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ゴーストライター  作者: 佐田読子


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11


灯亡書房の朝は、早くない。

決まった営業時間もなければ、その日の気分で開けるか休むかさえ決める。綴が気分でなくても、相生が店を開けることもある。その逆も然りだ。

もっとも、開けたところで客はほとんど来ない。

散歩の途中にたまたま見つけて覗いていく老人や、遠方から年に一度だけ訪れるホラーマニアの男。そんな客ばかりである。

常連といえば四葩と常一だが、厳密に言えば彼らは客ではない。

カフェスペースにコーヒー一杯で何時間も居座る、友人であり仕事仲間である。


今日は、綴の意向で昼前に店を開けた。

いつものように、映画パンフレットを雑多に詰めた箱を相生が店先へ出していると、めずらしく清遠がやって来た。

デリバリーバッグを背負い、自転車で坂道を上がってくる姿は、ただの配達員にしか見えない。

彼が道具屋で、そのバッグの中身が不吉の詰め合わせだとは到底思うまい。


「どうした、お前」

「綴ちゃんの万年筆のメンテだよ」


要点だけの短い会話を交わし、清遠は店先に自転車を停める。

そのまま遠慮なく店内に入り、「綴ちゃーん、来たよー」と、小学生みたいに声を掛けた。





「綴ちゃん、聞いて!」


常一が灯亡書房に駆け込んできたのは、長閑な昼下がりのことだった。

店内には、古書とコーヒーの匂いがゆったりと漂っている。

その安穏を破るように勢いよく戸を開けた常一だが、カフェスペースが目に入った途端、ぴたりと足を止めた。

小上がりに寝転び、我が物顔で昼寝を決め込んでいる清遠の姿を見つけたからだ。


「……げ、四志磨さん」


さっきまでの威勢はどこへやら、常一はあからさまに顔を歪めた。


「ひどいじゃん、常一。久しぶりなのに」


座布団を枕にしたまま、清遠がのんびりと口を出す。


「今んとこ、ろくな思い出ないねん。アンタに」


小競り合い。

というより、飄々と軽口を叩く清遠に、常一が一方的に翻弄されているだけの会話が続く。

直接顔を合わせるのは、鏡の瞳を回収した一件(※七話参照)以来だが、やはりどうにも胡散臭い男だと常一は思った。


「はいはい、そこまで」


パンパンッと手を叩いて、相生が二人の間に割って入った。

その後ろから、様子を窺うように綴がひょこっと顔を出す。


「それで、常一はどうしたの?」


ここへ来た目的を思い出して、常一は「そうや!」と身を乗り出した。


「ちょっと聞いて! きのう、急に姉ちゃんから電話来てな──」


清遠の存在は一旦端に追いやって、常一は鼻息荒く話し始めた。



常一には、四つ上の姉がいる。

倫子といって、今は実家の近くのアパートで、夫と三歳になる息子と三人で暮らしている。

仲が悪いわけではない。

盆や正月に顔を合わせれば、普通に世間話もする。

けれど、わざわざ電話をかけてくることなど、これまで一度もなかった。

だもんで、昨夜スマートフォンに表示された姉の名前を見たとき、常一は誰ぞに不幸でもあったかとヒヤッとした。


『トコちゃんって、心当たりある?』


倫子は、電話に出た常一へ開口一番そう言った。

かわいい弟相手だというのに、挨拶も近況報告もなしだ。


『理汰が、最近やたらと言うんよ』


姉家族とは、正月に会ったきりだった。

甥っ子の理汰は常一によく懐いて、その時も後をついて回り、しまいには一緒に風呂まで入ったほどだ。

だが、何か変なことを吹き込んだ覚えはない。

三歳相手に仕事の話をする訳もなし、常一にはまったく心当たりがなかった。


『幼稚園にも体操教室にも、そんな子おらんし。それに……』


電話の向こうで、倫子が少し言い淀む。それから、気に染まない様子で続けた。


『理汰、おしゃぶり代わりにいつもハンカチとかタオル持ってるやん? それをな、"トコちゃんの真似して"って言うて、顔に当ててくんのよ』


「イマジナリーフレンドとかいうやつちゃうん?」


空想と現実がごちゃまぜになった、理汰のままごと。

それに散々付き合ったのを思い出しながら、常一は言った。


『それも考えたけど、お外にしかおらんって言うねん。どんな子なんって聞いても、"お顔がタオルばっかり"って……訳分からんし』


三歳児の言葉だ。

会話が拙いのも、うまく説明できないのも仕方がない。

けれど、聞けば聞くほど不可解さは増し、砂を噛むような気味悪さが残るという。


『こないだもな、道の途中で何もないとこに手振ったり、公園で"バイバイしてくれたね"とか言うんよ。しかもな、だんだん家に近付いてきてる感じがあって……それが、なんかモヤモヤして』


