってきたのは、三十前後ほどの妙齢の女性だった。
薄藤色の着物をきっちりと着込み、黒髪を後ろで上品にまとめている。
女性は驚くほど自然に常一の傍らへ座ると、慣れた手つきで額に触れた。
「熱はなし」
次に瞼を持ち上げ、脈を測り、肩や腕の具合まで確かめていく。
常一はされるがままだった。というより、状況が全く分からないので抵抗する余裕がなかった。
「……あの、ここ……」
「問題ありませんね。腫れもほとんど引いています」
女性は常一の後頭部を確認すると、ほっと息を吐いた。
そして、その場に居住まいを正すと、畳へ両手をつき、深々と頭を下げた。
「青埜 常一様」
「……は、はい」
「この度は、御結婚おめでとうございます」
「…………は?」
*
「見てくださいまし、常一様! この飴細工、金魚が泳いでいますわ!」
昼下がりの商店街に、粧子の高い声がぱっと響いた。
真昼の陽射しを浴びた石畳は白く照り返し、軒先では色鮮やかな幟が風に揺れている。
焼き魚の匂い、香辛料の刺激的な香り、蜜菓子の甘ったるい匂い──それらが渾然一体となって、人と妖の熱気を孕んだ通りに立ちこめていた。
その賑わいの真ん中を、粧子は当然のような顔で歩いていく。
いや、当然ではあるのだ。
この一帯は、笑壺家の息がかかった土地で、商売の許可を出しているのも彼女の父親だ。
「お嬢様、本日はようお越しで」
「こちら、本日一番の品でございます」
「先日いただいたお言葉、ありがたく――」
店先を通るたび、店主たちは深々と頭を下げた。
中には、粧子の気配を感じただけで、慌てて店の奥から飛び出してくる者までいる。
常一はその後ろを歩きながら、ひどく居心地の悪い思いで肩を縮めていた。
どの店へ入っても過剰な程の扱いを受ける。
道を空けられ、愛想笑いを向けられ、やたらとペコペコ頭を下げられる。
こんな経験は、常一の人生に一度もないことだし、別に望んでもいない。
まるで自分が笑壺家の威光を借りた腰巾着みたいで、どうにも落ち着かなかった。
「常一様、聞いておりますの?」
「へ!? は、はい! もちろん聞いてます!」
「そう。まあ、本屋はもういいわ。次へ参りましょう」
流行りのロマンス小説が欲しいと言っていたのに、あらすじを常一に話すだけで満足してしまったのか、五分もしないで本屋を出てしまう。
彼女がひとつの店に腰を落ち着けることはほとんどなく、目についたものを眺めては、次へ、また次へと軽やかに渡り歩いていく。
常一としては、目新しい品ばかりで本当ならじっくり見て回りたい。
だが、そんなことを口にできるはずもなかった。
粧子のペースを乱して機嫌を損ねたらと考えると、恐ろしかった。
「ねえ、見てくださいまし。とってもかわいいわ」
粧子は小間物屋の店先に並んでいた簪を、ひょいと摘み上げた。
艶やかな鼈甲細工。透かし彫りまで施された、いかにも高価そうな逸品だ。
「これ、いただきますわ」
「はい! ただいまお包みいたします!」
店主はぺこぺこと何度も頭を下げながら、必要以上に丁寧な手つきで簪を包み始める。
だが粧子は、それが終わるのを待ちもしない。
後ろに控えていた荷物持ちの使用人が残り、品を受け取る。
「笑壺家へ請求をお願いします」
「かしこまりました!」
けらけら通りで買い物をする時、粧子が自ら財布を出すことはない。
その漫画みたいなお嬢様ぶりに、常一は呆気に取られるしかなかった。
「あ、常一様。この店の羊羹、とっても美味しいんですのよ」
「へ、へえ……」
「全部くださいな」
「ぜ、全部!?」
粧子は和菓子屋に入るなり、列に並んでいる客など意にも介さず、当然のように先頭へ出て注文した。
