12【根の国】
謹啓
時下ますますご清祥のこととお慶び申し上げます。
この度、
青埜常一 と 笑壺粧子 は
縁あって夫婦の契りを結ぶ運びとなりました。
つきましては
ささやかながら結婚の儀を執り行いますので
ご多用の折とは存じますが
ご臨席賜りますようお願い申し上げます。
記
一、日取り 睦月 吉日
一、場所 けらけら通り 笑壺家屋敷
なお、新郎ご友人各位におかれましては
結婚式の一週間前より
世話係が順次お迎えに上がります。
当日は皆様お揃いにてのご参列を前提としておりますため
特段のご返信には及びません。
皆様とともにこの佳き日を迎えられますことを
心よりお待ち申し上げております。
敬具
*
ジューンブライドと言えば聞こえはいい。
だが、梅雨のある日本で、それはいかがなものかと綴は思う。
しとしと降る雨音を聞きながらの祝福は、風情があるのかもしれない。
だが正直なところ、わざわざ足元の悪い中を着飾って出向くのは億劫だった。
テーブルの上には、華やかな招待状が三枚、仲良く並んでいた。
金の箔押しに、凝った装飾。開くたび、紙からやたらといい匂いがする。
これは昨日、綴と相生、四葩のもとへ届いたものだった。
「連絡が取れないと思ったら……結婚って?」
「“けらけら通り”なんて、聞いた事ないね?」
「……というか、“笑壺”って誰だ?」
三人の間に、疑問符が飛び交う。
二日前。編集作業の途中でコンビニへ出たきり、常一は姿を消した。
持っていたのはスマホとビニール傘だけ。財布の入った鞄さえ、置き去りのままだった。
電話は圏外。メッセージアプリも未読のまま。
嫌な予感がして浦に連絡を取ったものの、「何も聞いてないわ」と、逆に心配させる結果になった。
このままあと数日音沙汰がなければ、警察に届けるべきか──四葩が綴らに相談していた、その矢先だ。
まるでタイミングを見計らったように、ポストへ投げ込まれていたのが、この招待状だった。
「どう考えても面倒なことになってるよな……」
四葩が、家紋らしきシーリングの押された封筒を指で弾く。
三人が知る限り、常一に恋人の影はびた一文なかった。
つい最近まで、「そろそろマッチングアプリでも登録しよかな」とぼやいていたくらいだ。
そもそも、前のアパートを引き払って以来、常一は四葩の家に転がり込んでいる。
女性を連れ込んだ形跡もゼロ。デートらしい外出も見たことがない。
それが、いきなり結婚式。
しかも、招待状まで刷り上がっている段階ときた。
そんな相手がいるなら、さすがに一言くらいあっていいはずだ。
四葩のように表に出る仕事ならともかく、裏方の常一に恋人を隠す理由はない。
それに、彼はミステリアスな秘密主義者とは真逆の性格だ。
サプライズにしては悪趣味すぎるし、あまりに回りくどい。
常一が主導の仕業とは思えなかった。
「待たせたね」
引き戸が控えめに開けられて、瓢が顔を出した。
いつも通り優雅な笑みを浮かべているが、その手には、四葩たちと同じ招待状がある。
瓢から四葩へ連絡があったのは、昨日の夜のことだ。
常一の結婚式について話したい──めずらしく、彼の方から打診してきたのである。
「やっぱり、妙だよな?」
四葩が、集まった顔ぶれを見てつぶやく。
「友人代表なら、浦くんを呼ばないのはおかしいだろ」
「人選に明らかな意図があるよね」
綴も頷いた。
今のところ、この招待状が届いていると確認できているのは、この四人だけだ。
常一の親友であるはずの浦の元には届いていない。
「随分じゃないのォ?」と青筋を立てる彼を宥めつつ、それとなく常一の実家にも連絡を入れてもらったが、家族も何ひとつ知らない様子だった。
普通なら、結婚前に家族ぐるみの顔合わせくらいはあるはずだ。
それなのに、義理も順序も差し置いて、仕事関係の人間にしか招待状を送っていない。
どう考えても、きな臭かった。
「立て込んでるところ悪いけど、俺もいるんだよね」
その時、瓢の後ろから、ひょいと清遠が顔を覗かせた。
今日は配達用カバンは背負っておらず、手ぶらに、Tシャツにジーンズというラフな格好だ。
「げ、なんで?」
反射的に声を上げたのは四葩だった。
露骨に嫌そうな顔をされたのに、清遠は気にした様子もなく、にっこり笑って軽く手を振る。
「俺も呼ばれたの。ね、凰さん」
「呼ばれたって……」
理由が分からず、怪訝な視線が自然と瓢へと集まる。
瓢は涼しい顔のまま、清遠の肩にぽんと手を置いた。
「四志磨の方が詳しい話だから、同席してもらった」
「四志磨が?」
綴が眉を寄せる。
清遠は勝手知ったる様子でスニーカーを脱ぐと、小上がりへ上がり込み、そのまま四葩の隣にあぐらをかいた。
