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月曜9時の恋人――上司と部下のリモート勤務録  作者: 妙原奇天


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7/11

第7話 “業務外”の誘い

 金曜の夕方、タスクボードの色は、週明けよりいくらか明るく見えた。

 優先度の赤は薄まり、黄色は端に寄り、緑のカードには小さくチェックマークが並ぶ。

 十七時四十五分。チャット欄に「今週分〆」の文字列が続けて落ち、既読の丸が順に灰色に変わると、画面の左上にある小さなカレンダーが、頑固な表情のまま“金”を示しているのが、今日は少しだけ可笑しかった。


 十八時をまたぎ、共有の通話は一度切った。

 キーボードから手を離し、椅子の背もたれに体重を預ける。背骨が一本ずつ数えられるみたいに伸び、肩の内側で僅かな熱が静かに抜けていく。

 窓の外、雲は薄く切れて、ビルの外壁に夕焼けが貼りついている。ベランダの欄干に、今週最初の月曜の朝に見たのとよく似た柔らかい光がのぼり、しかし、光の中身はまったく別物だ。

 金曜の光は、少し甘い。

 甘さは、緩みだ。

 緩みは、油断に変換される前に、そっと掌で包んでおくとちょうどいい。


 湯を沸かそうと立ち上がったとき、スマホが短く震えた。

 Teamsの個人チャット。差出人は、桐谷――いや、真澄さん。


ちょっと飲まない?


