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月曜9時の恋人――上司と部下のリモート勤務録  作者: 妙原奇天


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8/11

第8話 “上司と部下”の線

 月曜の九時が近づくと、部屋の空気は決まって一定の硬さを帯びる。

 淹れたてのコーヒーから上がる湯気は、日曜の夜に残った甘さをゆっくり薄め、画面の青白さは、週末の影を壁の奥へ押しやる。窓の外は晴れ、ベランダの手すりには細い光の筋。先週の金曜、グラスの中で氷が鳴った音が、まだ胸のどこかに埋まっている気がした。


 八時五十九分。

 指先で前髪を整え、息をひとつ吐く。プレイリストの「同じ曲」をミュートで再生し、接続ボタンを押す。画面が切り替わり、僕らの日常が立ち上がるはずだった。


「……おはよう」


 少し遅れて、彼が現れた。

 桐谷――いや、真澄さんの声は、いつもよりわずかに乾いていた。渇きと言っても荒れているわけではない。ただ、表面に薄い膜が張られたみたいな反射を帯びている。シャツは白、襟はきちんと立ち、背景の観葉植物の緑も変わらない。けれど、目の置き場が、どこかぎこちない。


「おはようございます」


 重ねた「おはようございます」が、ふつうならすぐに馴染むのに、今日は表面で跳ねて、なかなか沈まない。僕は、自分の声が半音だけ高くなっているのを自覚した。マイクの向こうで彼が小さく頷き、視線をモニターの左に滑らせる。共有の準備の合図だ。


「昨日の会議、助かった。あの二ページ、温度がちょうどよかった」


「ありがとうございます」


「――で」

 一拍。

 その短い無音に、週末の残響がひとつ落ちる音がした。

「……あの件は、業務に集中しよう」


 あの件。

 金曜の夜の、氷の音。

 “二人だけの世界みたいだな”の“みたいだな”。

 土曜の朝に届いた「昨夜のことは忘れていい」。

 それらが、三文字の「件」に圧縮されて、今、机の上に置かれた。


「了解です」


 口が勝手にそう言った。

 了解、という音は便利だ。ほとんどの凹凸をならしてくれる。けれど、ならし過ぎると、感情の置き場を失う。画面の右上にある時計は九時二分。いつもなら、この時間には軽い雑談の余白が残っているのに、余白の縁が今日はきりりと直線になっている。


 彼が画面共有のボタンを押す。

 青いUIが広がり、今週のタスクボードが整然と並ぶ。

 声は、仕事の形に戻った。

 数値、期限、割り当て、依存関係。

 紙の上では美しい四角と矢印が、僕らの会話を枠取る。呼吸の浅さは、まだ残っている。


「十一時、先方の仕様確認。午後はテスト観点の二次。夕方の社内共有、今日のうちに叩きたい」


「はい、FAQの分岐も、語尾二系統で最新に合わせます」


「助かる」


 助かる、の音の端が硬い。

 硬さは、こちらの頬の内側に小さく当たって、すぐに溶ける。

 溶けるけれど、今朝は、微かな塩味が残る。


 五分ほど進行したところで、彼の視線がふと逸れた。チャット欄に何かが落ちてきたのだろう。「人事より:ハラスメント対策eラーニング受講のお願い」。あまりにもタイミングが悪い。いや、良すぎる、と言うべきか。彼は無言で通知を閉じ、わずかに長く息を吐いた。


 カレンダーの九時半に小さな星印。社内の定例。

 その星の尖りが、今日はやけに目に刺さる。

 僕はカーソルでスライドの見出しをなぞりながら、自分の胸の内側にもう一本の線を引いた。会社の床にある黄色い注意の線。ホームの縁に沿って引かれた、安全のための境界。それを画面のこちら側に仮想で引く。指先が、空中で細い直線を描く。


 十時になって、彼が短く言う。

「――五分、いい?」


「はい」


 通話は切れない。マイクがいったんミュートになり、画面共有だけが動く。カーソルの動きが止まって、右下の彼の小窓が僕を見た。ミュートを外す音。


「遥」


「はい」


「言い方、下手だった。……“業務に集中しよう”って、距離を戻すみたいに聞こえるね」


「いえ」


「違うんだ。戻す、じゃなくて、守る。上司として」


 守る。

 その二音は柔らかく、同時に、胸骨の奥を内側から押す。

 押されると、人は、呼吸を忘れる。


「守られる、って――」


 言いかけて、喉の奥で言葉が空回る。

 守られることが、こんなにも息苦しいなんて、初めて知った。

 金曜の“忘れていい”は、僕の土曜を守ってくれた。守られたことで、僕は自由に走れた。けれど、今朝の“守る”は、僕の歩幅を半歩だけ短くする。たった半歩。けれど、その半歩の短さが、長い距離になる予感がする。