だが店主は慣れたもので、眉ひとつ動かさずに満面の笑みを浮かべる。
「ありがとうございます、お嬢様!」
奥から店員たちが慌ただしく飛び出してきて、羊羹を次々と箱へ詰め始めた。
会計待ちをしていた客たちは、なんとも言えない顔でその様子を眺めている。
けれど、誰ひとり文句は言わなかった。──いや、言えるはずがない。
粧子はそんな周囲の空気など気にも留めず、くるりと振り返る。
「常一様、ここでひとつ食べましょ?」
「えっ」
「食べますわよね?」
「は、はい」
本来ならイートインスペースなどない店だ。
だが店員たちは急拵えで椅子を運び込み、湯気の立つ茶まで用意してくれた。
常一は差し出された羊羹を受け取りながら、引きつった笑みを浮かべる。
「おいしいですわね、常一様!」
無邪気に笑う粧子の顔は、年相応に愛らしいはずだ。
けれど常一には、機嫌よく尻尾を振る猛獣にしか見えない。
少しでも機嫌を損ねれば、そのまま喉笛に食らいつかれるのではと、羊羹の甘さもろくにわからなかった。
*
廊下の向こうから、どたどた、と重たい足音が響いた。
せかせかと廊下を行き来していた人影たちが、ぴたりと動きを止める。
誰もが一斉に廊下の端によけ、道を開ける気配がした。
障子の向こうに、ぬう、と長い影が差し、常一は何事かと布団で口元まで隠れた。
傍らに座す女性が「あら」と薄く微笑む。
「噂をすれば、花嫁の登場ね」
間髪入れずに、障子が、スパンと音を立てて開かれる。
そこに立っていたのは、百九十はあろうかという背の高い女だった。
金糸の刺繍がぎらりと光る深紅の着物を纏い、長い黒髪は艶やかで、吊り気味の目には獰猛さと子供っぽさが同居していた。
そして何より異様なのは、額から生えた白く滑らかな、小ぶりな角だ。
「常一様!」
女はぱあっと顔を輝かせた。
そのまま大股で部屋へ入り込むと、常一が悲鳴を上げる間もなく布団をひっぺがす。
「気を失ったって聞いて驚きましたわ!」
どすん、と畳を揺らす勢いで膝をつき、そのまま顔を寄せてくる。
甘い香の匂いと、圧迫感のある熱気が一気に迫った。
「紗与、大事はないのよね?」
「はい、お嬢様。異常はどこにもございません」
隣の女性──紗与は、淡々と答えた。
「だから身体ごとは反対だったのよ。でも、大丈夫ならいいわ! 日入のことも許してあげる」
女は赤い唇から鋭い八重歯を覗かせて、いかにも寛大な対応をしたとばかりに満足気にほほ笑んだ。
しかし、常一には何ひとつ分からない。
「あの……!これってどういうことですか!?」
ようやく絞り出した問いに、女は一瞬きょとんとして、それから堪えきれないようにけらけら笑った。
笑い声は豪快で、神社の鈴を全力で鳴らしたみたいな騒々しさだった。
「そうでした!まだ何もお話してませんでしたね!」
女は嬉しそうに膝を進める。
常一はその分だけ後ずさったが、すぐ床の間にぶつかって逃げ場を失った。
「わたくし、笑壺粧子と申しますわ」
女──粧子は、得意げに胸を張った。
その拍子に、髪へ挿した金銀の簪が、しゃらりと涼やかな音を立てる。
「こちらは、うちのかかりつけ医の紗与ですわ」
「どうも」
ついでのように紹介されるが、気に障る素振りもなく紗与は軽く会釈した。
「そして、ここは笑壺家の本邸です。このお部屋は、今後、常一様の寝室としてお使いいただきますわ」
粧子の説明は、そこで終わった。
当然ながら、常一の顔には疑問符が浮かんだままだ。
見かねた紗与が、変わらぬ薄い笑みで言葉を補う。
「常一様には、笑壺家へ婿入りしていただくため、中ツ国からお越し願いました」