電話の向こうで、倫子が暗澹とした息を吐いた。

こんな話をする姉は珍しい。

倫子は基本的に、幽霊だの祟りだのといった類いをまるで信じないタイプだ。

多少妙なことがあっても「気のせい」で片付けてしまえる、良く言えば大らか、悪く言えば大雑把な性格である。

けれど、今回は様子が違った。

息子が関わっているからだろうか、どこか神経質な響きが声に滲んでいる。


『アンタ、何とかできへんの?』


疑問形ではあったが、ほとんど命令だった。

できなくても何とかしろ──そんな圧が、受話口越しにも伝わってくる。

常一は「えぇ…?」とたじろいだ。

自分が以前、心霊写真の悩みをポロッと話した時には「はぁ?」の一言で切り捨てたくせに、ずいぶん都合のいい話である。

とはいえ、聞いた内容が穏やかではない事も確かだった。

何もない場所へ手を振る三歳児。

そして、その相手が少しずつ家へ近付いてきているという話。

怪異の理不尽さを知っているからこそ、笑って済ませる気になれなかった。

そんな訳で常一は、可愛い甥っ子のために情報を求め、灯亡書房へと駆け込んできたのだ。



「トコちゃん! それは良い!」


常一が話し終えた途端、だらしなく寝転んでいた清遠が、ばね仕掛けのように上半身を起こした。

さっきまでの気の抜けた顔はどこへやら、喜色満面の笑みを浮かべている。


「次はどこで現れるかと、ずっと探してたんだ。いやぁ、期待してない所から見つかるもんだね」


「何? どういうこと?」


常一は眉を顰める。

なのに、清遠はまるで宝物でも見つけたかのような顔だ。

ろくでもない展開になる予感しかしない。


「口裂け女やローリングジジイ、トイレの花子さん……」


清遠は指を折りながら、順番に名を挙げていく。


「そういう都市伝説系の怪異を、片っ端から集めてる人がいるんだよ。まあ、コレクターってやつだね」


──どうやって集めているのか、何の為なのか。

その辺りの説明は省いて、清遠は意味ありげにニィッと笑う。


「で、その人が、いま一番欲しがってるのが“トコちゃん”なんだ」



トコちゃんは、ハンカチを落とすとやってくる。

見た目は、五歳くらいの女の子。

おかっぱ頭に、紺色のプリーツスカート。

けれど、顔は見えない。

トコちゃんの顔には、一枚のハンカチがかかっている。

しかもそのハンカチは、落とした本人のものだという。

トコちゃんは、少しずつ距離を詰めてくる。

最初は、道ばたで見かけるだけ。

次は、公園の隅。

そのうち、帰り道の角。

気が付けば、家の近くまで来ている。

そして最後には、目の前に現れて、こう言うのだ。

「ハンカチと交換だよ」

トコちゃんは、ハンカチを返しに来る。

代わりに、その子を、遠い遠い、お山の向こうへ連れていく。



非常にマイナーな怪異ではあるが、児童向けの怪談本などに載っていることがある。

落とし物をするなという教訓めいた側面はあるものの、その出自ははっきりしない。


「俺が報酬払うから、生け捕りにしてきて」


さらりと言い放つ清遠に、綴はこめかみを押さえ、相生は大きく息を吐いた。


「……また始まった」

「四志磨のいない所で聞けば良かった」


一方、常一だけはぽかんと口を開けていた。

トコちゃんが何者かは、ひとまず分かった。

しかし、怪異コレクターだの、生け捕りだの……話の半分も、まだ頭の中で整理できていない。

だが、清遠が時々こうして無茶な依頼をする人間なのは知っている。

それに今回は、ある意味で自分が持ち込んだネタだ。

綴、相生、清遠。

三者三様の顔を順番に見回してから、常一はおずおずと手を挙げた。


「えーっと……うち、実家遠いけど大丈夫?」





常一の実家は、新幹線で一時間半。そこから在来線に乗り換えて、さらに一時間ほどの道のりだ。

車内アナウンスが、やわらかな男性の声で次の停車駅を告げる。

低く唸るような走行音のなか、窓の外の景色が帯のように流れていく。

遠くの家並みも、田畑も、みるみるうちに後ろへ滑っていった。


綴と相生は隣り合って席に座り、回転させた座席の向かいに常一が腰掛けている。

三人の膝の上には、朝食とも昼食ともつかない、開いた駅弁の箱が乗っていた。

常一は割り箸を手にしたまま、申し訳なさそうに肩をすくめた。


「ごめんな。いや、巻き込もうとは思ってたけど……」

「かまわないよ。甥っ子さんも心配だからね」


綴は弁当の煮物を一つ摘まみ上げ、気楽な様子で口に運んだ。相生も無言で頷き、卵焼きをつつく。


「一輪は良かったの?」

「うん。今回のは配信もできへんし、怖いから行かんって。今日はショート動画の撮影しとくらしいわ」


常一は醤油差しの蓋を開けながら、苦笑して答えた。

せっかくならと近隣の心霊スポットを回る案も出してみたのだが、四葩には即座に却下された。

もっとも、清遠が関わっていると分かった時点で、嫌がられるのは想定内だ。

過去に四葩と清遠にどんな一悶着があったのかは知らないが、十中八九ろくでもない事だろう。


常一は、ふと、綴が荷物棚に上げた風呂敷へ目をやった。

あの中には、彼の私物のほかに、清遠から預かった不思議な道具が包まれている。

空瓶と書いて、“うつろびん”。

怪異を一時的に保存しておける十センチ程度の小瓶だ。

収納の方法はいくつかあるらしいが、今回の段取りは決まっている。

まず、相生が怪異の動きを止める。次に綴が万年筆でインクへと変え、空瓶へ閉じ込める──といった算段だ。

怪異コレクターなる存在。そして、それを可能にする道具や能力を持つ人間。話として聞くぶんには面白い。

だが、当事者として関わっている常一にとっても、現実から浮いた話に思えた。


新幹線がトンネルに入ったのか、窓の外がふっと暗くなる。

ガラスには、三人の姿がぼんやりと映り込んだ。


「あ。そういや、この間は凰さんが同行してくれたんよ」


先日の『うよいだアーケード』での出来事を思い出して、常一が口を開く。

綴が「そうなの?」と、興味深そうに眉を上げた。

なにせ、ここ最近は気が向かないのか、瓢はとんと灯亡書房に顔を見せに来ないのだ。


「その時にな、ひらりんとの昔話を聞いたんよ。エピソードゼロみたいなやつ」


常一はハイライトだけ摘んで話すと、思い付いたように言葉を継いだ。


「綴ちゃんと流兄は、どこで出会ったん?」


その問いかけに、綴はくすりと笑みをこぼす。


「僕と流転は高校の同級生だよ。なかなか面白い出会い方だったんだ。──ね、流転?」


不意に話を振られ、相生は少しだけ目を逸らした。

弁当の隅に残っていた杏を箸でつまみ、そのまま口に運んで、ねちりと齧る。


「……まぁな」


新幹線がわずかに揺れ、車内に低い走行音が満ちた。

綴はその音に紛れるように、当時を思い出しながら口を開いた。