 短い一文。

 つづく絵文字も、前置きも、理由もない。

 ただ「ちょっと」と「飲まない?」の間に、今週の疲れがほどよく溶けている。

 画面を見つめるうち、胸の奥で、音のない拍がひとつ跳ねた。


飲みます。

いま、お湯を止めました。氷、出します。


 自分の返信に、自分で笑う。

 氷、と打ってから、冷凍庫を開ける。製氷皿の四角が透けて固く、指の腹で押し出すと透明な立方体が二つ、バーカウンターの効果音のようにシンクで鳴った。

 グラスを二つ迷って、厚手のほうを選ぶ。麦茶を注ぎ、氷を二つ、カランと落とす。

 モニターの向こうから、着信の表示。

 クリック。

 画面が切り替わる。


「お疲れさま」


 彼が言った。

 白いシャツの上から、いつものカーディガンは羽織っていない。家の空気が、画面の枠から少し溢れている。

 背後の観葉植物は、昼より影が濃い。スタンドライトが低く灯っていて、台所のほうに薄い明るさが伸びている。

 彼の手にも、透明なグラス。

 中で氷が二つ、互いに肩をすり合わせる。


「お疲れさまです」


「うん。じゃあ――」


「――乾杯」


 同時に口にして、少し笑う。

 グラスを持ち上げ、画面の端へ寄せる。

 四角い枠のこちらと向こうで、透明がぶつかるまねをする。

 僕のグラスの氷が、彼のグラスの氷と、同じ速度で鳴く。

 カラン。

 カラン。

 心臓の内側で、もうひとつの氷が鳴った気がした。


「何、飲んでる?」


「麦茶です。冷たいの」


「俺も。ジンジャーエールと迷った」


「金曜の麦茶、いいですね」


「週末の、いい予告になる」


 彼はグラスを一口傾け、氷が唇に当たる微かな音をマイクが拾う。

 画面越しのこういう音は、なぜか少しだけ近すぎる。

 適切な距離の調整が利かないぶん、懐かしさや親密の素がそのまま届く。

 「懐かしさ」には、たぶん安心の匂いが混じっていて、人を少しだけ酔わせる。


「今週、どうだった?」


「走りました。ずっと」


「俺も。走ったし、止まらないように呼吸の場所を探した」


「呼吸の場所、って、言ってましたね」


「うん。遥が言ったのを、そのまま借りてる」


「著作権フリーです」


「なら安心」


 冗談が、金曜の夜の温度に乗って、いつもより滑らかだ。

 画面共有はオフ。

 チャット欄は閉じたまま。

 ただ、相手の顔と手と、その向こうにある部屋を見ている。

 “業務”のコンテクストが一切排除された空間は、逆に慎重になる。

 頼れるガードレールが一段低くなるだけで、人は足取りを確かめる回数を増やす。

 その慎重さが、悪くない。


「今日は食べた?」と彼が尋ねる。


「簡単に。おにぎりと、豆腐の味噌汁」


「ちゃんとしてる。俺、チーズを齧っただけ」


「飢えませんか」


「飢えるほど若くもない」


「うれしいような、さみしいような」


「わかる。食べなくても心配されない歳になって、少し安心して、少しさみしい」


「はい」


 はい、と言いながら、胸の奥がほんのわずか沈む。

 誰にも心配されない安心は、たぶん孤独の別名だ。

 その孤独を、ふたりで見物するように話すと、少しだけ笑える。


「ねえ」と彼がグラスの底を見つめたまま言う。「こうしてると、二人だけの世界みたいだな」


 言った本人が少し驚いた顔で、画面のこちらを見る。

 言葉の速度が、彼自身の思考を追い越したのだろう。

 “二人だけの世界”。

 明るすぎる言い方は、時々、真実に近い。

 真実の表面は、乱暴に見えることがある。


「みたいですね」


「“みたい”って、便利だ」


「はい。責任が半分くらいになる」


「うん。半分なら、飲み込みやすい」


 もう一口、麦茶を飲む。

 氷に触れる上の歯が、冷たく痛い。

 その痛みが、一瞬、会話の背骨になる。

 痛みがあると、人は冗談を言い過ぎない。

 言い過ぎないぶん、歩幅がそろう。


「音楽、流す?」と彼。


「何がいいですか」


「静かなやつ。歌詞に主語が少ないやつ」


「わかります。意味がはっきりすぎると、飲み物に混ざる」


「そう。今は、意味より温度を借りたい」


「少しだけ、かけます」


 僕はプレイリストの中から、ピアノとギターの小さなインスト曲を選んだ。

 音量を最低に近く落として、スピーカーの位置を画面から遠ざける。

 最初の和音が空気の薄皮を撫で、次に来る音が、遠くで雪のように重なった。

 彼の部屋では何も流れていないのに、ふたつの空気が同じテンポで呼吸する。


「いいね」


「はい」


 短い肯定が、今夜の会話の骨格になる。

 肯定は、酔いの代わりに人をほどく。