あまりにも自然な言い方だったせいで、常一の脳は一度、その意味を素通りした。
数拍遅れて、顔からさっと血の気が引く。
「は? 婿入り?」
「ええ!」
さっきから結婚だの花嫁だの、挙句に婿入りとは何の話なのだろうか。
混乱する常一をよそに、粧子は満面の笑みで再び話し始めた。
「わたくし、占いって大好きですの」
「は、はぁ……」
脈絡が見えなかったが、とりあえず相槌を打つしかない。
少なくとも今のところ、粧子は好意的ではある。
──好意的、という表現で済ませていいのかは怪しかったが。
下手に刺激して機嫌を損ねるより、まずは状況を把握する方が先だ。
「それで最近、巷で人気だという占い師の恋々巴様に見ていただきましたの」
その名前に、常一の眉がぴくりと動く。
恋々巴。どこかで聞いた響きだった。
SNSか、動画サイトか。いや、どこかで直接関わったような気もする。
だが今は、そんな記憶を掘り返している余裕はなかった。
「恋々巴様がおっしゃるには、運命の人は思いがけない場所で出会う、と。そして、その方は扉を開けてくださるのだそうですわ」
「へえ……」
朝の情報番組の星占いみたいなものだ、と常一は思った。
“近いうちに素敵な出会いがあります”だとか、“ラッキーカラーは青”だとか、当たり障りのない内容。
後からどうとでも意味づけできる類のものだ。
けれど、粧子は至って真剣だった。
黒曜石みたいな瞳をきらきらと輝かせ、頬を上気させている。
まるで宝探しの答えを見つけた子どもみたいに、浮き立った顔だ。
「それでわたくし、そのあと家業のお勉強で中ツ国へ参りましたでしょう?」
知らん。
反射的にそう言いかけて、常一は慌てて飲み込んだ。
さっきから何度も出てくる“中ツ国”という単語も、常一にはさっぱり分からない。
外国か何かだろうか。
しかし、常一が住む場所をそう言っている口ぶりだった。嫌な予感が常一の胸を過ぎる。
「その時に、猫又が営んでいるバーへ参りましたの」
「……ん?」
常一は首を傾げた。
猫又が営むバー。その単語の並びには、はっきりと聞き覚えがある。
頭に浮かんだのは、寂れた路地。
半月型のガラスの埋め込まれたドア。「読書家のみ入店可」と記された小さな額縁。酒と並ぶ、たくさんの本。
「バーへ入ろうとしましたら、先に中から扉が開きましたの」
粧子は、その時のことを思い出したのか、嬉しそうに頬を緩める。
長い睫毛が伏せられ、白い指先が胸元をそっと押さえた。
恋物語を語る少女そのものの仕草だった。
「その方、わたくしを見て“どうぞ”と」
「……」
「そのまま、ご友人と連れ立って帰ってしまわれて。わたくし、あの方はどなたかと店主にお尋ねしましたの」
それを聞いて、常一の脳裏に数日前の光景がぼんやりと蘇ってきた。
久しぶりに浦と一緒に、錫の営むブックバーRを訪れた夜。
他に客がいないのをいいことに、三人で浴びるように酒を飲んだ。
カウンターに突っ伏した浦が「妖怪にも肝臓ってあるの?」とくだらないことを言い出し、錫が「お前より長持ちのな」と鼻で笑った。
『タクシー使えよ。黄泉比良駅に連れてかれるぞ』
そんな冗談を背中に受けながら、常一は浦と二軒目へ向かおうとして店を出ようとして───ちょうど入ってきた派手な女性に気付いて、扉を押さえた気がする。
「……あ」
常一の顔が引き攣る。
それとは対照的に、粧子はにこぉっと口角を吊り上げた。
「思いがけない場所で、扉を開けてくださる……。わたくし、すぐにピンと来ましたの」
うっとりと。
甘い蜜が垂れるような目で、粧子は常一を見つめる。
