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月曜9時の恋人――上司と部下のリモート勤務録  作者: 妙原奇天


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9/11

第9話 カメラの外の僕ら

 月曜の朝、九時の五分前。

 いつもなら、各自の部屋で同じ曲をミュートで流し、画面の前でうなずく儀式の時間だ。

 けれど、今朝の受信トレイには、見慣れない件名が最上段に置かれていた。


【総務より】段階的なオフィス再開について(出社推奨日のお知らせ)


 指先が、スクロールしようとして止まる。

 “段階的”“推奨”――丸い言葉で縁取られているのに、本文の随所にある太字の“安全”“混雑回避”“指定フロア”が、うっすらと硬い音を立てる。

 来週から、対面勤務が戻る。火曜と木曜は、原則出社。

 Teamsのカレンダーに、灰色だったスペースに薄い青がにじむみたいに、新しい予定が自動で挿入される。


 “出社”という二文字が、胸のどこかで古い筋肉を目覚めさせる。

 電車の匂い、エレベーターの密度、壁のホワイトボードの乾いた軋み。

 そして、画面の枠を外れた“彼”。

 ――初めて“画面の外”で会う日が、本当に来る。


 九時。

 接続。

 青が立ち上がり、彼が現れる。

 シャツは水色。背景の観葉植物は少しだけ剪定されたようで、葉の輪郭が軽くなっていた。


「おはようございます」


「おはよう、遥」


 言葉を重ねると同時に、チャットのバッジがひとつ弾ける。

 彼からの短いメッセージ。


通知、見た?