「俺の隣に座るな」
「いいじゃん。久しぶりだね、一輪」
「だる、お前……」
ふたりのやり取りを横目に、とりあえず全員が卓袱台を囲むように腰を下ろした。
瓢は丁寧に草履を揃えると、改めて封筒を卓上へ置く。
宛名が違うだけの同じ招待状が、四枚並んだ。
「まずは、状況を整理しよう」
教壇に立つ教師のように、瓢は卓上の招待状を開いた。
そして、おもむろに文面を読み上げ始める。
「────── 心よりお待ち申し上げております。敬具」
抑揚の薄い声が、そこで途切れた。
一言一句違わない。
綴たちの手元に届いたものと、まったく同じ内容だ。
瓢は開いた招待状を手にしたまま、ゆっくりと全員を見回す。
部屋の空気は張り詰め、誰かが、ごくりと喉を鳴らした。
「結論から言うと──常一は、根の国に連れ去られている」
「……はァ?」
真っ先に反応したのは四葩だった。
綴も相生も言葉こそ発しなかったが、意味が分からず眉をひそめる。
ただ一人、清遠だけは頬杖をついたまま、「やっぱりそうか」とでも言いたげな顔をしていた。
そんな四者四様の反応など意に介さず、瓢はさらに畳み掛けた。
「どうやら常一は、妖怪の花婿になるらしい」
*
根の国は、天国でも地獄でもない。
妖怪たちが治める、死者の国である。
死者たちはそこで、転生の時を待ちながら暮らしている。
次の生へ向かうために徳を積み、それぞれの役目を果たさなければならないのだ。
─── 瓢家蔵『二国分流録』より抜粋
「妖怪が治める……?」
「元は、ね。厳密に言えば、今は妖怪の血を引く子孫たちが統治しているらしい」
瓢はさも当然のように語るが、実際には誰も見たことのない死後の世界の話だ。
どうしても現実感が薄い。とはいえ、頭から信じられない話でもない。
綴たちは普段から、幽霊だの怪異だの、摩訶不思議なものと関わって生きている。
妖怪だって、猫又の知り合いがいるくらいだ。
根の国も知らないだけで、あるものはあるのだろう。
「……え、じゃあさ」
そこで綴は、以前、浦と錫が迷い込んだ“黄泉比良駅”のことを思い出した。
あの世へ続くターミナル駅。生と死の境界にある駅だ。
そのことを話すと、瓢は「その電車の終着点が、根の国だ」と答えた。
「黄泉比良駅について知ってたってこと?」
綴は思わず聞き返していた。
浦たちを黄泉比良駅から脱出させるまでに、どれだけ骨が折れたことか。
もし最初から瓢を頼っていれば、もっと早く安全に解決できたんじゃないか──そんな考えが頭をよぎる。
だが、瓢は首を横に振った。
「あの世行きの電車については、むしろ君たちの方が詳しいと思うよ」
「なら、なんで根の国のことは知ってんだ?」
相生が、胡乱げな顔で問い返した。
瓢は卓袱台に置かれたコーヒーポットを手に取り、ゆっくりとカップへ注いだ。香り高く湯気が立ち上る。
「瓢家には、家系に関する古い書物があるんだ」
『二国分流録』
全五巻からなる、瓢家の家督を継ぐ者が必ず目を通すという家書だ。
「そこに記されているんだ。ぬらりひょんの息子が、一人は根の国へ、一人は中ツ国へ家を構えたって」
場がしんと静まり返る。
そこで、綴はふと、外で雨が降り始めていることに気が付いた。
「え……じゃあ凰介って、妖怪の子孫ってこと?」
四葩が目を丸くして瓢を凝視する。
幼馴染の口から飛び出した突飛な新事実に、口が開いて塞がらない。
「まぁ、そうなるね」
当の本人は、あっさり肯定する。
「もっとも、血はかなり薄くなってると思うよ。息子たちが分かれたのは千年以上前らしいから」
つまり、それだけ長い年月、人間と交わり続けてきたということだ。
受け継がれているのも、せいぜい特殊な力の名残程度で、今の瓢家は妖怪の一族というより、陰陽師の家系と呼ぶ方がしっくりくる。
──もっとも、その陰陽師としての力自体、元を辿れば妖怪の血に由来するのかもしれないが。
少なくとも、瓢にとって祖先がぬらりひょんであることは、これまで特別な意味を持つ話ではなかった。
「凰介については分かった。で、四志磨は何なんだ?」
相生が重ねて訊ねると、清遠は訳知り顔で招待状を指差した。
「笑壺家。ここ、うちと取引があるんだよね」
「取引?」
「そ。お互いの国でしか手に入らない珍しい品を交換してるんだよ。内容は基本的に秘匿事項だけどね」
そう言って、清遠は綴の胸元を顎で示した。
「たとえば、綴ちゃんの万年筆。それも元は根の国から流れてきた品だよ」
「……これが?」
綴は目をぱちくりと瞬かせ、胸ポケットに触れた。
怪異をインクへ変え、文字として書き起こす──綴の能力を最大限に活かせる、愛用の万年筆だ。
たしかに、不思議な道具ではある。