「うちの高校、七不思議があってね」


そのひとつが、校門前をさまよう落ち武者の幽霊だった。

夕方になると現れるだの、目が合えば刀を振りかざすだの、よくある類いの怪談だ。

けれど、綴がそれを初めて目にした時には、すでに怪談らしい物々しさは残っていなかった。


校門の前で、その落ち武者は地面に転がっていた。

そして、その上に相生が乗っていた。


「いやぁ、あれはさすがにびっくりしたね」

綴がくくくっと肩を揺らして笑う。


「学校の七不思議をボコボコにして、完全に尻に敷いてる人がいるんだから」


常一も想像してプッと吹き出す。相生は「言い方」と小さくぼやいた。


「それで僕が聞いたんだよ。“それ、どうするの?”って」


すると相生は、幽霊の頭に突き刺さった矢を押さえたまま、ニュートラルに聞き返してきた。


『どうすればいいと思う?』

それが、二人の最初の会話だった。


「流兄は、なんで落ち武者ボコボコにしてたん?」

「あっちが肩ぶつけてきたんだよ。売られた喧嘩は買うだろ」


相生にとっては、それが当然の日常だった。

なにせ彼にとって幽霊は、質量を持つ存在だ。

すれ違うときは、生きた人間と同じように避けなければならない。

相生が幽霊にぶつかるように、幽霊もまた、そのまま進めば彼にぶつかる。

たとえ故意でなくとも、ぶつかった時点で幽霊側は無視してくれない。


相生は強い。だが、祓う力は持っていない。


いくら叩きのめしても、落ち武者は消えないのだ。

数日もすれば何事もなかったように校門前へ現れ、そのたびに怒り心頭のまま相生へ向かってくる。

──そんなやり取りが、入学してから延々と繰り返されていた。

言ってしまえば、終わりの見えない喧嘩の無限ループである。


「それで、僕が流転に持ち掛けたんだ。協力しないかって」


その頃の綴は、すでに自分の能力を把握はしていた。

懐には、まだ真新しい万年筆。

いつでもスタンバイは万全だったが、肝心の幽霊を留めておく手段がなかった。

だから、逃げ足の遅い鈍感な霊をどうにか捕まえ、万年筆を突き立ててインクへと変え、書き起こす。

そうして出来た話を、自作のホームページに投稿していた。もっとも、評価はさっぱりだったが。


「まぁ、当然だよね」

綴は苦笑しながら、箸を置く。


「何せ相手が雑魚霊ばっかりだもん。エピソードが、どうにも地味でね」


そんな状況の中に、都合よく相生が現れた。

校門前で落ち武者を殴り倒している、妙な同級生。

物語性のある強烈な霊を欲する綴と、霊を再起不能にしたい相生。

奇妙な利害関係が、そこに成立したのだ。


「……まぁ、最初は苦労したけどな」

相生が、ぼそりと付け足す。


その紆余曲折にも興味はあったが、常一にはもう一つ、気になっていることがあった。


「これも、凰さんに聞いたんやけどさ」

ペットボトルの蓋を開けながら、常一は遠慮がちに問いかける。


「前の店主……硯さん? その人、どんな人なん?」


綴は「ああ」と、伏し目がちに頷いた。


「晨星さんか。簡単に言えば、祖父の友人で……僕の師匠、かな」


そう応えて、綴は自分の弁当を覗き込んだ。

ちょこんと残っていた梅干しを箸でつまみ上げ、そのまま何の躊躇もなく相生の弁当箱へ移す。

相生は特に文句も言わず、それを受け入れた。どうやらいつものことらしい。


「硯 晨星さん」

綴がその名前を口にするのは、ずいぶんと久しぶりだった。

懐かしさのあまり、昔読んだ物語の登場人物を語るような気分になるくらいだ。


「僕が十四歳の頃にね。祖父の墓で出会ったんだ」


新幹線がゆるやかなカーブに差しかかったのか、車体がわずかに揺れた。

窓の外の景色が、ゆっくりと角度を変えながら流れていく。

思春期の孤独と青臭い葛藤に満ちた過去を思い出して、綴は、ふっと口元をゆるめた。


「僕の祖父は、摩訶不思議なものが好きな人でね」


怪談に限らず、宇宙人や未確認生物、オーパーツに陰謀論……。綴の祖父はオカルト全般に興味津々の、いわゆるオタクだった。

謎の特訓の末、ぼんやりと幽霊や怪異を視る事はできたが、祓ったり捕らえたりする力は得られず、そのぶん知識だけは豊富だった。


当時の綴は、自身の力を持て余すばかりで、怪異との関わり方も分からず、周囲からは変わり者として浮いていた。

そんな中で、祖父だけが唯一の理解者で、友人だった。

だから、行き詰まった時や、どうしようもなく考えが絡まった時。その度に、綴は祖父の眠る墓を訪れた。

墓前でぽつぽつと胸の内を吐き出すと、頭の中で、生前と同じ様に祖父が優しく肯いてくれる気がしたからだ。


晨星との出会いは、緑が目に眩しい夏の始まりのことだった。

その日も鬱屈した悩みを胸に墓参りへと訪れた綴は、見慣れぬ先客の姿に足を止めた。

祖父の墓前に、ひとりの老人が立っている。

静かに花を供える横顔に、木漏れ日が揺れていた。

ノーカラーの白いシャツにチノパン。

遠目にも分かるほど、背が高い。

カンカン帽の影から覗く深い翠の瞳は、湖面に雨が落ちるように、かすかに波打って見えた。


綴が躊躇いながらも声を掛けると、老人はハッとしたように顔を上げた。

驚いたように目を見開き、しばらくのあいだ、綴の顔を見つめていた。


『ああ……』

やがて、静かにそう呟いて、老人は年季の入った右手を差し出した。


『君が、一途くんだね』

それが、綴と老人── 硯 晨星との邂逅であった。


「晨星さんは、僕と似た力を持っているんだ。怪異を墨に変えて、絵に起こせるんだよ」


実は幽霊画の界隈では名の知れた人物で、綴もその名に覚えがあった。

祖父の部屋に、彼の作品が一枚だけ飾られていたからだ。

それは、女の後ろ姿が薄墨で描かれた絵で、今にも振り返りそうな、冷たい予感を孕んだ不穏さがあった。

家族の間では評判が悪く、母などは「気味が悪いから外してほしい」と、何度も口にしていた。

けれど綴だけは、なぜかその絵が好きだった。

そこに描かれた何かに、奇妙な親近感を感じていたのだ。

祖父は、そんな綴を見るにつけ、満足そうに笑っていた。


『この絵はね、おじいちゃんの特別な友達がくれたものなんだよ。いつか、会ってもらえたらいいなぁ』


まさかそれが、祖父の墓前で叶うとは、夢にも思わなかった。

世の中には、数奇な巡り合わせというものがある。


その後、墓前で立ち話もなんだと、二人は喫茶店へ場所を移した。

そして、堰を切ったように、互いの話を途切れることなく語り合った。


「祖父と晨星さんは、大学で出会ったらしくてね。かなり親しい友人だったみたいだよ。

 卒業してからは、晨星さんのほうがあちこち拠点を移していたらしくて、顔を合わせる機会は減っていったみたいだけど……それでも、クリスマスカードのやり取りだけは、ずっと続いてたんだ」