 僕はうなずく代わりに、打つ。


見ました。来週から、ですね。


うん。

……ねえ、どこかで、対面の確認しておこうか。


 どこかで――という言い方が、妙に可笑しい。

 “どこか”は、これまでずっと同じだった。画面の向こう、光の矩形。

 けれど、来週の“どこか”は、ビルのフロア、廊下の角、会議室のガラスだ。

 いくつも、いくつも、現実の角と線の中に、僕らが置かれる。


ロビーで。来週の火曜、九時五分。

“九時の五分”は、儀式の継続で。


了解です。


 了解の二音が、今朝は心臓の裏面に吸い込まれるように消えた。

 吸い込まれる、というのは、飲み込むのではなく、馴染むことだ。

 馴染みかけた瞬間、彼がふいに付け足す。


……直接会うの、はじめて、だね。


そうですね。

はじめまして、ですね。


はじめまして、だ。


 記号のように並んだ言葉が、可視性を持って胸に落ちる。

 はじめまして。

 これまで何十時間も画面越しに共有してきた“日常”の上に、いまさら差し込むには、少し場違いで、少し正直な挨拶。

 正直は、いつだって場違いだ。

 でも、場違いな正直さは、ときに場を整える。


 会議は流れ、数字は整い、午後に向けてタスクは分かれる。

 “来週、ロビーで”の一行は、何度か画面の端で小さく光っては、沈む。

 沈んで、また浮かぶ。

 浮かぶたびに、胸の空洞の形が微妙に変わるのがわかる。空洞は、呼吸の奥にある。そこに風が当たると、人は未来を具体の温度で想像できるようになる。


 出社の前の週末、僕は靴を磨いた。

 革の表面に薄くクリームを延ばして、布で円を描く。

 円は線だ。閉じている線。

 円を描きながら、僕は“黄色い線”の合図のことを思い出す。

 画面の上で合図できたものは、現実の床ではどう合図すればいいだろう。

 付箋に小さく“黄色い線”と書いて、名刺入れに挟む。

 線は、持ち運べる。


 当日の朝。

 久しぶりの満員電車は、記憶より薄味で、しかし確実に重かった。

 吊り広告の角が額に触れそうで触れない距離を作り、窓の外のスピードは体感より速く、駅のホームに降りると、空気は街の匂いを強く思い出させる。

 消毒液のアルコール、パン屋のバター、見知らぬ人の柔軟剤。

 人の匂いは、役割を簡単に剝いでしまう。

 役割が剝がれると、僕はただの“体”に戻る。

 ただの体になって、ガラス扉に手を伸ばす。

 反射した自分の姿が、少しだけよそ行きで、少しだけ眠い。


 一階のロビーは天井が高く、石の床が足音を長く引いた。

 九時五分。

 入口近くの柱の手前で、彼は立っていた。

 画面の解像度では拾いきれなかった色と、匂いと、密度。

 高さ。肩幅。歩幅。一歩ごとに揺れる上着の裾。

 視線が、窓に跳ねてすべる。

 彼も、こちらを見た。


 目が合う。

 合ったまま、外れない。

 これまでと同じ“合う”なのに、まったく違う効果を持って胸に届く。

 カメラ越しの視線は、機械が均質化してくれた。

 現実の視線は、奥行きと温度を持っている。

 奥行きと温度は、余白を奪う。

 余白を奪われると、人は急に言葉を失う。


「はじめまして、ですね」


 同時に言って、同時に笑った。

 笑いながらも、視線を逸らせない。

 逸らせないから、代わりにまぶたを一度だけゆっくり閉じ、開く。

 まぶたの薄い皮膚を通る光の量で、ここが現実だと体が了解する。


「思っていたより――」


 彼が言いかけ、胸の奥で何かがまた形を変える。


「思っていたより?」


「いや、その……背が、近い」


「近い?」


「画面だと、いつも君の目線が少し上だと思ってて。今日、同じ高さで、安心した」


「僕も、同じです」


 同じ、という言葉の居場所が、ロビーの朝の空気の中で自然に見つかる。

 それから二人で、受付の自動ゲートを抜ける。

 顔認証の無機質な青が一瞬だけ目の前に光り、エレベーターの鏡に並んだ肩が映る。


「スーツ、似合ってる」


「ありがとうございます。真澄さんも」


「久々で、こっちが落ち着かない」


「僕もです」


 言葉のやりとりは、いつもより短く、いつもより丁寧だ。

 丁寧は、不慣れへの保険だ。

 人は保険の枚数で、初めての場面に向き合う力を調整する。


 フロアに着くと、空調の音が柔らかく渦を巻いている。

 見慣れたロゴの看板。まだ新しいアルコールのボトル。

 オフィスの匂いは、季節やニュースよりも正確に「戻ってきた」を伝える。

 彼が案内するように、僕の一時的な席に目をやる。

 “在宅勤務時の簡易席割”。手書きでそう書かれた紙が透明のスタンドに挟まっていた。


「荷物、そこ。……コーヒー、淹れる?」


「お願いします」


「ミーティングルーム、九時半から取ってある。儀式の五分は、今日はどうする?」


 五分――。

 同じ曲を流す、あの時間。

 ここでは、スピーカーをONにすれば周囲に音が漏れる。

 それでも、彼は選択肢を僕に渡した。


「イヤホンで、行きます」


「了解」


 了解の二音は、ガラスの壁に小さく反射して、ふたつに聞こえた。

 イヤホンの片方だけを耳に差し、曲の頭を合わせる。

 再生。

 ピアノの最初の和音が、耳の奥でふくらむ。

 向こうの耳でも、同じ和音が、同じタイミングで起きているはずだ。