その眼差しは、可憐な少女のようでいて──
「常一様が、運命の人だって」
獲物に絡み付く蜘蛛のような狂気を孕んでいた。
*
数多の妖怪と死者の魂が暮らす──根の国。
総大将ぬらりひょんに率いられた古典妖怪達が、黄泉へと隠居して三百余年。
現代の根の国は、彼らの子孫達によって治められている。
古き怪異の威光は薄れてなお、秩序はある。
それを支えているのが、臍府──根の国の中心に築かれた政治機関だった。
臍府を立ち上げた四人の妖怪を祖に持つ家系は、今なお四大名家として特別視されている。
ぬらりひょんの滑家。天狗の八手家。人魚の海淵家。そして、けらけら女の笑壺家。
それぞれが役目を持つ中で、笑壺家は特に商売に強かった
物流、薬種、織物、香、劇場。
笑壺家の息が掛かっていない商売を探す方が難しいと言われるほどで、根の国を流れる金の多くには、どこかで必ず笑壺の指が絡んでいる。
笑壺粧子は、その笑壺家のひとり娘で、唯一の跡取りである。
蝶よ花よと育てられ、欲しがった物は翌日には枕元へ届くような人生を送ってきた。
幼い頃に「星が欲しい」と駄々をこねれば、父は家に天文台を作ったし、「綺麗」と言った簪は翌週には職人ごと屋敷へ呼ばれていた。
藤原道長の望月の歌ではないが、この世に得られぬものなどない。
少なくとも、粧子はそう信じて疑わずに育った。
だから、自分が結婚すると決めた相手が、中ツ国の生きた人間だったとしても。
それを根の国へ連れて来るという発想に、何の躊躇いもなかった。
最初は殺して、魂だけ連れて来るつもりだった。
その方が簡単だし、根の国で暮らすには都合もいい。
だが、雇いの商人である日入が珍しく強く嫌がった。
『流石に残酷でしょう、それは』
必死をこいてそう言うものだから、粧子は少し考え、それなら生きたままでも構わないかと譲歩した。
粧子の中では、かなり優しい判断だった。
粧子の両親は見合い結婚だ。
父は鬼の名門・温羅家との繋がりと、彼らが所有する温泉地の利権を欲した。
母は笑壺家の財と家格を気に入った。
互いに利益を見て結ばれた、完璧な政略結婚。
別に仲が悪いわけではない。
食卓も共に囲むし、社交の場では夫婦らしく振る舞う。
けれど、恋だとか愛だとか。そういう、胸を焦がすものはなかった。
だからこそ粧子は、恋愛結婚に強い憧れを抱いていた。
好きになった相手と結ばれたい。運命みたいな恋をしてみたい。
そう思っていた時に現れたのが、常一だった。
中ツ国へ行ったのは、ほとんど物見遊山のようなものだった。
笑壺家の次期当主候補ともなれば、他国の流行や物流を知るのも務めのうち──などと、もっともらしい理屈を並べて、粧子は日入の仕入れに同行したのである。
とはいえ、真面目に帳簿や相場表を眺めていたのは最初だけだった。
「お嬢様、あまり遠くへ行かれませんよう」
「ええ、ええ。ちゃんと心得ておりますわ」
口ではそう答えつつ、粧子は早々に日入と別れた。
せっかくの中ツ国なのだ。
商談の席で大人しく座っているだけなど、あまりにも退屈だった。
コンクリートの大通りには、色鮮やかな看板がひしめいている。
焼き菓子の甘い香り。異国の香辛料の匂い。呼び込みの声。電車のベル。生者と幽霊。
根の国よりも一歩も二歩も先を行く先進的な街並みが面白くて、粧子はスカートの裾をひらりと靡かせながら歩いていった。
四角く無機質な建物の並び。空を縦横に走る電線。
化粧品店には、見たこともない記号の並んだ商品がずらりと並び、日入が「最近は若い娘に人気だそうです」と話していた極彩色の雑貨屋も、眩しいほど賑やかだ。