祖父の遺品を整理した時のことを、綴は思い出す。

お菓子の空き缶いっぱいに、色とりどりのカードが詰め込まれていた。

母も、その存在はぼんやりと知っていたらしい。

その住所を頼りに、祖父の訃報を知らせる葉書を晨星に送っていた。


『化けて出ないってことは、未練もなく安らかに眠れたんだね』


その言葉の通り、祖父は老衰だった。

大きな病気にかかる事もなく、ある朝、ぽっくりと逝ってしまったのだ。


『もし幽霊になっていたなら、墨に変えてやったのに』


冗談ぽく戯けてみせる晨星だが、深緑の瞳の奥には、わずかに残念そうな色が滲んでいた。

その理由を、綴は聞かなくても分かる気がした。

お互い、せっかく視えるのだ。

幽霊になってでも、傍にいてくれたなら──そんな妄想を、これまで何度繰り返したことか。


『それにしても、君もずいぶんと厄介な匂いがするね』


突然話題を変えたかと思うと、晨星は、綴の纏う何かを嗅ぎ取るように目を眇めた。

聞けば、クリスマスカードのやり取りの中で、祖父が一度だけ綴のことに触れていたらしい。


──孫ができた。どうも君に似ている気がする。


その一文を読んだ時は、冗談半分に受け取っていた。

けれど実際に綴と顔を合わせた瞬間、晨星はその意味をすぐに理解した。


この子は、自分と同じものを視ている。

そして、その内に燻る素質までもが、自分とよく似ているのだと。


「その日から、晨星さんが僕の相談相手になった。力の使い方とか、怪異との距離の取り方とか……いろいろ教えてもらったよ」


祖父を亡くしてポッカリ空いた椅子に、今度は祖父の親友が、さり気なく腰を下ろしてくれたのだ。


「あの古書店はね、もともと晨星さんのギャラリーだったんだ。それを片付けて、僕に譲ってくれたの」


綴はそう言って、弁当箱の隅を箸で軽く突いた。

店の始まりに、語るほど大層なエピソードはない。

祖父の家の蔵にあった、山ほどの本。

民俗学だの、怪談集だの、年代物の和綴じ本だの……。

家族にとっては処分に困るだけの厄介な山だったが、綴にとっては違った。

祖父が生涯通して愛した宝の山だ。

ごみ扱いで焼却炉行きなんて、到底許せなかった。


「それを並べたのが、店の始まりなんだ」


商談スペースとして使われていた小上がりは、カフェスペースに変えた。

壁に掛かっていた幽霊画を外し、本棚を入れて、祖父の蔵書を少しずつ並べていく。

最後に、店名の書かれた看板を掛け替えれば──灯亡書房の完成である。


「晨星さんはね、終の住処を見つけたからって、六年前に海外へ移住したんだ」


それきり、直接会うことはなくなった。けれど、縁が切れたわけではない。


「今でも、クリスマスになるとカードが届くよ」


まるで祖父とやり取りしていた頃のように。

律儀な字で、短い近況が添えられたカードが毎年、灯亡書房のポストに投函されるのだ。


「ご馳走様でした」

話を区切るように、相生がパンと手を合わせた。


どうやら、思っていたより長く話し込んでいたらしい。

気がつけば、常一の弁当箱の中身もほとんど空になっていた。


「いやぁ……人に歴史ありやね」

常一は、しみじみと息を吐く。


今聞いた話も、ほんの断片に過ぎないのだろう。

綴と相生の出会いも、硯との交流も。

そこに至るまでにも、その先にも、喜怒哀楽を積み重ねた、もっと多くの出来事があったはずだ。


だから、ほんの少しだけ。

その青春を覗いてみたくなった。


「……じじいかよ」

相生は呆れたように言い捨てると、弁当のゴミを雑にビニール袋へねじ込んだ。





在来線に揺られて、一時間とちょっと。

単線の線路を、ガタンゴトンと進む列車は、新幹線の速さが嘘のようにのんびりとしていた。

窓の外には、常一にとっては見覚えのある田畑や住宅が続いている。


やがて、短いブレーキ音とともに、列車が止まった。

常一たちは荷物を手に、ホームへ降りる。

小さな橋上駅舎だった。

改札口の向こうでは、部活帰りらしい女子高生三人が、ジャージ姿で立ち話をしていた。


階段を下りたところで、常一が「あっ」と声を上げる。

駅前のロータリーに、一台の軽自動車が停まっていた。

運転席の窓がするりと下がり、中から女性が顔を出す。


「久しぶり」

つり気味の目に、跳ね上げたアイライン。

いかにも気の強そうな面立ちをした常一の姉──倫子だった。


「迎え、ありがと」

常一は軽く手を挙げて応じる。

倫子は助手席のドアを開けながら、後方の二人に目をやった。

すっと背筋を伸ばし、頭を下げる。


「いつもお世話になっております。姉の、倫子です」


きちんとした挨拶に、綴も柔らかく会釈を返した。

相生は「どうも」と軽く応じる。


常一が姉にどう説明したのかは分からないが、霊能者だの何だのと、いかにも怪しい肩書きの男が二人。

すぐに信用できるはずもない。

倫子はどこか懐疑的な気配を滲ませながらも、後部座席のドアも開けた。


「理汰はお母さんに預けてるから、とりあえず実家行くで」


ウィンカーを出してハンドルを切ると、車は滑るように駅前を離れていった。

久しぶりの地元の道。

助手席からその景色を眺めながら、常一は呑気に、くあっとあくびをした。


車は住宅街の細い道をいくつか曲がり、やがて一軒の家の前で止まった。

閑静な住宅街の一角に建つ青埜家は、最近、外壁を塗り替えたおかげで、壁も屋根も新しい色合いに変わっていた。


「着いたで」

倫子がエンジンを切る。

常一は車を降りると、玄関へ向かって「ただいま~!」と声を張った。


ほどなくして、玄関のドアが開く。

先に顔を出したのは母の誠子で、その後ろから小さな影がひょこりと覗いた。理汰だ。

けれど、見慣れない顔があると気付いた途端、理汰は祖母の足にぴたりとしがみついた。

恥ずかしいのか、顔だけをそっと横から覗かせている。