「俺、部下として失格ですか」


 声が、自分でも驚くほど震えた。

 画面の向こうで、彼の瞳が一瞬だけ大きくなる。すぐに戻る。

「……違う」


 間髪入れず、彼は言った。

 今朝いちばん迷いのない声だった。


「違う。ただ、上司として守りたいだけだ。君が、安心して“仕事の顔”でいられるように」


「俺は、守られないと仕事できない、ですか」


「そうじゃない。君は――」

 言葉がそこで途切れた。

 切ろうとしたわけではない。選ぼうとした。選び直そうとして、間に沈黙が落ちた。

 その沈黙は、金曜の夜の氷の音の残響と重なる。

 氷は、溶ける直前に一度だけ高く鳴る。

 鳴って、消える。

 残るのは水だけだ。

 水は、形がない。

 形がないから、器の形に従う。


「君は、俺と同じ場所に立てる人だよ、遥」


 ようやく選ばれた言葉は、耳の奥でしずかに場所を取った。

 同じ場所。

 同じ画面、同じ九時、同じ五分。

 “上司と部下”の線のこちら側と向こう側は、確かにある。

 あるけれど、同じ床板の上だ。


「……だったら、線は、どう引きますか」


「線?」


「はい。会社の床に黄色い線があるみたいに。画面の上にも、心の中にも。どこに、どう引くかを、決めたいです」


 言ってしまってから、指先が少し痺れた。

 線は、境目を可視化する。

 可視化は、責任を生む。

 責任は、重い。

 重いものを、今朝の僕は、あえて手に乗せる。


 彼は頷いた。

 「十五分だけ、線の話をしよう。会議の前に」


 画面共有が止まり、白いメモアプリが開く。

 タイトルに「線の仮置き」とだけ打たれ、箇条書きの点が五つ分、最初から用意される。

 カーソルが点滅する。

 その点滅は、小さな縦線だ。

 縦線は、線の最小単位。

 線の話をするのに、これ以上ふさわしい合図はない。


「一つめ」

 彼が口にした。

「“九時の五分”は、これまでどおり。各自の部屋で同じ曲を流して、ミュートのまま画面を開く。これは、仕事のための儀式として扱う」


「はい」


「二つめ。業務時間外の通話は“事前に”決める。急を要しない夜の雑談は、今はしばらく避けよう。リリースや障害のときは、もちろん例外」


「了解です」


「三つめ。寝落ちしたら、切る。これは先週言ったとおり」


「はい。切ります」


「四つめ。プライベートのリンクは送らない。……送るなら、“今度”にする」


 “今度”。

 未来の仮置き場。

 ふたりで何度も使った、やわらかい棚。

 そこに置く、と言ってくれたことで、逆に少し息ができる。


「五つめ」

 少しだけ間が空いた。

 「――“守る”という言葉は、俺の側の都合で使わない。必要なら、“任せる”と言い直す」


 胸の奥が、ひどく静かになった。

 静かさは、広がる。

 広がる先で、やっと息が落ち着く。

 僕は、画面の中の白いメモに、もうひとつ小さく打ち込んだ。


「六つめ。どちらかが苦しくなったら、合図を出す。合図の文言は“黄色い線”。」


 彼は一瞬黙り、すぐ笑った。

「それ、いいね。駅のホームみたいだ」


「踏み越えそうなときに、言います。“黄色い線”。」


「言って。……俺も言う」


 “線”の話は、十五分で終わった。

 終わったのに、終わっていない感覚が、胸に残った。

 線は、引いた瞬間から、消え始める。

 床に引いたチョークの線は、人の足音で薄れ、やがて消える。

 だから、線は、何度でも引き直さなければならない。

 引き直す行為そのものが、関係のメンテナンスであり、安心の技術だ。


 十一時前、先方との確認は驚くほど滑らかに終わった。週末に洗い直した文言が、矛先を丸めたおかげだろう。彼の声は、通常の高さに近づき、相手の笑いは二度ほど漏れた。こちらの資料に「呼吸の場所」があると、向こうの呼吸も自然に整うのがわかる。


 昼。

 画面の向こうもこちらもカメラはオフ、マイクはミュート。

 僕は冷蔵庫の端のレタスをちぎり、卵を落としてスープにして、食べながら考えた。

 守られることが苦しいのは、守る側が悪いからではない。

 守られる側が、自分の歩幅を自分で決めたいからだ。

 歩幅を決める権利を、誰かの優しさが良心的に奪ってしまうとき、人は苦しくなる。

 優しさは刃物ではないけれど、研げば光る。

 光るほど、刺さらないように扱い方を学ぶ必要がある。


 午後。

 テスト観点の二次。

 バグの仮説、再現手順、期待値、境界値。

 “境界”という言葉が、今日はやけに多く画面に出てくる。

 フォームに入力する文字列の境界。

 日付の境界。

 小数点以下の丸めの境界。

 そして、“上司と部下”の境界。

 それらは全部、線でできている。

 線は、ときに人を守り、ときに人を閉じ込める。

 鍵は、線の意味を共有することだ。

 共有できない線ほど、鋭い罠はない。


 十五時の連絡会。

 担当者たちがそれぞれの進捗を短く投げ、彼が受け止めて、要点に直す。

 画面の中で彼のカーソルは、迷いなく必要なセルに移動し、不要な装飾を削る。削られたところに、僕は薄く生活の言葉を置く。呼吸は合う。

 会議の最後、彼が一瞬だけカメラをオフにした。すぐオンに戻る。

 “黄色い線”の合図は、出なかった。

 出なかったこと自体が、今日の収穫に思えた。


 夕方。

 社内共有の二ページを整え、数字の根拠を脚注に逃がす。逃がす、と書くと卑怯だが、伝えるための工夫だ。正しいものは、正しく置けば伝わるとは限らない。正しく置かれたものが伝わらないとき、人は伝え方を疑う。疑えないと、相手を疑う。相手を疑う代わりに、伝え方を変える。それが、仕事の倫理だ。