 ほどけすぎる前に、少し硬い話を挟む。

 バランスの勘は、体のどこに住み着くのだろう。

 たぶん、舌の裏か、掌の中央か、あるいは心臓の右側の、ぬるい空洞。


「遥は、金曜の夜って、何をしてた?」


「この一年は、家で映画を観るか、走るか。前は、友達と居酒屋に行くこともありました」


「居酒屋」


「はい。駅から離れた、古い店。唐揚げが美味しくて、二十二時で閉める。大将が時間厳守で」


「好きな匂いがする」


「たぶん、好きだと思います。……真澄さんは?」


「俺は、昔は会社の人たちと飲んでた。二軒目に駄菓子バーみたいなところに行って、どうでもいい話をして、どうでもいい時間を消費して、終電を逃してタクシーに乗って」


「そしてホームの月を見た」


「覚えてた?」


「忘れません」


「ありがとう」


 ありがとう、の音が少し低い。

 低い音は、床材の奥へ入っていく。

 床の下で冷たさがゆっくり消え、代わりに何かが温まっていく。

 言葉に物理があるとすれば、今夜の彼の言葉は、重力が少しだけ弱い。


「“業務外”って、どこからなんでしょうね」と、僕はグラスの側面を指でさする。


「難しい質問」


「難しい質問、好きです」


「俺も。……業務外は、仕事の話をしないことでは、たぶんない」


「うん」


「“責任の置き場所”を外に出すこと、かな」


「外に」


「そう。相手の机の上じゃなく、二人の真ん中の空気に置く」


「空気に」


「ふざけてるみたいに聞こえるけど、けっこう本気」


「わかります。空気に置いた責任は、壊れにくい」


「そう。誰かのペン先で誤って線が引かれない」


「でも、消えやすい」


「うん。だから、時々、目で確かめる」


 彼の視線が、画面のこちらの目にまっすぐ届く。

 視線の重さは、グラス一杯分くらい。

 重すぎず、軽すぎず、ちょうど飲み干せる。

 飲み干す前に、氷がグラスの内側を軽く叩く。

 カラン。

 心臓が、応える。

 ドク。

 音は、重なって、消える。


「お酒、ほんとは弱いんだよね、俺」と彼が小さく笑う。「顔に出ないから誤解される」


「きっと、出てます」


「出てる?」


「はい。声の高さ」


「バレるか」


「バレます」


「なら、今夜は、ちょっとだけ酔ってるのかもしれない」


 “ちょっとだけ”。

 その副詞が、今夜の回線にぴったりだった。

 もっと酔っているふりも、完全に素面の仮面も、どちらも似合わない。

 “ちょっとだけ”の斜面は滑りやすいけれど、視界がいい。

 人の心は、視界がいいと、ゆっくりになる。

 ゆっくりになると、余白が増える。

 余白が増えると、言葉の選択が正確になる。

 正確な言葉は、優しい。


「遥は、酔うとどうなる?」


「笑い上戸です。あと、少しだけ、喋りすぎる」


「今は?」


「今は、麦茶なので、笑い上戸の手前」


「いいね」


 いいね、の二音に、微かな甘みが混じる。

 麦茶の香りと、遠くで流れるピアノの残響と、彼の甘い二音が重なると、部屋の空気は、薄い飴の膜をかぶる。

 飴は、舌の上で静かに溶ける。

 溶ける前に、舌で割ることもできる。

 今夜は、割らないほうがいい。


「これ、業務外の時間だよね」と彼が言う。「ちゃんと」


「はい。ちゃんと」


「ちゃんと、って言うの、変だね」


「いいえ。言葉にすると、安心します」


「安心、か」


「はい。……安心は、酔いに似てる」


「面白い」


「飲まなくても、温度で酔える」


「なるほど。温度のアルコール度数」


「いま、何パーセントでしょう」


「七」


「結構、強い」


「いや、薄い?」


「人による」


「そうだね」


 言葉が軽く宙を漂い、落ちる場所を探す。

 落ちる場所は、いつも画面の手前の空気だ。

 空気は、傷まない。

 傷まないところに置かれた言葉は、翌朝まで、いい形で残る。

 逆に、心の表面に直接置かれた言葉は、夜のうちに形を変える。

 朝になって読み返すと、違う意味に見える。

 違う意味に見える言葉を、僕らは幾つも知っている。

 知っているから、今夜は、置き場所を選ぶ。


「ねえ、遥」


「はい」


「君の、子どものころの“金曜”って、どんなだった?」


「子どものころの、金曜」


「うん。俺、たまにそうやって聞く。人の週の中でいちばん“解放”に近い日が、どういう色だったか」


「色、ですか」


「匂いでもいい」


「匂い。……天ぷらの匂い」


「天ぷら?」


「はい。母がたまに、金曜の夜は天ぷらでした。カレンダーに“金天”って書いてあった」