 けれど、今は“はずだ”を、目で確かめられる。

 彼が、わずかに頷いたから。


 五分が終わる。

 曲は止む。

 静けさが落ちる。

 カメラの赤いランプがない場所で、僕らは“開始”の合図を口で言う。


「じゃあ、始めようか」


「はい」


 ミーティングルームは、ガラス張りで、曇りガラスの下端だけが白く、座ったときの膝から下が外に見えない仕様になっている。

 向かい合わせではなく、斜めに座った。

 真正面は緊張する。

 画面の四角は対面を擬似的に作ってくれたけれど、現実の正対は、まだ筋肉痛だ。


 PCを開き、共有の資料を並べる。

 同じ画面。

 同じフォント。

 同じ青。

 なのに、光の出どころが違うだけで、意味の濃さが変わる。

 “カメラの外”の光は、紙のように机の上に落ち、僕らの指先の温度で読み札の裏みたいに少しだけ反る。


「ここ、分岐の説明、たぶん図のほうが早い」


「はい。僕、描きます」


 タブレットに手を伸ばしたとき、彼の手の甲が近くをかすめた。

 触れていないのに、触れた気がした。

 空気の密度が、手の甲の上で一秒だけ変わる。

 その一秒に、呼吸の場所を奪われる。


 ――黄色い線。

 ポケットから名刺入れを出し、挟んでおいた付箋を取り出す。

 小さな黄色い長方形に、“線”の二文字だけ。

 机の端に、そっと置く。

 彼が、それを見て、頷いた。

 頷いたあと、口元が少しだけ笑った。


「助かる。これ、いい」


「持ち運べる線、にしました」


「持ち運べる線。名品だ」


 線は、物になったとたんに、少し可愛くなる。

 可愛いものは、扱いがうまくなる。

 扱いがうまくなると、余白が戻る。

 余白が戻ると、ようやく作業は滑り出す。


 午前のうちに、説明の冒頭はほぼ片がついた。

 昼を少し過ぎ、二人でフロアを出て、エレベーターホールへ。

 外は雲。

 風が湿気を連れていて、街の色は一段暗い。

 ビルを出てすぐの角に小さな食堂があり、空いた時間のはずなのに不思議と混んでいる。店先に雨粒が二つ、三つ落ちた。

 店内に入る。カウンター席の端、二つ並び。

 隣り合うと、距離は自然に近くなる。

 近いのに、画面の頃みたいな“言葉の余白”がない。

 黙ると、黙りの輪郭がくっきりしてしまう。

 話すと、話す声が他人の耳に入りそうで、ためらう。


「こういう場所、久しぶりだね」


「はい。店の音楽が、やけに立体です」


「椅子の脚が床で鳴る音、懐かしい」


「わかります」


 わかります、の二音が、今日はよく使われる。

 “わかる”ことが、距離のメジャーになる。

 メジャーの目盛りは、細かければ細かいほど、正確に測れる。

 けれど、細かすぎる目盛りは、人を疲れさせる。

 僕らは、今、ちょうどいい目盛りを探している。


 定食の味噌汁は、家で作るのより塩気が強かった。

 強さは、安心につながることがある。

 塩気が体の底を温め、会話の温度を半度上げる。


「――思ってたより、視線、難しいですね」


 僕が箸を置いて言うと、彼は頷き、ゆっくりと味噌汁を置いた。


「うん。リモートのときは、カメラを見るか、画面を見るか、迷ってればよかった。

 今は、遥の目を見ると、近すぎるときがある。目を逸らすと、失礼になる気がする」


「“見つめる”ことが、“触れない”より難しい」


「名言だね」


「名言ってほどでも」


「いや、本当に。触れない、って、距離があって守られるんだと思ってた。

 でも、視線は、距離があっても突き抜ける」


「はい。たぶん、視線は音に似てます。壁を薄く通る」


「なるほど。……じゃあ、俺たちのこれまでって、ずっと視線の音でやり取りしてきたのか」


「はい。耳の奥で見る感じの」


 彼はふっと笑った。

 笑いは、スープより優しい。

 優しいものは、体に早く吸収される。


 食べ終わって外に出ると、雨が本降りになっていた。

 ビルの軒先に人が集まり、各自の傘が花の群生みたいに開く。

 彼が、コンパクトな黒い折りたたみを広げた。


「入る?」


「いいんですか」


「“黄色い線”を真ん中に置くから」


 冗談めかして言い、傘の柄を少し斜めに傾け、真ん中を示す。

 僕は半歩、彼のほうの雨の中へ寄った。

 肩が触れそうで触れない。

 布に叩きつける雨の音が、傘の内側の空気を細かく揺らす。

 揺れのたびに、体温が少しずつ均されていく。

 通りを渡る短い距離。

 信号が青から点滅に変わる。

 横断歩道の白線が、雨で濃くなる。


「――黄色い線、便利だな」


「はい。こんなときにも持ち運べる」


「名品だ」


 午後、オフィスに戻ると、会議は容赦なく僕らを通常運転に戻す。

 ガラスの会議室で、対面の呼吸のテンポを掴み直しながら、僕らは必要なだけ“上司と部下”の顔を使う。

 使う、という意識がある限り、それはたぶん仮面ではない。

 仮面は、気づかないで被ってしまうものだ。

 気づいて顔を選ぶことは、むしろ素顔の保護に近い。


 夕方、資料の最終を終え、フロアの灯りが一基ずつ落ち始める。

 帰る人、残る人。

廊下に貼られた社内報の告知には、来月の健康診断の日程と、防災訓練の予告。

 初日から、世界は僕らの個人的な時間の都合を待ってはくれない。