けれど綴は、その由来を深く気にしたことがなかった。
だって、自分の力も同じだ。
理屈では説明できないものが、この世界にはいくらでもある。
だから綴にとっては、ただ“そういうもの”として受け入れているだけだった。
「向こうから見れば、こっちの品も十分めずらしいらしくてね。だから関係自体は、昔から続いてる。笑壺家は、その窓口のひとつってわけ」
そこで一度言葉を切ると、清遠は「ここまで分かった?」と、わざとらしく四葩に絡んだ。
四葩は苛立ったように目元をぴくりと引きつらせながら、
「じゃあ、お前は根の国と行き来してんのか?」と問い返す。
だが、それに関して清遠は「してない」と否定した。
「昔からの取決めがあってね。取引がある時は、いつも笑壺家の商人がこちらに来るんだ」
清遠家は代々道具屋を営む家系だ。
瓢家と同じく古い歴史を持つ家ゆえに、根の国との繋がりも残っているのだろう。
とはいえ、清遠自身が根の国へ渡ることは一度も許されていないらしい。
笑壺家の商人いわく、こちらの人間が根の国へ入るには、非常に煩雑な手続きが必要で、さらに高額な入国費まで課されるのだという。
つまり今回、笑壺家と常一は、四人分の手続きと入国費を負担したことになる。
そこまでして式に呼びたい相手が、瓢や綴たちだということは──。
常一にとって、この結婚は何らかのトラブルである可能性が高かった。
「それで……その笑壺家っていうのは、何者なの?」
綴の問いに、清遠は「んー」と短く唸った。何から説明するべきか考えるように腕を組む。
そして、「まず」と前置きをして口を開いた。
「笑壺家は、“けらけら女”の血筋なんだけど」
「けらけら女……?」
けらけら女──人気のない道や、家の塀の上、屋根の端などにぬっと現れ、甲高い声で笑い続ける女の妖怪だ。
ただ人を驚かせるだけの場合もあれば、不安を煽り、気を失わせるとも言われている。
「根の国じゃ、かなり力を持ってる家らしいよ。手広く商売してて、相当儲けてるみたい」
そう言って、清遠は卓袱台の上に置かれた招待状へ指を伸ばした。
場所の欄を、爪先で軽く叩く。
「ほら。ここに“けらけら通り”って書いてあるでしょ。
笑壺家が管理してる一帯なんだってさ。商店街みたいな場所で、店も土地もかなり持ってるとか」
つまり、根の国に独自の商圏を持ち、土地を管理し、人や物の流れを押さえている。
それだけで、笑壺家が相当な権勢を持っていることは十分伝わってきた。
「……そんな家が、なんで常一を?」
四葩がぽつりと漏らした。
貶すつもりはない。しかし常一は、ただの人間だ。
愛嬌があって人当たりも良いし、付き合いやすい奴ではある。
けれど、金儲けに強い執着があるようには見えないし、売上トップの敏腕営業マンという訳でも、商才に長けた経営者という訳でもない。
少なくとも、笑壺家の家業に莫大な利益をもたらせるような人選とは思えなかった。
「で、こっからよ」
清遠は、ピッと小指を立てた。
「この常一の奥さんになる粧子ってのが、笑壺家のひとり娘。そりゃもう、筋金入りのわがままお嬢様って話なのよ」
「うわ、厄介そう……」
四葩が思ったままを口にする。
最近見たアニメの、金髪縦ロールで高笑いする悪役令嬢が頭に浮かんだ。
「それが最近、家業の勉強とかいう名目で中ツ国に来てたらしいんだけど──」
清遠は、にやりと口角を吊り上げた。
「まあ、これは俺の推測だけどさ。一目惚れしたんじゃないかな?たまたま常一を見かけたか、どっかで関わったかして」
全員がきょとんとしたあと、揃って「はァ?」と顔をしかめる。
だが、瓢だけは涼しい顔で言った。
「常一は、死者にモテるだろう」
たしかに、常一には幽霊を引き寄せる妙な色気がある。
やたらと心霊写真ばかり撮れてしまうのも、そのせいだと綴たちも理解していた。
とはいえ、それが妖怪にまで通用するとは思っていなかった。
実際、猫又である錫は常一に対して至ってフラットだ。
幽霊以外の怪異にしつこく付きまとわれている様子も、ほとんど見たことがない。
「じゃあ、常一って根の国じゃモテモテってことか?」
四葩が、はっとしたように顔を上げる。
死者の国でアイドルみたいに黄色い声を浴びる常一が、脳裏を過ぎる。
「まあ、こちらにいるよりはモテるだろうけど……死者や妖怪にだって好みはあるだろう」
瓢は二杯目のコーヒーをカップに注ぎながら、淡白に言った。
「そこまで無差別に通用するなら、とっくに大事件に巻き込まれているはずだ」
常一は心霊写真ばかり撮ってしまうが、それでも日常生活は至って普通に送れている。
モテると言っても、せいぜい平均より少し上── 言うなれば、クラスで二番目くらいにメロい男子、という程度だ。