常一はその場にしゃがみ込み、目線を合わせた。


「覚えてるか? 常一やで。こんにちは」


理汰は少し考えるように首を傾げ、それから小さな声で言った。


「つねいつくん」

「惜しい」


常一が笑う。

その後ろで、綴と相生が軽く頭を下げた。


「はじめまして。綴と、相生です」

誠子は「あぁ、どうもどうも」と、少しよそ行きの顔で笑いながら、二人を家の中へ促す。


「遠いところ、よう来てくれはったね。とりあえず上がって」


理汰はまだ祖母の足にしがみついたままだが、時折ちらちらと来客の方を窺っている。

知らない大人が二人も来て、少し警戒しているらしい。

その面立ちは、母の倫子によく似ていた。

綴はクスッと笑い、「怖くないよ」とひらひらと手を振った。


居間へ通されると、誠子が手際よく茶の用意を始めた。

戸棚の奥から客用の湯呑みを取り出し、急須に茶葉を入れる。

やがて、湯気を立てる緑茶の香りが、ふわりと部屋に広がった。

その卓袱台の上に、倫子が白い箱をいそいそと置く。

近所のケーキ屋で買ってきたものらしい。

常一が箱が開けると、小ぶりなケーキがいくつか並んでいた。


「わざわざ来てもらって、ありがとうございます」


倫子がそう言って、改めて頭を下げた。

さっき駅で会った時より、いくらか表情が固い。

綴はゆるく首を振る。


「いえ。こちらこそ、お邪魔しています」


誠子は「まぁまぁ、堅いこと言わんと」と笑いながら、湯呑みを順に配った。


「こんな所まで来てもろて。お茶ぐらいしか出せへんけどね」


湯呑みを受け取りながら、常一はふと横を見る。

理汰は祖母の背に隠れたまま、ミニカーのタイヤをいじっていた。


「……理汰」

倫子が、低い声で呼ぶ。


「お客さん来てるんやで。ちゃんと挨拶」

少しの逡巡のあと、理汰は祖母の足から離れ、そろそろと母親の元へ寄る。

そのまま膝に腰を下ろすと、小さく身じろいだ。

そして、かわいらしい声で「こんにちは」と言い、ぎこちなく敬礼してみせた。

大人たちは一斉に頬を緩め、「こんにちはぁ」とやわらかな声で返す。


ここまでは、どこにでもある帰省の風景である。

──けれど、今回の目的はそういう事ではない。


ケーキに手を付ける前に、常一が軽く咳払いをした。

和やかな空気の中で話を切り出すのも気が引けたが、目的を後回しにする訳にもいかない。


「それで……トコちゃんの話なんやけど」


倫子は小さく頷き、理汰の肩にそっと手を置いた。

理汰は祖母に出してもらったショートケーキの、スポンジの部分だけをほじくって食べている。


常一は、清遠から聞いたトコちゃんの話を語った。

もちろん"それを捕まえたい"という件は伏せている。


「理汰、どっかでタオル落とした?」

やさしく問いかけると、理汰はこくりと頷いた。


「公園か?」

「こうえんちがうよ。スーパーで、しんかんせんのタオルなくなって」


倫子はすぐに思い当たったらしく、「ああ、あれな」と頷いた。

旅行先の駅で買った、新幹線の絵がプリントされたタオルハンカチだ。

理汰のお気に入りで、スーパーにも問い合わせたが、結局見つからなかった。


「それで、とこちゃんおって」


その一言に、居間の空気がわずかに張り詰めた。

常一は努めてやさしい口調で、「なんで、お名前分かったん?」と尋ねた。


「とこちゃんは、とこちゃん」

理汰は屈託なく答える。


直感なのか、それとも狙われた人間には分かる仕組みなのか。

いずれにせよ、気味の悪い話だった。

倫子にも当然、思い当たる節はないらしい。

その表情には、うまく言葉にできない感情が滲んでいた。


「トコちゃんって、どんな子なん?」

「おかおがタオル」


理汰は自分の顔の前に手をかざす。

そして、暖簾のようにひらひらとその手を動かした。

ここまで聞く分には、やはり都市伝説で語られる“トコちゃん”と、特徴は一致している。


「それで、いまどこ居るか分かる?」

「ううん」


理汰は素直に首を横に振る。


「さっき、じてんしゃのとこおった」


その言葉に、倫子がすぐ補足を入れた。


「“さっき”って、多分きのうのことやと思う。アパートの駐輪場に居ったみたい」


理汰はまだ時間の表現が曖昧で、過去の出来事をまとめて「さっき」と呼んでしまうらしい。

微笑ましい話ではある。こんな内容でなければ。


駐輪場まで来ていたということは、距離的にはもうすぐそこだ。

順当にいけば、次は玄関のドアを開けに来る。

その認識が、じわりと場の空気を厭なものに変えていく。


そこで、誠子がぽつりと口を挟んだ。


「泉水のばあちゃんも、よう幽霊おるって言うてたな」

「え?」


常一だけでなく、倫子もきょとんと目を瞬かせる。

姉弟そろって、ほとんど同時に「は?」と眉を寄せた。


「……そっか。ばあちゃん、怖がらせたらあかんからって、あんたらには言うてなかったか」


泉水のばあちゃんは、常一の母方の祖母だ。

理汰にとっては曾祖母にあたるが、二年前に鬼籍に入っている。


常一の知る泉水のばあちゃんは、長年看護師として働いてきた人で、数独と健康麻雀が趣味だった。

手際がよくて世話焼きで、誰にでも気さくに話しかける。

病院仕込みの肝の据わり方もあって、ちょっとやそっとのことでは動じない、明朗闊達な性格だった。


だが母の話では、ばあちゃんは昔から「そこに女の霊が立ってる」とか、「そっちは気が淀んでるから近寄ったらあかん」とか、そんなことを日常会話の延長みたいに口にしていたらしい。

徒らに怖がらせるつもりも、特別視している様子もなかったという。


実際、妙に当たる人ではあった。

親戚の誰それが男の子を産むだの女の子だのをさらりと言い当てたり、「あの人は長くない」と呟いた相手がほどなく亡くなったり──そう言えば、晩年に自分自身についても予言じみた事を言っていた。