 それが、社会だ。

 社会に並んで歩くには、ふたりで歩幅を調整する以外に方法はない。


「今日は、どうだった?」


 エレベーターの前、彼が少しだけ肩を落として笑う。


「“はじめまして”でした」


「うん。“はじめまして”だった」


「でも、全部が初めてだったわけじゃないです」


「そうだね。九時の曲の、最初の和音は、同じだった」


「はい。あれでだいぶ、救われました」


「俺も」


 扉が開き、乗り込む。

 鏡の中で並んだ肩は、ここまでの一日で少し近づいたのか、朝より自然に見えた。

 ビルを出ると、雨は上がっていて、石畳は濡れたまま薄く光っている。

 街路樹の葉の縁から、水滴が一つずつ落ちる。

 落ちるたび、音はしない。

 でも、目が音の代わりをしてくれる。


「駅まで、一緒に」


「はい」


 並んで歩く。

 喋りすぎない。

 喋らなさすぎない。

 沈黙の厚みに気を配り、必要に応じて、言葉で薄める。

 薄め方は、画面のときと違う。

 現実の沈黙は、画素を持っていないから、濃度の変化が早い。

 早さに、体のほうがついていかない。

 でも、ついていこうとする体は、昔より長く歩けるようになっている。


 改札の前で、彼が立ち止まる。

 僕も止まる。

 視線を合わせる。

 朝よりも、目が合うことが怖くない。

 怖くないので、余計に、少しだけ怖い。

 怖さは、たぶん正常だ。


「また明日」


「はい。……真澄さん」


「うん」


「黄色い線、明日も持ってきます」


「助かる。俺も、持ってくるよ」


「持ってるんですか?」


「心の名刺入れに」


 笑って、軽く会釈。

 それだけで、ふたりは別の流れに入っていく。

 ホームの風が、電車の到着を知らせ、足元の黄色い線に視線が落ちる。

 ――この線の内側にいれば、守られる。

 そう思っていた。

 でも、本当は、守られているのは線のせいじゃない。

 “内側”だと、ふたりで了解し続ける、意志のせいだ。

 確認の手間を惜しまないことが、安全の根拠になる。


 電車に乗り、窓の外に街の灯りが流れる。

 混ざり合う色の中に、ガラス越しの自分の顔が薄く重なる。

 重なった顔が、少しだけ新しい。

 “画面の外”の光に一日晒された顔は、心持ち、輪郭が確かだ。

 確かで、同時に、柔らかい。


 家に着くと、靴を脱ぐ前にスマホが震いた。

 彼からのメッセージ。


はじめまして、でした。

でも、ずっと前から知ってる感じも、ちゃんとありました。

明日も九時の五分、耳で。


 僕は立ったまま、返す。


了解です。

今日、線を持ち運べました。

たぶん、明日も持てます。


 既読の丸がつき、短い既読の沈黙の後、もう一行だけ落ちる。


“見つめる”は“触れない”よりむずかしかったけど、いい練習になった。

おやすみ。


 “練習”。

 練習という言葉は、結果への焦燥を少しだけ遠ざける。

 遠ざけて、呼吸を整える。

 整えた呼吸は、眠りを呼ぶ。


 シャワーを浴び、湯気の薄い膜を潜って、部屋の明かりを落とす。

 暗闇の中で、手探りで名刺入れを開き、黄色い付箋の角に指を触れる。

 紙は、少し湿って、指の温度を吸う。

 紙の“線”は、頼りない。

 頼りないのに、今夜は、それが十分に強い気がした。


 枕に頭を置く。

 目を閉じる。

 耳の奥に、朝の曲の最初の和音が小さく戻る。

 同じ曲。

 同じ九時。

 でも、明日は、同じではない。

 “カメラの外”のまま、始まる九時だ。

 画面の四角を、気配の四角で代替する。

 光の矩形はない。

 かわりに、窓の矩形がある。

 窓の外で、風が薄く動く。

 動くたび、心臓の右側の空洞がわずかに膨らむ。

 膨らんで、縮む。

 そのリズムに合わせて、眠りが来る。


 ――“見つめる”ことが、“触れない”より難しい。

 その矛盾を、僕らは今日、やっと手のひらに乗せた。

 乗せたから、落とさないように、少しだけ手を丸める。

 丸めた手の内側に、黄色い線の細い端が、静かに横たわっていた。



 翌朝、九時の五分前。

 イヤホンを片耳に、各自の席で座る。

 合図のないまま、同じ曲の頭を同時に再生する。

 ピアノの和音が耳の奥で立ち上がり、体の中の二、三箇所で微かな共鳴を起こす。

 視線を上げると、ガラスの向こうで、彼がわずかに頷いた。

 頷きの角度によって、今日の距離は測れる。

 測った距離に合わせて、歩幅を変える。

 歩幅を変えるうちに、また、線は薄れるだろう。

 薄れたら、二人で引き直す。

 それだけで、たぶん、今日も前へ進める。


 カメラの外の僕らは、まだ不器用だ。

 でも、不器用さは、ある種の誠実さの形でもある。

 誠実さがある限り、九時の曲は、いつでも同じ和音で始まる。

 そして、今日の“はじめまして”は、また、少しだけ更新されていく。

 更新されながら、重なっていく。

 重なったところに、やがて、僕らの生活が、きれいに置かれる。

 その手前で、僕は静かにうなずき、最初のタスクをクリックした。

 クリックの音が、カメラのない朝の空気に、小さく、しかし確かに届いた。

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