人ならざるものに、やや好かれやすい。せいぜい、そのくらいである。
もちろん、常一自身の陽の気質が、悪意あるものを遠ざけている部分もあるのだが。
「でも、笑壺のお嬢様にとっちゃ、ドストライクだったわけだ」
相生が、揶揄うように鼻で笑う。
道ですれ違った瞬間に一目惚れしたのか、多少なりと言葉を交わしていたのか、そこは分からない。
だが少なくとも、笑壺粧子にとって、常一の持つ“モテるオーラ”が綺麗にクリーンヒットしたのだろう。
「にしても、いきなり結婚? しかも無理やり連れ去って?」
「噂でしか知らないけど……まあ、このお嬢様なら有り得るだろうよ」
清遠はしょっぱい顔で肩を竦めた。
妖怪の常識がこちらと同じとは思わないが、それでも十分すぎるほど非常識な話だ。
だが、これまで数々の“粧子様わがまま伝説”を耳にしてきた清遠からすれば、今回の件はまだ穏当な部類ですらある。
少なくとも、常一側の人間に招待状を出すという融通は利かせているのだから。
綴は卓上の招待状へ視線を落とし、眉間を揉んだ。
「つまり、僕ら四人は、この結婚式をぶっ壊す役目ってわけか」
「さらに、常一を連れて、こちらの世界へ戻って来なきゃならない」
瓢が、めずらしく険しい顔で続けた。
話の輪郭が見えてくるほど、不安もまた鮮明に色を帯びていく。
常一が笑壺家にどんな説明をしたのかは分からない。
どうやって、この招待状を送らせたのかも。
だが少なくとも、常一は限られた状況の中で、自分を助けられる可能性が最も高い人間を選んだのだ。
──もっとも、それはあくまで“比較的”の話でしかないが。
「…………そんなこと、できんのか?」
四葩の疑問に、誰も答えられなかった。
なにせ、根の国は相手の土俵だ。
こちらの世界ならまだしも、向こうは完全なアウェイ。
土地勘もなければ、ルールや常識すら分からない。
行き帰りの方法だって、現時点ではまともに把握できていない。
しかも相手は、根の国でも大きな力を持つ名家だ。
そのひとり娘の婚姻を潰した上、婿まで連れ帰る。
そんな真似をして、無事に済む保証などどこにもなかった。
「はっきり言って、難しいだろうな」
気まずい沈黙を破ったのは、瓢だった。
「だが、迎えが来たら行かざるを得ない。なにせ、この招待状は“出席確認”じゃない。“参加命令”だ」
おのおのが、便箋の文面を思い返す。
──当日は皆様お揃いでのご参列を前提としておりますため、特段のご返信には及びません。
言葉遣いこそ丁寧だが、こちらの都合など完全に無視している。
そもそも、万が一欠席する場合の連絡先すら記されていなかった。
「だよなぁ……」
四葩はぐったりと背後の壁にもたれかかり、魂が半分抜けたような顔で天井を仰いだ。
「これさ……俺、いる?」
四葩はここまでずっと思っていた本音を口にした。
綴や相生、瓢には、少なくとも怪異に対抗できる能力がある。
だが四葩は、ただの心霊系配信者だ。
霊感もない。特異体質もない。言ってしまえば、常一より一般人だ。
おまけに、筋金入りの怖がりでもある。
この前、企画で入ったお化け屋敷では、飛び出してきた幽霊役のスタッフに本気で蹴りを入れかけている。
正直、今この時点で胃が痛かった。
「そんな薄情なこと言わないでよ、一輪。心細いんだよ、常一は」
清遠がすかさず身を乗り出す。
慰めているようで、その半分くらいは完全に面白がっていた。
四葩の額に、ぴき、と青筋が浮く。
「お前が俺のフリして行ってくれてもいいんだぞ?」
「え〜、でも常一は一輪を指名してるんだから、ダメでしょ〜」
清遠は間延びした口調のまま、ひらひらと招待状を振った。
そのまま逃げ道を塞ぐように、恭しく四葩の手へ握らせる。
「はい、責任重大」
「押し付けんな!」
四葩は反射的に投げ返しかけて、びくりと手を止めた。
死者の国から妖怪が送ってきた忌々しい招待状だ。
下手に粗雑に扱って、妙な事が起きたらたまらない。
四葩はそっと卓袱台の上へ置き、そのまま清遠の方へ、すいと押しやった。
「……何にせよ、人手は多い方がいい。準備も必要になるだろう」
「当日ぶっつけ本番じゃ、どうにもならないもんね」
悩ましげにため息をつく瓢に、清遠はうんうんと頷きながら、どこか楽しそうにスマホを取り出した。
「ま、俺の方から笑壺家の商人には声かけてみるよ。少しくらい協力してもらえるかもしれないし」
そう言って軽やかに笑うと、ぱん、と小気味よく手を叩いた。
「──というわけで!」
清遠は大げさな身振りで立ち上がり、人差し指を天井へ突き上げる。
「その結婚、ちょっと待った! 花婿奪還大作戦、開始!」
