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月曜9時の恋人――上司と部下のリモート勤務録  作者: 妙原奇天


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第6話 マイク越しの沈黙

 夜の十時を回ったあたりから、家の中の音は急に輪郭を柔らかくする。

 電気ケトルのボタンを押したときの軽いクリック、湯が昇るときの細い糸のような音、沸点の少し手前で鳴る鈍い泡立ち。キッチンに立ちながら、その一つひとつが部屋の白い壁に跳ね返って薄く広がっていくのを、耳の奥でなぞる。

 カップにティーバッグを落とし、蜂蜜をスプーンの先でひとかけ流す。甘さは音がない。けれど、湯に溶けるときの、かすかな渦の視覚が、なぜか喉の手前の静けさをやわらげる。


 机に戻ると、モニターは青い画面で部屋の影をつくっていた。

 Teamsの枠の左上、緑の「通話中」がささやかに点滅している。真澄さん――桐谷課長――の共有画面には、今日つくりかけの説明資料が開いたままだ。見出しだけが整い、中身には箇条書きの骨が刺さっている。

 マイクは互いにミュート、カメラはオン。つないだまま、それぞれの手を動かしている。夜の仕事は、昼よりもずっと、自分の呼吸の重さがわかる。打鍵の音に合わせて吸って吐くと、思考の滑りが少しだけ良くなる。


 共有画面の右下に、彼の顔が小さく映っている。ライトは弱め、背景の観葉植物は闇に溶けて色の名前を失っている。

 まぶたが重そうだ、と気づく。

 昼間のミーティングで拾いきれなかったニュアンスを、今夜ここで拾い直そうとしているのが伝わってくる。言葉は正しく置けば置くほど、置いていないところ――沈黙のほうが、意味を濃くする。そこに人柄が宿る。僕は、その人柄の部分に助けられて、今日ここまで来た。


 ふと、画面の中の彼が、額に指を当てる動作をした。

 そして、ゆっくりと目を閉じた。

 数秒。

 数十秒。

 薄く開いたままの口から、浅い息が規則的に出入りしているのがわかる。

 その規則性が、こちらの心臓の脈と、妙に反響する。


 ……寝た。

 ログインしたまま、眠ってしまったのだと理解するまでに、さらに数秒かかった。

 画面は動かない。共有は継続、マイクはミュートのまま。

 けれど、イヤホンの向こうに、微かな空調の音が混じる。彼の部屋の夜の音。冷蔵庫のモーターがときどき低い唸りを置き、遠くの幹線道路を誰かが走り抜ける。窓を開けてはいないだろう。音はすべて室内の奥に吸い込まれ、一番最後に、彼の浅い寝息が、砂のような軽さで耳の膜に触れる。


 切るべきか。

 それとも、このままにしておくべきか。

 カーソルが「通話終了」の赤いボタンの上を、ためらいながら往復する。

 切ってしまえば、彼は目を覚ましたとき、ひとりの部屋で、ひとりの無音に戻る。

 このままにしておけば、誰かの気配の細い線が、彼の眠りに沿って続く。

 正解はない。

 けれど、時間は、正解を待ってはくれない。


 僕は、切らなかった。

 青い画面の明るさを一段落として、共有資料の見出しに薄い注釈をつける。「第2章と第3章の入れ替え検討」「写真→図にする案(注釈:スマホでの可読性優先)」。

 打鍵の音をできるだけ柔らかくする。タッチタイプの指先を、キーの奥まで落とさず、表面でそっと押す。吸って、吐く。浅い寝息と、こちらの呼吸が、交互に部屋の空気を動かしている気がする。