どれもこれも、目移りするほど新鮮だった。
「まあ……」
ショーウィンドウに並ぶ香水瓶を見て、粧子は目を輝かせる。
薄桃色の硝子に、金彩の蔓草模様。まるで宝石のようだった。
気に入ったものを片っ端から包ませたものの、今日は荷物持ちがいない。
仕方なく、自分で抱える羽目になる。
そうして歩き回った末、少し足が疲れてきた頃だった。
「……ここかしら」
路地裏に、ひっそりと灯る店を見つけた。
半月型の硝子が埋め込まれた扉。『読書家のみ入店可』と記された、小さな額縁。
日入からは、猫又が営むバーだと聞いている。
中ツ国にまで来て妖怪の店へ入るのもどうなのか──とは思ったものの、見知らぬ人間の店よりは気楽だった。
少し休憩するには、ちょうど良さそう。それだけで選んだ店だった。
だから、その時の粧子は、本当に何も期待していなかった。
運命的な出会いだとか。胸を焦がす恋だとか。
そんなものが、中ツ国の雑踏に転がっているはずがない。
ただ、店へ入ろうとして──先に扉が開いた。
「あ、どうぞ」
柔らかな声だった。
目の前に立っていた男が、ごく自然な仕草で扉を押さえている。
店内の琥珀色の灯りを背にした姿を、粧子は数秒、まばたきすら忘れて見下げた。
気取らない服装の、どこにでもいそうな青年。
上等とは言い難いシャツに、少しくたびれた鞄。
髪も無造作で、金持ちや名家の人間には見えない。
だけど、酒に酔ったのか仄赤い目元や、ふっと口元に浮かべた笑みには、妙に人を惹きつける色気があった。
ぱち、ぱち、と、胸の奥で火花が爆ぜるような音がした。
粧子の頭の中で、つい先日見てもらった占い師の言葉がリフレインする。
『思いがけない場所で、扉を開けてくださる方。──それが、あなたの運命の人です』
頭に重たい火鉢をぶつけられたような衝撃が走った。
けれど青年は、粧子が店へ入るのと入れ違いに、何事もなかったように外へ出て行ってしまう。
「あ、……」
呼び止めるより先に、扉が閉まる。からん、と鈴が鳴った。
惚ける、というのはこういう状態を言うのだろうか。
店主に「お客様~?」と声を掛けられるまで、粧子は入口の前に突っ立ったままだった。
我に返った途端、粧子は勢いよくカウンターへ詰め寄る。
「今の方、どなたですの?」
猫又の店主は丸い目を瞬かせた。
「ええと……それはちょっと。個人情報ってやつでして」
「────なァに?」
粧子は、にこりと微笑んだ。
術を解いて、額の髪の隙間から、鬼の角を覗かせる。
店主の瞳孔がきゅうっと細くなった。
「青埜常一! 職業は動画編集者! ついでに一緒にいたのは、友達の浦小波です!」
─── 中ツ国から根の国へ戻ったその日のうちに、粧子は父の執務室へ乗り込んだ。
そして、襖を開け放つなり、
「お父様。わたくし、結婚いたしますわ!」と高らかに宣言した。
ぱちり、と算盤を弾く音が止まる。
笑壺家当主──笑壺莞爾は、会計役の傍らで帳簿を捲っていた手を止め、ゆっくり娘を見上げた。
「……は?」
めずらしく、素で聞き返した。
無理もない。これまで粧子は、持ち込まれる縁談を片っ端から握り潰してきたのだ。
「顔が気に入らない」「喋り方が気に入らない」「つまらない」「野心が透けて見える」
理由を挙げれば切りがない。
一度など、「笑った顔が腹立たしい」という理由で破談にしたことすらある。
その粧子が、自分から結婚すると言い出したのである。
莞爾はしばらく沈黙したあと、静かに帳簿を置いた。
「……ちなみに、相手は?」
「中ツ国の人間ですわ」
「ほう」
「よく分からないけれど、編集者をしておられるそうです」