「来年には迎えが来るから」


そう宣言して、ばあちゃんは身の回りの整理を始めた。

使わなくなった物を処分し、あちこちに連絡を入れ、まるで長めの旅行に出る前みたいに、きっちりと支度を整えていった。

冗談半分に聞き流していた家族をよそに、その翌年、ばあちゃんは本当に亡くなってしまった。


「ばあちゃん言うとったわ。足の親指にぐっと力入れて生きとったら、幽霊なんか怖ないって」


誠子の言葉に、常一と倫子は顔を見合わせ、「言いそう~」と苦笑する。

あの祖母なら、いかにも口にしそうな理屈だった。

そのまま、ばあちゃんの豪快伝説に話が流れかけたが、これまで静かに聞き役に回っていた綴が、ぽつりと口を開いた。


「トコちゃんは、幽霊とは少し違いますからねぇ」


それ以上の説明はなかった。

何事もなかったかのように湯呑みに口をつけ、緑茶を啜る。

静まり返った居間に、眠気に引かれた理汰が、いつものようにタオルの端を、じゅっ、じゅっと吸う規則的な音だけが落ちた。


「ほんで、どうしたらええの?」

倫子に軽くひと睨みされ、常一は慌てて綴と相生に向き直った。


トコちゃんは、今日にも理汰をお山へ連れて行くつもりだろう。

それも厄介だし、さっさと生け捕りにしなければ行方が分からなくなるのも困る。

清遠の依頼は成功報酬だ。

失敗すれば、交通費を含めた諸々の費用は、すべて常一側の負担になる。それだけは避けたい。


対して綴は、のんびりとした様子で倫子ににこりと微笑んだ。

そして、倫子に抱かれたまま、今にも寝落ちしそうな理汰をスッと指差した。


「理汰くんの髪の毛を、一束ください」





実家から徒歩三十分。三人は、姉家族のアパートへやって来た。

倫子から預かった鍵で扉を開けると、ふわりと生活の匂いが流れ出てくる。

玄関には小さな靴がきちんと並び、その横には脱ぎっぱなしのサンダルが一足。

ついさっきまでの慌ただしさが、そのまま残っているようだった。

常一は靴を脱ぎながら、居間に目をやる。

床にはカラフルなブロックがいくつも転がり、組みかけの何かが途中で放り出されている。


「さすが、派手に散らかしとるなぁ」

常一は笑いながら、しゃがみ込んで手早く拾い集めた。

あとでブロックを踏んで泣きを見たくない。


テーブルの上には、飲みかけの麦茶と、かじりかけのスナックパン。

テレビのリモコンはなぜか床に落ちていて、そのすぐそばにはタオルがくしゃっと丸められている。

どこを見ても、三歳児のいる家らしい賑やかな気配が残っていた。


綴は、玄関と居住スペースを仕切るドアに、てるてる坊主のような形をした紙を貼り付けた。

白い紙には、丸みのある字で理汰の名前が書かれている。


「それ、なに?」

常一がひょいと顔を出し、興味ありげに覗き込む。


「身代わり札、かな。いずれ使う日が来るからって、凰さんがくれてたの」


つまり、それは理汰がここにいるように見せかけるための札だ。


いま現在、彼には実家で待機してもらっている。

連絡があるまでは外出しないこと。決してドアや窓を開けないこと。

そうしなければ匂いが漏れ、アパートに理汰がいないと気付かれてしまう。

綴から説明を受けた倫子は、それを素直に受け入れた。

そして躊躇なく、理汰の髪をひと束、ハサミで切り取って差し出した。

普段の倫子であれば、笑って一蹴していただろう。

だが、その場にいた誰もが真剣だった。

トコちゃんの存在を疑うことなく動いていたし、祖母の話も無視できるものではなかった。

自分の常識に固執して、理汰を危険に晒すわけにはいかない。

そもそも、常一に連絡を入れたのは倫子自身だ。

弟なら、解決の糸口を知っている気がしたからだ。

確証も理由もない。

それでも倫子は、母親としての勘を優先したのだ。


キッチンのシンクでは、相生がジップロックから取り出した理汰の髪にライターで火をつけていた。

髪はじりじりと燃え、かすかに焦げた匂いが立ちのぼる。

細い煙がゆらゆらと揺れながら、換気扇へ吸い込まれていった。

この匂いを嗅ぎつけて、トコちゃんはやって来るはずだ。


明るい生活感に溢れていた室内が、徐々にきな臭さに満ちていく。

常一は手持ち無沙汰を紛らわすように、音絵本のおんぷボタンを押した。



───ピンポーン。

それから三十分ほど経った頃だろうか。

不意に鳴ったインターホンに、三人の呼吸がぴたりと止まる。

常一は無言のまま、用心深く画面を覗き込んだ。

だが、誰もいない。

映っているのは、人気のない道路と、向かいのアパートの駐輪場だけだ。


「……来たか」

相生が低く唸り、玄関脇で腰を落とし構える。