 モニターの右下の小窓で、彼の胸の上下がわずかに見える。

 ライトの位置がいいのだろう。肩の影で呼吸の抑揚が読み取れる。


 「こんな顔、会社では見せないくせに」

 声に出してはいない。ただ、口の中だけでつぶやいた。

 言葉は空気に触れず、喉の奥で熱になって消えた。

 消えたはずなのに、胸の内側には何かが残る。

 それは劣化しない種類のやわらかさ――たとえば、幼い日に見た父の昼寝の顔を思い出したときに胸に広がる、あの曖昧な温度に似ている。

 台所で新聞を広げたまま眠ってしまった父の呼吸。カーテンの影。夏の扇風機の首振りの音。

 大きなものが、無防備に横たわっているとき、人はなぜか安心する。

 守る側の生き物を守りたい、という衝動。

 それは、きっと僕の根の深いところにある。


 画面の時計が、十一時三十分を示す。

 彼のまぶたは動かない。

 マイクはオフだから、こちらの音は届かない。

 それでも、話しかけるように、注釈を置いていく。

 「“注意”の見出しは色でなく形で区別/赤の使用は最小限」「“〜となります”→“〜になります”へ統一」「“お願いベース”と“説明ベース”を明確に分ける」

 作業を進めながら、ときどき、右下の小窓を見る。

 寝息は乱れない。

 まぶたのきわに、影が濃くなる。

 その影の濃度を、僕は知らなかった。昼の画面では見えない濃さだ。

 人の顔は、眠りで構成されているのかもしれない。

 起きている顔は、社会が借りている。

 眠っている顔は、たぶん、誰のものでもない。


 日付が変わる直前、チャットに「最新版v0.7保存しました」とだけ打った。

 彼には通知は届かない。

 届かなくていい。

 目を覚ましたときに、画面の上で変化として見えていれば、それでいい。


 零時を越えると、街の音はもう少し薄くなる。

 遠くの踏切が一度だけ鳴り、風が角の電柱を回って、どこかの旗を鳴らす。

 ベランダの手すりに、夜露の代わりに青い光が薄く乗る。

 眠っている人のそばにいると、時間は伸びる。

 伸びた時間の端が、部屋の隅にたゆたって、埃の粒に触れる。

 埃は、光がなければ見えない。

 光は、誰かが起きていなければ灯らない。

 起きている僕は、眠っている彼の光の役目を、一瞬だけ借りたのだと思う。


 零時半。

 彼の肩が、ふっと下に落ちる。

 そして、ゆっくり戻る。

 深い呼吸に移った。

 その深さに、こちらの胸が勝手に連動する。

 自分の呼吸のテンポが、確かに変わる。

 僕は、笑った。

 誰にも見えない笑い。

 見えないから、長く残る笑い。


 保存して、PCに蓋を閉じるべきタイミングを、自分で見逃す。

 閉じてしまったら、今夜の細い線が切れてしまう気がして。

 ベッドには行かない。

椅子の背を少し倒して、ブランケットを膝に載せる。

 モニターの明るさをさらに落として、半ば眠り、半ば起きている場所に身を置く。

 目を閉じる。

 耳だけを働かせる。

 浅い寝息。

 深い呼吸。

 空調の吐息。

 それらが、夜の譜面の上に、ひとつずつ、音符として置かれていく。

 音符の間には、沈黙がある。

 沈黙は、音のためにある。

 音は、沈黙のためにある。

 それを、マイク越しに初めて、体で知る。


 いつのまにか、短い眠りが来て、短い目覚めが来た。

 モニターの右下の小窓は、相変わらず彼の横顔を映している。

 繰り返し再生される静止画ではない。

 呼吸が、ちゃんと現在形だ。

 画面の左下、時計は二時十三分。

 チャットには新しい動きはない。

 キーボードに置いた手の甲が少し冷えて、ブランケットの端をそっと引き寄せる。


 ――切るべきか。

 再び、問いが浮かぶ。

 でも、今夜はもう、答えを持っている。

 切らない。

 このまま、朝まで。

 眠りのそばに、起きているほうの孤独が、そっと座っている。

 それだけの夜が、一度くらいあってもいい。


 やがて、東の窓のどこかで色が変わる。

 空はまだ黒いが、黒の奥に薄い灰が忍び込んで、白を遠くから準備しているのがわかる。

 鳥の声が最初の一音を試し、直後に、二音目はやめる。

 朝はいつも、慎重に近づいてくる。

 近づく足音は、音にならない。

 代わりに、空気の密度を少しずつ変える。


 五時四十分、彼のまつ毛が、わずかに震えた。

 胸の上下が浅くなり、次に、深くなった。