「かわいい」


「文字の並びが、うれしかった。『金天!』って、学校から走って帰る」


「いいね」


「真澄さんは?」


「俺は……コンビニの明かり。塾の帰りに寄る。温かい肉まんを買うと、レジのお姉さんが“がんばってね”って言う。そのたびに、がんばる場所を一瞬だけ見失う」


「がんばる場所」


「そう。塾なのか、学校なのか、家なのか、自分なのか。金曜の肉まんは、いつもそれを確認してる」


「いいな」


「いい?」


「はい。金曜の肉まんに、守られてたんですね」


「守られてたのかな」


「守られてました。今も、たぶん」


「今も?」


「はい。今夜の麦茶に」


 彼は少しだけ目を細めて、グラスの底を見た。

 底に沈んだ氷の角が、ライトを受けて白く光る。

 その白は、冬の駅のホームで見た月の光に少し似ている。

 似ていて、違う。

 似ているのに、違うものを、僕らはもう受け取れる。


「――遥」


「はい」


「もしさ」


 彼は一度言葉を切り、グラスを置いた。

 置くときの音は、小さかった。

 小ささが、今夜の慎重さの総量を教える。


「もし、明日、起きたときに、今夜のことを“忘れていい”って俺が言ったら、どうする?」


 言葉は、ゆっくり来た。

 来ると、胸の真ん中に素直に置かれた。

 驚きよりも先に、納得が来る。

 “業務外”の時間は、翌朝の言い直しに弱い。

 弱いが、壊れやすいからこそ、夜には澄む。

 彼は、朝に備えて、夜の透明度を守ろうとしているのかもしれない。


「そのときは、はい、って言います」


「言う?」


「言います」


「忘れる?」


「……約束は、守ります」


「約束?」


「はい。真澄さんがそう言ったら、それが約束になる」


「なるほど」


「でも」


「うん」


「僕の中には、覚えている部分が残ると思います」


「覚えている部分」


「忘れていいという言葉を、まず、覚える」


 彼は笑った。

 笑いは、夜の飴の膜に小さく穴を開ける。

 穴から、わずかな外気が入る。

 外気の冷たさは、頭をまっすぐにする。


「それでいいと思う」と彼が言った。「忘れていい、は、忘れなくていい、の柔らかい言い方でもある」


「はい」


「君に任せる」


「任されました」


「頼もしい」


 頼もしい、と言われるたび、背中のどこかが伸びる。

 伸びるのは、たぶん筋肉ではなく、気配だ。

 気配が伸びると、部屋が少し広くなる。

 広くなった部屋は、同じ音でも深く響く。

 深く響く音は、夜に似合う。


「少しだけ、酔ってる」と彼が言った。「麦茶なのに」


「僕もです」


「たぶん、音に酔ってる」


「音」


「氷の音と、声の音と、たまに鳴る外のバイクの音。そういうの、全部に」


「はい。画面がない時間より、音の置き場所が見える」


「見える」


 “見える”と“聞こえる”が混ざる。

 混ざることを、僕らは許せるようになった。

 許せるようになったことが、少しうれしい。


 時間は、いつのまにか二十三時を過ぎていた。

 画面の向こうで猫のカフカが背伸びをして、フレームの下辺に前足だけ現れ、ぴゅっと去る。

 彼は小さく笑い、目尻に微かな皺が寄る。

 その皺は、日中の会議では出ない種類の優しさを抱えていた。


「そろそろ、寝ようか」


「そうですね」


「明日も、ゆっくり起きて、昼頃、洗濯して、夕方は散歩でもして」


「僕は、走ります」


「えらい」


「走ると、考えずに済むので」


「考えずに済む、か。いい」


「はい」


 終わりに向かう会話ほど、終わらせたくなくなる。

 終わらせないでいると、言葉が薄くなって、逆に、残酷になる。

 薄い言葉は、残酷だ。

 終わりを決めるのは、優しさの作法だ。

 彼は、それを知っている。

 僕も、覚えたい。


「じゃあ」


「はい」


「おやすみ」


「おやすみなさい」


 通話が切れる瞬間、彼の口が、もう一音だけ何かを作りかけて、消えた。

 その未遂の音が、僕の部屋の空気に小さく残る。

 グラスの氷はもう溶けて、薄い麦茶が白い輪郭を失いかけている。

 キッチンでグラスを洗い、布巾で拭く。

 水の滴る音が、短い雨の練習みたいに流しを叩く。

 電気を落とし、ベッドに倒れ込む。

 スマホを手に、画面を見ないまま、親指で縁を撫でる。

 眠りは、すぐ来ない。

 来ない眠りの手前で、今夜の会話のいくつかの場所に指を置いて、そっと触れる。

 “二人だけの世界みたいだな”

 “業務外は、責任の置き場所”

“忘れていい、は、忘れなくていい、の柔らかい言い方”