「勝手に作戦名つけんな!」
四葩が声を尖らせると、清遠はますます笑みを深くした。
その傍らで、綴と瓢は「まあ仕方ないか」とでも言いたげに、揃ってコーヒーへ口をつける。
これ以上話し合ったところで、すぐに具体案が出る気もしない。
一応、相生だけは「他人事で済むと思うなよ」と言わんばかりに、清遠の肩を一発強めに殴っていた。
*
「パジャマ持ったか?」
「え、いるかな?」
「マスク入れとくか?」
「死者の国で、風邪引かないでしょう」
灯亡書房の戸口で、海外旅行もかくやという大荷物のバックパックを背負った相生と、小さめのボストンバッグひとつの綴は、笑壺家からの迎えを待っていた。
一時間ほど前、瓢から「迎えが来た」と連絡が来ている。順番に回っているのなら、こちらにもそろそろ到着する頃合いだ。
とはいえ、現れるのがタクシーなのか、妖怪なのか、あるいは棺桶みたいな乗り物なのか、誰ひとり説明してくれていない。
綴は店先のガラス戸に映る相生の姿を見て、呆れた様に息を吐いた。
「その荷物、本当に一週間分?」
「ああ、念のためを詰めたらこうなった」
「絶対いらない物入ってるでしょ」
「全部いる。非常食と、携帯浄水器もある」
「根の国で遭難する想定?」
相生は真顔でバックパックを軽く叩いた。
「だって、飯が口に合わなかったら困るだろ」
「旅行レビューみたいな心配してる……」
「何があって、何がないか分かんねぇんだぞ?」
「そうだけど、秘境とかジャングルってわけじゃないんだからね」
綴が何を言っても、相生は納得していない顔のまま、バックパックのサイドポケットを確かめていた。
まだ何か詰め込める余地がないか、探っているらしい。
清遠の調査によれば、根の国は、大正から昭和初期の街並みを色濃く残しながら、そこへ現代技術が継ぎ接ぎのように入り込んだ場所だという。
木造建築の並ぶ道を馬車が走っているかと思えば、頭上では電光掲示板が瞬いている──そんなちくはぐな場所らしい。
「コンビニもあるって言ってたよ?」
「“ある”と“ちゃんとしてる”は別だろ」
「レビューサイトみたいな厳しさ出さないでよ」
もちろん、綴だって落ち着かない気持ちはある。
これから向かうのは、地図にも載らない異界だ。考え始めれば、不安はいくらでも湧いてくる。
───その時だった。
湿り気を含んだ夜気の奥から、鈴の音がゆっくりと近付いてきた。
相生と綴は、同時に口を閉ざす。
しゃん……しゃん……。
鈴の音は、やがて灯亡書房の前でぴたりと止まった。
綴がそろそろと戸を開けるや、店先に据えられていたのは、目を見張るほど豪奢な牛車だった。
黒漆に金の蒔絵が施された車体は、街灯の明かりを受けて鈍く艶めいている。
四隅に吊るされた飾り鈴が、余韻のように微かに鳴った。
金具は淡く光り、垂れた房は小雨を吸って、しっとりと揺れている。
平安絵巻からそのまま抜け出してきたみたいな代物だった。
「すげぇな、これ……」
綴を後ろへ庇うようにしながら、相生は興味深げに牛車を引く獣を見つめた。
姿形は牛に似ている。
だが、体躯はひと回り大きく、濡れた毛並みは黒曜石のような艶を放っていた。さらに、額からは、ゆるやかに湾曲した二本の角が伸びている。
鼻先からは白い息がゆっくりと漏れ、そのたびに空気が微かに軋んだ。
明らかに、この世の生き物ではない。
二人がまじまじと見上げていると、牛車の御簾が、ひとりでにするすると持ち上がった。
中から降り立ったのは、背の高い、ひょろりとした体躯の中年男がひとり。
灰色がかった着流しをだらしなく着崩しているが、不思議と下品さはなく、どこか洒落っ気があった。
髪にはわずかに白いものが混じり、細い目尻には愛想笑いの皺が刻まれていた。
へらり、と気の抜けた笑みを浮かべたまま、男は深々と頭を下げる。
「御友人様のお迎えに参りました。どうぞ、お乗りくださいませ」
声音は柔らかい。だが、感情の底は読めなかった。
綴が曖昧に会釈を返すより先に、男は二人の荷物へ手を伸ばした。
「おい、これ重──」
「はいはい、お預かりしますよ」
相生の制止も空しく、巨大なバックパックがひょいと持ち上げられた。まるで空箱でも扱うような軽さだ。
揃って面食らう二人を、男は荷物を担いだまま、にこにこと牛車へ導いた。
「足元、お気をつけて」
綴は恐る恐る、車輪脇の踏み台へ足をかける。
開いた御簾の向こうから、ひやり、と冷たい空気が頬を撫で、思わず目を瞬いた。
クーラーなど設置できないはずの屋形の中が、まるで避暑地のように涼やかな冷気に満ちている。
「……えっ」
さらに驚く事に、牛車の外観からは考えられないほど、中は広い空間が広がっていた。