綴は息を殺したまま玄関へ向かい、そっと鍵を外した。

錠が外れるカチリという音に、三人の神経がひりつく。


直後、ぐぅぅ……と、ひとりでにノブが沈んだ。

ドアが、きぃ、と重たげに細く開く。


隙間の向こうに、まず見えたのは、草臥れた上履きだった。

つづいて、骨の浮いた膝小僧。紺色のプリーツスカート。

それらが順に、ずるりとこちら側へ滑り込んでくる。

小柄な体。肩で切り揃えられた、おかっぱ頭。

そして、顔。そこには、新幹線の絵が描かれたハンカチが暖簾のように掛けられていた。


「……トコちゃん」

常一が、閉じた口の中で呟く。


ゆぅらゆらと、地に足がついていないみたいに、不自然に揺れながら、それは玄関の中へと立ち入った。



「────いらっしゃいませぇ!!!」


次の瞬間、相生が力強く踏み込んだ。

一直線に間合いを詰め、そのままトコちゃんの顔面へ拳を繰り出す。


「んっ!?」

拳が、頭を突き抜けた。

相生はすぐに腕を引き抜き、ぐっぱっと拳を開いて、残った感触を確かめた。


「……そういうことかよ」

トコちゃんは、一枚の布で顔を隠しているのではない。

何枚もの布が幾重にも重なっているだけで、顔そのものは存在しないのだ。


「……チッ」

相生は舌打ちし、すぐに狙いを変えた。

顔が駄目なら胴へ、容赦なく拳を打ち込む。

ぐにゃり、と。人の身体ではない感触が、腕にまとわりついた。

内臓や骨を感じない。中身の抜けた袋を殴っているような、嫌に腑抜けた手応えだ。


だが、関係ない。相生は拳を連発した。

トコちゃんも抵抗したいのだろうが、手も足もぎこちなく空を掻くだけで、間に合っていない。

反撃の余地を与えないまま、相生はトコちゃんの髪を引っ掴んだ。

細く柔らかなはずのそれは、妙に湿っていて、指に絡みつく。


「きめぇ」

相生は悪態を吐き、力任せにトコちゃんを引き寄せ、床へ叩きつけた。

びたんッ、びたんッ、と。

水から引き上げられた魚みたいに、トコちゃんの体が床を打って跳ねる。


「ハンカチと交換なの! ハンカチと交換なの!」


甲高く、ひび割れた声。

癇癪を起こした子どものそれに似ているが、可愛げは微塵もない。

相生が鬱陶しげに押さえつける力を強めると、トコちゃんは関節のない人形みたいに手足をジタバタと振り回した。


「ハンカチと交換なの! ハンカチと───」

「うるさいよ」


綴が辟易した様子で、手にした万年筆のペン先を、トコちゃんの脳天へと突き立てた。

トコちゃんは手足をピンと引き攣らせ、ぶるぶると体を震わせる。

相生が離れると、輪郭が溶けるように歪み、紺色のスカートも、細い手足も、すべてが一様に黒へと滲んでいった。


「───ハンカチ、と……」

びたん、と最後に一度だけ跳ねて、どろりと液状に崩れ落ちる。

黒いインクが床を這い、ペン先へと吸い寄せられていった。


「常一、空瓶を」

差し出された手へ、常一が慌てて小瓶を放る。


綴はそれを受け取り、親指で蓋を弾き上げると、間髪入れず万年筆のペン先を瓶口へ差し入れた。

どぷ、どぷ、と。粘り気の強い黒いインクが、逆流するように瓶の中へ落ちていく。それは、底に溜まるたび、わずかに波打った。


やがて全てを移し終えると、綴は慎重に万年筆を引き抜いた。

縁に残った一滴までも逃さず瓶に収め、蓋をきっちりと閉める。

さらに、懐から取り出した『トコちゃん』と記されたシールで口を封じた。


「はい、捕獲」


玄関に置いてあった消臭ビーズの容器が、少し倒れて中身がこぼれた。

それくらいの被害で済み、トコちゃんの件はこれにて一件落着となった。

そのあっけなさに気が抜けて、常一はその場にへなへなと腰を落とす。

相生は物足りなかったのか、手足をぶらぶらさせていた。


「……流兄って、女こどもにも容赦ないよね」

常一がぼそっと言うと、相生は「はっ」と露骨に鼻で笑った。


「お前さ。ゴキブリ見つけたときに、“メスだから”とか“子どもだから”とか考えるか? 関係なしにぶっ叩くだろ」


どうやら彼の中では、怪異も害虫も同列らしい。

突き出された拳の軌道から顔をズラして、常一は空笑いでごまかす。

見た目に左右されず対処できるという点は、確かに心強い。

だが同時に、イカれているとも言えた。


「さて、僕らはこれで帰るよ」


綴はドアに貼ってあった身代わり札を、跡が残らないよう慎重に剥がしながら言った。


「え、そうなん? うちで良ければ泊まれるで?」

「いや、さっさとこれを渡さないと。所詮は一時保管品だからね」


綴が空瓶を軽く振ると、中のインクが脈打つように揺れ、じわりと赤黒く変色した。


── ハンカチと交換なの!