 触れるたび、指の腹に形が残る。

 形は、目を閉じると、音に変わる。

 音は、胸の奥に、沈む。

 沈んでから、眠りが来た。



 土曜の朝、七時。

 窓の外は、まだ柔らかい。

 走りに出るのに、ちょうどいい薄さの空気が、廊下に溜まっている。

 ジャージに着替え、靴紐を締める。

 スマホを机に置いたまま、ドアを開ける。

 階段を降り、外に出る。

 足元のアスファルトが少しだけ冷えている。

 音楽は流さない。

 足音と呼吸だけで、十分だ。

 十分で、やさしい。


 川沿いの遊歩道まで出ると、ランナーが二人、反対方向から来て、すれ違いざまに小さく会釈をする。

 見知らぬ人と、同じリズムを短く共有する瞬間は、いつも、たのしい。

 二キロ地点のベンチに、誰かが置き忘れた新聞。

 ベンチの塗装は少し剥げ、古い青が薄く露出している。

 呼吸が一定になったところで、橋をひとつ渡り、戻る。

 心臓が、昨日の氷の音を思い出している。

 カラン。

 ドク。

 汗が耳の後ろを伝い、頬の陰へ落ちる。

 走ると、考えない。

 考えないでいると、胸の中で、昨夜の言葉たちが、いい位置に収まっていく。

 “忘れていい”。

 その四文字は、袋の口をゆるく縛るための紐に似ている。

 きつく縛れば、ちぎれる。

 ゆるく縛れば、中身はこぼれない。

 走りながら、僕は、その紐を指でそっと結んだ。


 帰宅して、シャワーを浴びる。

 湯気の中で目を閉じると、金曜の夜の飴の膜が、きれいに溶けていく。

 溶けた甘さは、皮膚の上で薄く残り、指でこすれば消える。

 消える前に、胸に少しだけ塗る。

 胸の皮膚は、心臓の上に薄い。

 そこに塗られた温度は、昼まで残る。


 髪を拭き、リビングに戻る。

 スマホが、静かに伏せられたまま。

 表を上に返す。

 通知が、一件。

 差出人:桐谷真澄。

 時間は、七時三十八分。


昨夜のことは忘れていい。

君の土曜が、君の土曜であるように。


 短い二行。

 予告通り。

 でも、思っていたより、やわらかい。

 “忘れていい”のあとに続けられた一行が、僕の呼吸を整える。

 “君の土曜が、君の土曜であるように”。

 その願いは、優しさの正しい形だ。

 誰かを独占しようとしない優しさは、軽い。

 軽いものは、遠くまで届く。

 遠くまで届くものは、戻ってくる。

 戻ってくるものだけが、記憶になる。


 僕は、返信を打つ。


了解です。

でも、麦茶の氷の音は覚えておきます。

それと、来週の九時、最初の五分は同じ曲で。


 送信。

 既読の丸がすぐに点く。

 返事は、来ない。

 来ないままで、良い。

 言葉は、受け取られた時点で、半分以上は完了している。

 残りの半分は、次の“九時”のために、空気の中に置いておく。


 午前中は、洗濯をした。

 シーツを外し、洗濯機に入れ、風呂場の換気を強にして、窓を開ける。

 風が部屋を通り抜けると、昨夜の甘さの残りが、どこかへ移動する。

 この移動を、忘却と呼ぶのかもしれない。

 忘却は、消去ではない。

 場所を変えるだけだ。

 変わった場所は、必要なときに、また見つかる。


 昼、コンビニに歩く。

 陽射しが強くなり、アスファルトの匂いが、季節の底をあたためる。

 肉まんの蒸し器は、当然ながら空だった。

 透明な蓋の内側に、誰もいない金曜夜の気配が薄く残っている。

 レジの若い店員が「温めますか?」と機械的に言い、僕は「そのままで」と答えた。

 帰り道、十字路の角に、家族連れ。子の持つ風船が、風に引っ張られ、父親の手首に絡む。

 絡まりは、慎重にほどかれる。

 ほどく作業は、見ていて飽きない。

 ほどくほど、結び方を覚える。

 覚えるほど、次に結ぶときに、ゆるみを作れる。


 午後、ベランダにシーツを干す。

 白い布が、空を受けてふくらみ、風を受けて戻る。

 その往復は、心臓の動きに少し似ている。