畳敷きの床に、低い卓。壁際には寝台まで備え付けられている。
しかも奥には、小ぶりながら流し台とコンロらしき設備まで見えた。
「ワンルームだ……」
綴が呆然と呟く。いや、下手なワンルームより広い。
天井には淡い灯りが浮かび、香がほんのり焚かれているのか、甘く静かな香りが漂っていた。
相生も乗り込んできた途端、ぎょっとした顔で周囲を見回した。
「え、なに?四次元構造?」
異界の乗り物、と言われれば納得するしかないのだろうが、実際に目の当たりにすると処理が追いつかない。
二人が唖然と立ち尽くしていると、
「いらっしゃーい」
気の抜けた声が飛んできた。
屋形の奥、卓を挟んだ座席に、瓢と四葩が座っていた。
四葩はすでに煎餅らしきものを齧っている。
「ヤバくない、これ?」
「いや、普通にびっくりなんだけど」
綴と相生も、とりあえず座席へ腰を下ろす。
瓢が落ち着き払っているのはともかく、四葩まで平然としているのは意外だった。
すると瓢が、そっと綴に耳打ちした。
「乗り込むまで散々駄々をこねていたからな。騒ぎ疲れて、逆に気が抜けたんだろう」
言われてみれば、四葩は足を投げ出し、心なしかぐったりしている。
煎餅を頬張る様子も、半ばヤケ食いに見えた。
やがて、ちりん、と鈴が鳴る。
「では、参ります」
先程の男はにこりと笑うと、自らも屋形へ乗り込んだ。
直後──車輪の軋みも、牛の足音も聞こえないまま、牛車はするりと動き出した。
「屋敷までは、まだしばらくかかります。どうぞ、ご自由にお寛ぎくださいませ」
男はそう言うと、屋形の隅に設えられた簡易的な台所へ向かった。
重たげな鉄瓶を慣れた手つきで扱い、湯呑へ茶を注いでいく。
さらに、瓢と四葩の湯呑にも手際よくおかわりを注ぐと、男は綴たちから少し離れた場所に、静かに正座した。
「厠はそちらの扉の奥です。さすがに風呂はありませんので、屋敷まではご辛抱くださいね」
「トイレまで……?」
綴は思わず、もう一度車内を見回した。
外から見た牛車は豪奢ではあるものの、せいぜい二人乗りほどの大きさだった。
個室の厠を設ける余裕など、本来あるはずがない。
「あの、これはどうやって……?」
綴が戸惑いまじりに尋ねると、男は事もなげに答えた。
「ああ、妖術で空間を拡げてるんです。狭い牛車では、お疲れになるでしょうから」
妖術──妖怪が扱う、魔法。魔術と捉えるべきか。
どうやら、この異様に広い空間も、その力によって成り立っているらしい。
しかも男の口ぶりからすると、特別な秘術というより、ごく当たり前の技術として普及しているようだった。
瓢は男に聞こえないほどの小声で、「少し厄介だな」と呟いた。
「そうだ、ご挨拶がまだでしたね」
男はぱん、と軽く膝を打つと、改めて居住まいを正した。
「私、笑壺家に雇われております商人、日入雀と申します。以後、お見知りおきを」
綴たちへ向けて深々と頭を下げるその姿は、礼儀正しいが、どこか胡散臭い。
愛想の良い笑みも、軽妙な口調も、芝居がかって見える様は、少しだけ清遠と似ている気がした。
「商人? 招待状には、“世話係を寄越す”とありましたが」
「ああ、ええ。表向きは、そういうことになっております」
日入は悪びれる様子もなく、にこやかに頷いた。
「私のような者は、もともと通行手形を持っておりますので。わざわざ世話係用に新しく手形を出すより、その辺りの手間が早いんですよ」
「通行手形……」
綴は小さく復唱する。
おそらく、以前清遠が話していた“入国費”だの“許可”だのに関わるものだろう。
「根の国への出入りには、許可が必要なんですよね?」
「ええ、もちろん。勝手な往来はできません」
日入は当然とばかりに頷いた。
「中ツ国は妖怪にとって難しい場所ですし、逆に根の国は、本来ならそちらさんが死後に訪れるべき場所ですから」
中ツ国──つまり、現世のことだ。
人間が生きるこの世界を、あちらではそう呼ぶらしい。
“妖怪にとって難しい”という言葉の意味までは分からなかったが、少なくとも、現代社会で妖怪が普通に暮らせるとは綴にも思えなかった。
「私は少し力が強い程度で、見た目もほとんど人間と変わりませんからねぇ。こうして、こっちとあっちを行き来して商売してるんです。薬や布、嗜好品……まあ、色々と」
へらりと笑う姿は気安げだが、その実、かなり特殊な立場なのだろう。
異界と現世を往復できる者など、そう多いはずがない。
「それで、常一も?」
綴が何気なく問いを差し挟むと、日入の笑みがわずかに引き攣った。
「その件は、清遠の坊ちゃんからもご連絡を頂いておりまして……」
やはり、彼が清遠と通じている商人だった。
日入は、綴、相生、四葩へと順に視線を走らせ──最後に瓢と目が合った瞬間。