トコちゃんの金切り声が、耳の奥でリフレインする。

常一は引き攣った顔で、ぞわりと粟立った腕を擦った。


「常一はゆっくりしていくといいよ。お姉さん達によろしくね」


「あ。これ、返しといて」


相生が差し出したのは、トコちゃんの顔にかかっていた新幹線柄のハンカチだった。

タグには理汰の名前が書かれている。間違いなく、スーパーで落としたものだ。

どうやら、どさくさに紛れて剥ぎ取っていたらしい。

──それでトコちゃんは「ハンカチと交換なの」と、あれほどしつこく叫んでいたのかもしれない。


「……いや、もういらんと思う」

怪異の一部になっていたハンカチだ。

倫子だって、そんなものを返されても困るだろう。

そう思って、常一は手を引いたのに───


「理汰くんのお気に入りなんでしょ?」

「洗えばいいじゃん」


相生だけでなく、綴まできょとんとした顔で差し出してくるのだから、たまったものではない。


常一は二人の顔を見比べ、ひとつ息を吐いた。


「……やっぱイカれてるわ、二人とも」


今度は、はっきりと口に出して言った。





「トコちゃん、おらんの?」

「そやで。もう遠くに行くからバイバイやって」

「えー、ざんねん」


口ではそう言いながら、理汰はすぐに手元へ意識を戻した。

赤い積み木をひとつ上に乗せ、満足そうに頷く。

トコちゃんの件より、常一がひとりで実家に戻ってきた時の方が余程しつこかった。

「おにいちゃんたちは? かえったの? なんで? つねいつくんだけ?」と、矢継ぎ早に問い詰められて、いっそ綴達に戻って来てもらおうかと思ったくらいだ。


「ほんまに良かったん? お礼もできてへんのに」


倫子も同様だ。

綴たちがそのまま帰ってしまったのが、どうも気にかかるらしい。

常一は何度も大丈夫と伝えているが、いまいち納得していない。


「だから、大丈夫やって。ちゃんと分かってはるから」

「相場とか分からんけど、いくらかは用意しとったんやで?」

「ええって。そのへんも話はついてんねん」


そう返されても、倫子の表情は晴れない。

律儀な性分ゆえ、何も支払わないままでいる方が、かえって落ち着かないのだ。


「ほんで、キレイに解決はしてんな?」

姉弟の堂々巡りの会話を見かねてか、誠子が夕飯用の野菜を刻みながら口を挟んだ。


「した。詳しくは言えんけど、そりゃもうコテンパンにしてくれたで」


要る要らないの押し問答の末、常一は結局タオルハンカチを持ち帰った。

そして、解決の証として、ひとまず倫子には見せた。

タグに書かれた名前も、理汰が噛んでほつれた端も、間違いなくあの日失くしたものだ。

それを見た倫子は、トコちゃんという怪異の実在と、綴たちがそれに対峙した事実を、現実として受け入れたようだった。


「ほな、よかったやないの。お礼なら菓子折りに手紙でも付けとき」


それだけ言って、誠子はコンロの火を強めた。

じゅっと油がはね、部屋にいい匂いが広がる。


「しかし、泉水のばぁちゃんの話はびっくりしたわ」

常一はダイニングの椅子に座り、あぐらをかいた。

倫子も頷きながら、理汰が落とした積み木を拾い集める。


「それ言うたら、常一の心霊写真の話もやろ。お母さん、さっき倫子から聞いて知ったで?」

包丁のリズムを崩さないまま、誠子も言い返す。


「だって、言うても意味ない思うやん。現に姉ちゃんには、適当にいなされたし?」

常一はテーブルの端に頬杖をつき、当てつけるように語尾を伸ばす。

それに対して、倫子はばつが悪そうに唇を尖らせた。


「ゴメンやん。転職ばっかしてるん怒られたくなくて、そんなん言い訳にしてるんやと思ってん」

「そんな言い訳する奴、アホやん」

「アホやん、あんた」


「は?」「あ?」

常一と倫子が同時に顔を上げ、睨み合う形になる。


再びフライパンに油が落ちて、じゅっと強めの音が立った。

跳ねた油が、コンロの縁でぱちぱちと弾ける。


「しょうもないケンカやめ。お父さん、もうすぐ帰ってくるしな」

誠子が手を止めずに言う。

その声には、慣れきった呆れが混じっていた。


「……え、早ない?」

常一は視線を倫子から外し、壁の時計へと向けた。

父が勤める会社は、家から車で十五分とはいえ、まだ十八時を回ったばかりだ。


「理汰に会いたいから、定時ダッシュや」

「いや、今日は俺ちゃう? 頻繁に会っとるやろ、孫には」

「関係あらへん。毎日でも会いたいんや、孫は」


きっぱりと言い切る誠子に、常一は堪らずゲラゲラと笑った。

リビングでは、相変わらず理汰が積み木を積み上げている。

崩れても気にせず、また同じ形を作り直していた。


「できたー」

小さな塔を掲げて、得意げに笑う。

その声に、誰からともなく理汰へと視線が集まった。

空気がほどけるように、やわらかな気配が部屋に満ちる。


理汰を標的にしたのが、運の尽き。

今ごろトコちゃんは、新幹線に揺られているのだろう。

窮屈な小瓶に詰められたまま、明日にはきっと、怪異コレクターの蒐集品のひとつになる。


──けれど、そんなことは青埜家の誰にも関係ない。


それよりも、このあと理汰が新幹線のタオルハンカチを見つけてしまい、「また使う!」とひと騒動起きることになる。


青埜家にとっては、そっちのほうがよほどの大問題なのだった。





【完】



2026.4.6

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