 似ていて、違う。

 似ていて、違う、は、土曜の午後にふさわしい。


 夕方、通知。

 彼からではない。

 ニュースアプリが、どうでもいいトレンドを押しつけてくる。

 消す。

 代わりに、昨日彼が教えてくれた豆の名前を検索する。

 小さな焙煎所のホームページは、古くて遅い。

 でも、写真は、いい。

 いい写真は、言葉の前に胸に届く。

 週明け、あの豆を買ってみよう。

 月曜の九時に、その香りの話をしよう。

 “二人だけの世界みたいだな”の“みたいだな”を、もう少し正確に言い換えるために。


 夜、早めに灯りを落とす。

 ベッドの端に座り、スマホを手に、昨日のスレッドを開く。

 “忘れていい”。

 その上に、僕の“氷の音を覚えておきます”。

 この往復は、たぶん誰にも見せない。

 見せないことが、約束の形だ。

 画面を閉じ、“おやすみ”と打たずに、天井の暗いところへ吐息を放つ。

 吐息は、すぐに消える。

 消えるときの温度差が、心臓の右側の空洞にふわりと触れる。

 触れた場所に、小さな印が残る。

 印は、明日の朝にはほとんど見えなくなるだろう。

 見えなくなっても、触るとわかる。

 触るとわかる印を、僕は増やしすぎないように、しかし、必要な数だけ持っていたい。


 目を閉じる。

 暗闇の向こうで、氷の音がする。

 カラン。

 カラン。

 心臓が、応える。

 ドク。

 ドク。

 音は、重なって、やがて遠ざかる。

 遠ざかる音の尾に、「二人だけの世界みたいだな」の“みたいだな”が、薄く揺れていた。

 揺れる言葉は、安定する前に、眠りの底へ落ちていった。



 日曜は、雨だった。

 雨の音は、会話の予行演習に似ている。

 言い過ぎない場所で止み、足りない分を、次の雲が足す。

 午前中に、洗濯物を室内に移し、扇風機を回す。

 午後、机に向かい、翌週のタスクを整理する。

 “九時:同じ曲”。

 “豆:購入”。

 “説明資料:二ページ追加案”。

 箇条書きの三項目が、雨の打つ窓ガラスに薄く重なる。

 雨脚が強くなると、文字は見えなくなる。

 弱まると、戻る。

 戻るたび、少しだけ位置が変わる。

 位置の変化は、わずかでも、意味を変える。

 意味が変わるたび、僕は指先で、紙の端を押さえる。

 押さえる手の甲に、昨日のランの残りの熱が弱く灯る。

 その灯りは、日曜の夕方に似合う。


 夕食の支度をしながら、ふと、彼にメッセージを打ちかけて、やめた。

 “豆、買いました”と。

 “雨ですね”と。

 “昨日の”と。

 やめたメッセージは、送らないほうが届く場所へ向かう。

 向かった先は、月曜の九時の手前、最初の五分。

 そこに置いておけば、必要な形で取り出せる。

 取り出すときに、言葉は正しくなる。

 正しい言葉は、相手を守る。


 夜が降りてくる前に、窓の向こうで雨が一度だけ白くなり、すぐに細くなった。

 雨の濃淡は、会話の濃淡に似ている。

 似ている、と言いながら、僕は内心で、あの“みたいだな”をもう一度味わった。

 “みたいだな”。

 保留形のやさしさ。

 言い切らない勇気。

 言い切らないから、翌朝に渡せる。

 渡す相手がいる限り、言葉は次の朝を待てる。

 そういう言葉を、もっと持ちたい。

 そう思いながら、灯りを落とした。


 ――翌朝、九時の五分前。

 プレイリストの同じ曲を、各自の部屋で再生する準備をして、画面を開く。

 接続。

 彼が現れる。

 目が合う。

 “おはようございます”の一音目が、少し高くなる。

 高くなる前に、氷の音が、胸の奥で小さく鳴った。

 カラン。

 それは、忘れなかった音だ。

 忘れていい、と言われても、忘れなくていい音。

 それを胸の棚に、そっと置き直して、僕は“おはようございます”を言った。

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