 まぶたが、半分だけ開き、ぼんやりと画面の光を受け止める。

 ピントが合うまでに、数秒。

 それから、彼は、気づいた。

 通話が続いていること。

 共有画面が生きていること。

 右下の小窓に、自分の眠っていた顔が映っていること。

 その向こうに、僕がいること。


 驚きは、来なかった。

 彼は、笑った。

 眠りから上がってきたばかりの笑いは、昼の笑いと違う。

 骨が、まだ柔らかい。

 「おはよう」と、マイクをオンにする前に、唇だけが言った。

 音のない「おはよう」は、こちらの胸の内側で音になる。

 僕も、マイクをオンにした。


「おはようございます」


「……おはよう、遥」


 声は、掠れていた。

 水の表面に最初の小石を落としたときみたいな、慎重な波紋が、部屋に広がる。


「昨夜――いえ、今夜というべきか。ログインしたまま、寝てましたね」


「うん。寝てた。……寝落ちってやつ」


「はい」


「切らずに、いてくれたんだね」


「はい。勝手でしたら、すみません」


「謝らないで。ありがとう」


 短い言葉。

 その裏に隠れている層が、いつもより厚いのを感じる。

 「ありがとう」の表層の下に、「信じられてうれしい」と「信じてくれてうれしい」の両方が重なっている。

 さらにその下に、小さな「怖さ」の影――“無防備を見られた”という事実の冷たさ――が、微かに揺れている。

 その揺れまで含めて、彼という人の輪郭ができている。

 輪郭は、曖昧なほど、正確だ。


「資料、進めちゃいました。勝手に。すみません」


「勝手じゃない。助かった。見出しの順番、これ、すごく自然だ。こっちのほうが、読む人が息継ぎできる」


「呼吸の場所を増やしました」


「呼吸の場所、ね。……いい言葉だ」


 彼は手元のマグを持ち上げ、空であることを確かめるみたいに傾けた。

 その仕草が、どうしようもなく生活だ。

 生活の人と、仕事の人が、画面の上で重なる。

 重なると、透明な壁が一瞬曇る。

 曇りは、悪いことではない。

 曇ったときに見えるものが、きっとある。


「昨夜、途中で深くなったでしょう。呼吸」


「え?」


「最初は浅くて、零時半くらいに、深くなった」


「ああ……バレるものなんだね」


「バレます」


「怖いな。それ」


「怖い、ですか」


「うん。だって、無防備って、怖いよ。起きてる間は、役割で守られてるから」


「はい」


「でも、今は――怖いけど、うれしい、かな。怖さと同じだけ、うれしい」


 彼は、笑った。

 夜の余白をほんの少しだけ持ち越した笑い。

 マイクの向こうで、猫のカフカが短く鳴き、画面の下辺をしっぽだけが横切る。

 朝の光が、彼の左頬にうっすら乗る。

 それは、昨日まで見たことのない色の光だった。

 同じ窓。

 同じ部屋。

 けれど、夜を挟んだ今朝の光は、違う。

 僕らが見ているものが、少し変わったのかもしれない。


「昨日はありがとう」と、彼が言った。

 言葉は同じでも、重さが違う。

 “昨日”は、いつもなら業務の“昨日”――タスクを一区切りつけた時間帯――を指す。

 今は、“眠りの手前と奥”の“昨日”を指している。

 時間の指し示す方向が変わると、同じ言葉が、違うところに届く。


「こちらこそ。……放っておけなかっただけです」


「放っておかない、って、難しいよね」


「難しいです」


「でも、放っておかれないの、助かった」


「はい」


 助かった。

 その二音が、胸の中央に着地する。

 着地のとき、砂埃は立たない。

 静かな着地。

 それでも、確かにそこに残る足跡。


「九時に一度整えて、十時から資料のプレビュー、十一時に先方と短く擦り合わせ。昼にリハ、午後に最終チェックで、夕方に公開の予定でいけそう」


「はい、全部、いけます」


「眠い?」


「少し。でも、起きてます」


「俺も。……コーヒー淹れてくる。三分」


「どうぞ」


 彼がカメラをオフにして席を立つ気配が、音でわかる。

 椅子が軽く退き、床板がわずかに鳴る。

 キッチンのほうで水が流れ、ケトルが唸る。

 僕は、こちらのケトルを、同時に押した。

 お湯が沸き、湯気が上がる。

 見えないが、向こうでも同じ湯気が立っている、はずだ。

 同時に鳴る二つのケトル。

 同時に立つ二つの湯気。

 重ならないけれど、重なると信じる。