「………………申し訳ございませんッ!!」
凄まじい勢いで土下座した。
畳へ額が叩きつけられ、鈍い音が車内に響く。
あまりの勢いに、綴たちは揃って肩を跳ねさせた。
湯呑の茶が、ちゃぷ、と波打つ。
「え、ちょっと……っ」
「まさか、瓢様のご関係とは露ほども知りませんで……分かっておりましたら、もう少し穏便な方法というものも御座いましたのに」
「え? え?」
四人が揃って目を白黒させる中、日入はなおも畳へ額を擦りつけんばかりの勢いで続けた。
瓢家の分家が根の国にあるのは聞いている。
だが、ここまで怯えられるほどの何か繋がりがあるのだろうか。
やがて日入は、観念したように震える声を絞り出した。
「実は……常一様を連れ去ったのは、私でして……!」
寸秒、場がしんと静まり返る。
綴たちの頭上に、見えない“読込中”の文字でも浮かんでいるかのような間が落ちた。そして。
「はァ~~!? アンタ、何してんの!?」
理解が追いついた途端、四葩の怒号が屋形の中で炸裂した。
「返す言葉もございません……」
日入は半泣きの声でさらに頭を下げた。
身体がべしゃりと潰れ、もはや土下座というより土下寝である。
「いや、“ございません”で済む話じゃないでしょ!?」
「で、ですが、粧子お嬢さんには、誰も逆らえんのですよ……」
ほとほと弱り切った様子で、日入は顔を上げた。
その顔には先ほどまでの平謝りとは別種の、苦々しい疲労が滲んでいる。
「お嬢さんは弁も立つし、腕も立つ。なんせ鬼の血も混ざっとるもんで……」
「鬼ぃ?!」
四葩の声が裏返った。
正真正銘の鬼嫁である。常一が尻に敷かれる未来予想図が、嫌というほど鮮明に浮かんでしまった。
「こちらが一言えば、百で返してくるんです……どれだけ正論でも、お嬢さんが気に入らなければ意味がなくなる」
「え、なにそれ怖……」
相生も引き気味につぶやくと、日入ははっきりと首を縦に振った。
「怖いですよ。こっちの答えは“はい”か“イエス”か“承知致しました”しか許されません」
おそらく、過去にあった様々な無茶ぶりを思い出しているのだろう。非常に遠い目をしていた。
「それに、わたくしは雇われの身です。そうでなくとも、商売をする者は、笑壺家に嫌われたら終わりなんです」
中間管理職の哀愁を漂わせ、深いため息を吐く。
表向きは飄々と商売しているように見える彼も、実際には笑壺家の意向から逃れられない立場のようだ。
「それで、常一は無事なんだろうな?」
四葩が硬い視線を向けると、日入は目を泳がせて、それから観念したように口を開いた。
「お嬢さんからは、“殺して連れて来い”って話だったんですけど……」
「は?」
四人の顔から温度が消える。
一気にピリついた空気に、日入は慌てて両手をぶんぶん振った。
「いやいやいや! さすがに、殺しはしてませんよ!?」
「当たり前だろ!」
「私も商人ですから、多少の脅しや駆け引きはやります。でも、殺しはさすがに……寝覚めが悪すぎますし……」
「寝覚めの前に、犯罪だろ」
相生が心底うんざりした様子で、額を押さえた。
現代日本の法体系では許されない所業も、根の国ではちょっとしたルール違反程度の認識なのかもしれない。
どよんと重くなった空気に、日入はわざとらしく咳払いをした。
「……ですから!常一さんは肉体ごと根の国へ連れて行ってます。魂だけ攫ったんじゃありません。ちゃんと生きてますし、五体満足です」
「本当に?」
綴が目を眇め、相手の表情を探るように念を押す。
日入は眉をキリリと上げ、こくりと頷いた。
「ええ。少なくとも、私が別れた時点では」
「“別れた時点では”って言い方やめてくれる?」
「いやいや、変な意味じゃないですよ。普通に元気でしたから。飯も、もりもり召し上がってましたよ」
「飯……」
相生がピクリと反応する。
「笑壺家の料理人は一流が揃ってますからねぇ。食材は馴染みのないものも多かったみたいで、最初は戸惑ってらしたけど、すぐに“美味い、美味い”って仰ってましたよ?」
「よかったね、流転。ご飯、美味しいってさ」
綴がふっと微笑みかけると、相生はバツが悪そうに顔をしかめた。
「うるせぇ。どうでもいい」
「非常食まで持って行っといて、何言ってるの」
「バカ、今それ言うな……!」
慌てて相生が綴の口を塞ぐが、もう遅い。
「え、流転、非常食持って来たの? やっべぇじゃん」
案の定、四葩がにやにやと笑い始める。
自分のことは棚に上げて、完全に面白がっている顔だ。
その傍らで、瓢は小さく安堵の息を吐いた。
「監禁されているとか、拷問されているとか……そういう感じではなさそうですね」