「ほう……?」
肩書きだけ聞けば、笑壺家とはあまりにも釣り合わない。
だが莞爾は反対しなかった。というより、反対する理由が特になかった。
笑壺家の家督を継ぐのは粧子だ。
婿が名家である必要はないし、極端な破綻者でなければ誰でも構わない。
まして相手は人間、それも生者のようだ。
世継ぎさえ生まれれば、粧子が飽き次第、転生課へ預けてしまえば良い。
何より、莞爾は自分の娘がどういう女かをよく知っていた。
自分が甘やかして育てた自覚もある。
我が強く、苛烈で、欲しいものは必ず手に入れようとする。
そんな娘が、自ら「欲しい」と言ったのだ。今さら止められるはずもない。
莞爾は深く考えるのを諦め、ずず、と茶を啜った。
「……まあ、お前がそうしたいなら好きにしろ」
「ありがとうございます、お父様!」
粧子はぱっと顔を輝かせた。
その無垢な笑顔を見ながら、莞爾はほんの少しだけ、相手の男への憐憫を感じた。
それから僅か三日後に、日入が常一を仕入れて、無事に粧子の手元へやって来た。
近くで見て会話をしても、やはり常一は普通の男だった。
粧子よりずっと背が低く、肩幅も狭い。
身体つきも薄くて頼りなく、妖術だって何も使えない。
けれど、粧子は別に気にしなかった。
そもそも、大抵の男は粧子より小柄なのだ。
今さらそんなことで機嫌を損ねるほど、粧子は繊細ではない。
それよりも、もっと嬉しい誤算があった。
常一には、死者を惹き付ける何かがある。
屋敷にも転生までの期間を使用人として過ごす死者がいるが、皆どこかソワソワとして常一に視線を寄越すのだ。
一緒にけらけら通りを歩いた時は、さらに顕著だった。
道行く死者たちが明らかに色めき立って、常一を見ていた。
まるで、灯りに虫が寄るみたいに。
粧子はその度に、得意気に口元を吊り上げた。
粧子は、自分の持ち物を他人が羨むのが好きだった。
結婚相手だって、誰にも見向きもされない男より、モテる男の方が、ずっと気分がいい。
それに常一は、実に扱いやすかった。
粧子が延々と喋っていても、嫌そうな顔をしない。
自慢話にも、取り留めのない雑談にも、「うん」「へえ」「そうなんですね」と穏やかに頷く。
笑壺家の令嬢として生きていれば、男というのは大抵、粧子を恐れるか、見栄を張るか、その両方だった。
だが、常一はそのどちらとも少し違った。
もちろん、怖がってはいるのだろう。
粧子が少し声音を低くしただけで、常一の肩はぴくりと揺れるし、目だって時折おどおどと彷徨う。
そもそも突然連れて来られた根の国という異界そのものが、彼にとっては恐怖の対象でしかないはずだ。
けれど──だからといって、必要以上にへつらうことはしなかった。
媚びを売るわけでもない。
粧子の顔色ばかり窺って、機嫌取りに徹するわけでもない。
流れに逆らわず、与えられた状況を受け入れている。
人の話を遮らない。無意味に張り合わない。粧子を否定しない。
結婚相手の条件として粧子が掲げていたそれらを、常一は見事に満たしていた。
まるで最初から、粧子の隣に収まるために用意されていたかのように。
その常一が、「中ツ国の友人を結婚式に呼びたい」と言い出した時、粧子はあからさまに眉を顰めた。
常一が自分の意思を通そうとしたのは、それが初めてだった。
そもそも粧子には、“友人”という存在がよく分からない。
家でも学舎でも、周囲の者は皆、粧子に傅いてきた。
それが当たり前だったから、対等な関係というものを、彼女は知らない。
加えて、生者を根の国へ招くのは骨が折れる。
臍府にはある程度口が利くとはいえ、何もかも融通が通るわけではない。