 十八時を回り、通話を切る前の短い余白。

 いつもなら「今日はここまで」「明日の九時に」の二言で終わるところだが、彼は少しだけ視線を外に向けて、戻してから口を開いた。


「……ありがとう。線の話、助かった」


「いえ。僕も楽になりました」


「楽、か」


「はい。線が見えていると、呼吸が楽です」


「呼吸の場所、ね」


「はい」


「今朝、遥が“部下として失格ですか”って言っただろう」


「言いました」


「その言葉が、俺にはいちばん苦しくて。君にそんな重さを感じさせたのは、俺の言い方のせいだ」


「違います。僕の、言い方です」


「責任の取り合いは、やめよう」

 彼は小さく笑った。

「そのための線だ」


「はい」


「じゃあ、また明日、九時に」


「はい。……真澄さん」


「うん」


「“守る”って、上司の権利じゃないですよね」


「――うん。違う。任せてくれているあいだだけの、仮の役目」


「任せたくないときは、どうしますか」


「合図だ。“黄色い線”」


「了解です」


 通話が切れ、青い光が部屋の白を取り戻す。

 窓を少し開けると、夕方の風が薄く入り、鉢植えの葉が一度だけ音もなく揺れた。

 机に肘を置き、額に手のひらを当てる。

 “守られる”ことの息苦しさは、完全には消えていない。

 けれど、息苦しさの形が見えたことで、胸の中の空気は少し動きやすくなった。


 夜。

 ベッドに横になっても、線の映像が頭の裏で残る。駅のホームの黄色い線。美術室のカッターマットに刻まれた方眼。道路の白線。ワードの画面で点滅するキャレット。

 線は、世界を区切る道具であり、世界をつなぐガイドでもある。

 僕は目を閉じて、その一本一本に指を触れる。

 触れるたび、指の腹に細い冷たさが残り、やがて熱で薄れていく。


 真っ暗な部屋の中、スマホが小さく震えた。

 反射で画面を見る。

 短いメッセージ。


明日の九時、曲、いつものやつで。


 たったそれだけ。

 それだけなのに、僕の胸に一本の線がひかれた気がした。

 “いつもの”。

 “同じ”。

 “九時”。

 これらの言葉は、境界であり、約束だ。

 約束は、守るためだけにあるわけじゃない。

 守られていると信じられる時間を、互いに持てるようにするためにある。


 「了解です」と返したあと、僕はスマホを伏せ、暗闇の天井に向かって小さく息を吐いた。

 金曜の氷の音は、もう響かない。

 代わりに、月曜の朝に鳴るはずの、最初の和音が静かに胸の中で立ち上がる。

 その和音の上に、薄い線を一本、そっと置く。

 線は、見える。

 見えるから、踏み越える前に気づける。

 気づけるから、守らなくていいものまで守らずに済む。


 ――守るのではなく、任せる。

 任せるのではなく、並ぶ。

 並ぶために、線を引き直す。

 そして、また、九時が来る。



 火曜の朝、九時。

 同じ曲が、各自の部屋で静かに鳴る。

 画面がつながり、彼が現れ、僕も“おはようございます”を言う。

 声は、いつもの高さ。

 目の置き場も、いつもの場所。

 ポスターの余白は白く、観葉植物の葉はつややかに。

 何も変わらない。

 けれど、一本の線が、昨日より細く、昨日より確かに、そこにある。

 それだけで、今日の仕事は、昨日より少しだけ前に進む。

 線は、最短距離のためにあるわけじゃない。

 迷わないためにある。

 迷いを減らすぶん、遠くまで歩ける。

 遠くまで歩くうちに、線はまた薄れる。

 薄れたら、二人で引き直す。

 その繰り返しが、僕らの“業務”の、そして“業務外”の、技術になる。


 彼が、画面の向こうで、目だけで笑った。

 僕も笑う。

 笑い合う間に、キャレットが点滅を少し速めて、やがて文字列が並び始める。

 今日の九時は、ただの勤務開始時刻ではない。

 “上司と部下”の線が見える朝だ。

 見えるから、怖くない。

 怖くないから、やさしくなれる。

 やさしくなれるから、少しだけ、強くなれる。


 その強さで、僕は最初のタスクをクリックした。

 クリックの音が、線の上を軽く跳ね、軽やかに前へ進んでいった。

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