「もちろんです!むしろ、お嬢さんがべったりで……」
日入の口ぶりからは、深刻さも、手遅れな気配も感じられない。
少なくとも常一は、今どこかで普通に飯を食える程度には無事なのだ。
瓢はすっと背筋を伸ばし、日入の目を真正面から見据えた。
「……あなたが関わる事は決して口外しません。不利益になるような真似もしない。ですから、少しご協力いただけませんか?」
根の国側の協力者を得ることは、先の作戦会議でも決まっていた。
まさか、こんな早い段階で候補が見つかるとは思っていなかったが。
「実は……」
白髪混じりの頭を項垂れさせ、日入は深いため息をつく。
「最初から、そのつもりでしたよ。清遠の坊ちゃんからも頼まれておりますし……瓢様、ひいては滑家に楯突くような真似は致しません」
──滑家。
その名を口にする時だけ、日入の声音にはかすかな緊張が混じる。
『二国分流録』に記された、ぬらりひょんを祖とする瓢と滑。
その存在は、この根の国において、単なる旧家以上の意味を持っているらしい。
少なくとも、日入のような商人が軽々しく逆らえる相手ではないのだろう。
ならば、こちらにも多少の交渉材料はある。
瓢がそう考えていると、日入は「いやぁ」と曖昧に笑い、頭を掻いた。
「粧子お嬢さんは……いずれ笑壺家を背負って立つお方です。商才もおありだ。口も立つし、腕っぷしまで強い。
……だからこそ、ちぃとばかし、周りが見えなくなる時があるんです」
吐き出された声には、長年仕えてきた者にしか出せない疲労が滲んでいた。
「欲しいもんは、絶対に手に入ると思っておられる。無理なら無理で、力尽くでも通せてしまう。実際、それだけの力があるお方ですよ。今回の件も、その延長みたいなもんです」
その口ぶりには、主への敬意も確かにあった。
だが同時に、扱いを一歩誤れば周囲ごと吹き飛ばしかねない爆薬を前にしたような、苦々しい憂鬱も混じっている。
「ここらで一度くらい痛い目見て、“なんでも思い通りになる訳じゃない”って学んでいただければなぁ……と。まあ、雇われの身で何様だって話ですが」
「随分、正直に言うんだな」
瓢が目を細めると、日入は「はは」と気の抜けた笑いを漏らした。
「信用してもらうには、まず自分の腹を見せないとでしょう?」
飄々とした口調だったが、その様子に嘘は感じられない。
少なくとも、この男は粧子に盲目的に従っているわけではなさそうだった。
完全な味方とまではいかずとも、常一との橋渡しくらいにはなってくれるだろう。
「……よろしく頼む」
そう言って、瓢は手を差し出した。
日入はぱちぱちと目を瞬かせてから、「心得えました」と、その手を握り返した。
─── 牛車は、そぼ降る雨の夜を駆け、微睡む四人を運んでいく ────
「さあ、そろそろ着きますよ。まずは百目鬼の門を通りますので」
日入の声に導かれるように、綴らは御簾の端をそっと持ち上げた。
湿り気を含んだ夜気が、指先に触れる。
外は、薄闇だった。
夜の名残が隅々に沈みながらも、ぼんやりと朝が生まれ始めている。そんな曖昧な色をしていた。
やがて前方に、石造りの鳥居が見えてくる。
長い年月を雨風に削られた灰白色の柱には、ぎょろぎょろと周囲を見回す無数の目があった。
「百目鬼の門……」
その悍ましい光景に、四葩の喉の奥がひやりと冷えた。
それでも牛車は速度を緩めることなく、鳥居をくぐる。
───ふっ、と空気が変わった。
まるで水底へ沈んだように音が遠のき、かすかな風だけが、すう、と綴たちの頬を撫でていく。
歓迎されているのか。それとも、値踏みされているのか。
判然としない気配だけが、じとっと肌にまとわりついていた。
鳥居を抜けると、目の前に大きな橋が現れた。
湿気を含んだ深い飴色の、古びた木造りの太鼓橋だ。
磨き込まれた欄干には幾筋もの傷が走り、積み重ねられた長い年月を物語っている。
「……三途の川、なのかな」
橋の下を覗けば、大河が流れていた。水は黒く、流れは緩やかなのに、底知れない。
川面にはぼんやりと灯りが映っている。
けれど空にも岸辺にも、それに応じる灯火は見当たらなかった。
橋を渡る音だけが、静寂の中へガタコ、ガタコと吸い込まれていく。
やがて、山なりの橋の向こうに──それは現れた。
城だ。
幾重にも重なる屋根。空へ溶けていくような楼閣。淡い灯りを滲ませる窓々。
山の端に漂う朝靄を背負い、その城は、まるで初めからこの世ならぬものとして生まれたかのように佇んでいた。
「……」
知らず、呑み込んだ息が喉に引っかかる。
すると傍らに控えていた日入が静かに立ち上がり、恭しく腰を折った。
「ようこそ───あやかし栄える、根の国へ」
2026.6.4