四大名家の中にも序列はあり、臍府の頂点に立つ滑家に対しては、笑壺家といえど無理は言えなかった。
常一ひとりを連れて来るだけでも、どれほど難儀したことか。
だから最初、粧子は「嫌ですわ」と即答するつもりだった。
だが、常一は困ったように眉を下げていた。
叱られる寸前の子犬みたいな顔で、恐る恐るこちらを見上げてくる。
それがなんだか愛おしくて、粧子は扇で口元を隠した。
「それ以外は、貴女様の好きにしていいですから……」
その言葉に、粧子はぱちりと瞬きをした。
ずいぶん可愛いことを言う。
「……仕方ありませんわね」
ため息混じりに許してやると、常一の顔がぱっと明るくなる。
それを見て、粧子はほんの少しだけ胸がくすぐったくなった。
───これが、惚れた弱みというものかしら。
そう思うと、悪い気分ではなかった。
そして、今日。
笑壺家の離れへ通された四人の客を、粧子は上座から眺めていた。
案内役の日入が「常一様の御友人方をお連れしました」と頭を下げ、襖を開ける。
現れたのは、年若い男が四人。
それぞれそこそこ整った顔立ちをしているが、粧子の興味を引くほどではない。
根の国にはもっと美しい妖もいるし、もっと恐ろしい化生もいる。
──まあ、式の賑やかし程度にはなるでしょう。
そのくらいの認識だった。
先頭の男が一歩進み出る。
「この度は、ご招待いただき誠にありがとうございます。私は、佐藤凰介と申します」
背景に牡丹でも咲いていそうな、育ちの良さそうな男だった。
続いて、綴、四葩、相生と男達は順番に名乗っていく。
粧子は優雅に頬杖をつきながら聞いていたが、正直なところ覚える気はなかった。
常一の友人。それ以上でも以下でもない。
だが、ぼんやり眺めているうちに、ふと面白いことを思いついた。
粧子は扇を開いて、ほくそ笑んだ。
「お前たち、式で何か余興をしなさい」
無茶な要求なのは、承知の上だった。
中ツ国の生者たちが狼狽え、勘弁してくださいと許しを乞う姿を見たかっただけだ。
だが、佐藤凰介はわずかに逡巡しただけで、すぐに恭しく頭を垂れた。
「かしこまりました」
その声音に、困惑も怯えもない。
「粧子様が驚かれるような余興を、必ずやご覧に入れてみせましょう」
粧子はわずかに眉を上げた。
案外、肝の据わった男らしい。背後の三人もまた、取り乱す様子ひとつなかった。
常一の友人と聞いていたから、もっとこう善良で、脆弱で、押しに弱い類の男達を想像していたのだ。
粧子は、くくっと喉を鳴らす。
「よろしい。期待外れでしたら、黄泉竈食の刑に処しますけれど」
半分は冗談で、半分は本気だった。
黄泉竈食。根の国でも古い時代の処罰法で、罪人を黄泉の竈の番へと落とし、永劫に煮炊きと雑役を課す刑である。今では半ば慣用句じみた脅し文句だが、笑壺家ならば出来ない事でもない。
だというのに、対面の佐藤凰介は、やはり少しも怯まなかった。
「では、処されぬよう、精一杯務めさせていただきます」
さらりと春風でも受け流すような口調で答え、優雅に一礼する。
「……ふぅん?」
扇を揺らせば、粧子の簪がしゃらりと鳴る。
値踏みするように佐藤凰介を見据えた。
つまらぬ芸を披露するようなら、常一の顔を立てるつもりはない。
たとえ遠路はるばる中ツ国から来た客人だろうと、容赦なく叩き返すつもりだ。
──結婚式は、完璧でなければならない。
根の国四大名家、笑壺家の嫡女たる自分の晴れ舞台だ。
料理も、装飾も、招待客も、余興ですら、一片の瑕疵も許されない。
ましてや、ようやく手に入れた"運命の人"との婚儀なのだから。
2026.6.11