 信じるという行為が、回線の太さを一段増してくれる。


 戻ってきた彼が、マイクをオンにする。

「同時に淹れた?」


「はい」


「だと思った」


 笑い合う。

 朝の笑いは、夜の笑いとまた違う。

 骨が固まって、声の高さが半音上がる。

 シャツの布地の皺が、早口で整う。


「――それと」と、彼が少しだけ声を落とす。「昨夜、寝落ちする前のこと、俺、覚えてないんだけど」


「はい」


「何か、言った?」


「何も。言いませんでした」


「そっか」


「言わないほうが、よかった気がします」


「うん、わかる」


 言わないことで守られるものが、確かにある。

 言った言葉は、良くも悪くも現実に変換されてしまう。

 言わなかった言葉は、現実にならない代わりに、呼吸の中に溶けて、しばらくの間、体内のどこかを温める。

 温めてから、ゆっくり消える。

 消えるのを、待てる。

 待てることを、信じられる。

 それは、関係の健康の兆しだ。


 九時。

 いつもの時間に、いつもの合図。

 けれど、今日はいつもより、透明な壁に薄い曇りが残っている。

 曇りは、手垢ではない。

 むしろ、ガラス越しに手を当てたときの、温度の移り。

 温度は、可視化されない。

 されないから、こちらは勝手に目を細める。

 目を細めると、青い画面の光は、海ではなく、薄い空に近づく。

 空は、見ているあいだ、こちらの色を映さない。

 映さないのに、こちらの目の奥の水分を変える。

 それが、空だ。

 それが、今朝の画面だ。


「今日の九時は、ちょっと特別だね」と、彼が言う。


「はい」


「“九時”が、“起きた”の合図になってる」


「僕も、そう思います」


「じゃあ、始めよう」


「はい」


 始める前に、もう一度だけ、言っておきたいことが喉に残る。

 言うべきか、言わないべきか。

 今朝は、言う。

 言っても、現実の形を乱さないと思える。


「――昨夜、ここにいました。僕は」


「うん」


「それだけです」


「うん。……それが、いちばん大きい」


 彼の返事は短いが、着地点が広い。

 広い場所に降りた言葉は、砂嵐を起こさない。

 静かに馴染む。

 馴染んだところで、仕事に入れる。

 僕らは、同じページを開いた。

 カーソルが動き、文章が現れ、図に矢印が加わる。

 午前の陽はゆっくりと角度を変え、彼の頬の光は、観葉植物の葉の上に移り、さらに壁に移る。

 青い画面の明かりと、窓からの白い光と、ふたりの顔の色とが、重なって、離れて、また重なる。


 十一時の擦り合わせは、驚くほど滑らかだった。

 昨夜、眠りのそばで起きていた時間が、余白の形を決めていたのかもしれない。

 余白の形が良いと、言葉の置き場所が自然に決まる。

 言葉が自然だと、相手の表情はほどける。

 表情がほどけると、今日の仕事が、予定より早く進む。

 予定より早く進むと、呼吸が合う。

 呼吸が合うと、画面の手前で誰かが笑う。

 連鎖は、ささやかで、強い。


 昼、コーヒーの代わりに、僕は麦茶を淹れた。

 氷が当たる音が、スピーカーの向こうの彼の氷と混ざらないまま、重なった気がする。

 重ならない重なり。

 その、矛盾の形が、僕らの回線の温度を一定に保ってくれる。


 午後、公開前の最後のチェック。

 誤字の拾い残しはないか、リンクは生きているか、スマホの画面ではどう見えるか。

 そのすべてを、ふたりの目で交互に確認する。

 「ここ、句点を外す」「ここ、写真より図」「ここ、“〜しましょう”のほうが呼吸が楽」

 画面を閉じたとき、外は夕方で、窓の白は、橙に変わっていた。


「終わったね」


「終わりました」


「リリース、間に合った」


「はい」


「ありがとう」


「こちらこそ」


 “ありがとう”が今日だけで何度往復しただろう、とふと思う。

 往復の回数を数え始めると、言葉は数字になってしまうから、数えない。

 代わりに、夜のことを数える。

 眠りの浅さと深さの切り替わりの回数。

 寝息の間。

 画面に映らない、彼の部屋の暗さの濃度。

 それらは数えられないが、確かに、こちらの手のひらに跡を残している。


「今夜は、ちゃんとオフにするよ」


「はい。僕も、オフにします」


「でも――」

 彼が、少しだけ間を置いた。

 その間は、僕の記憶の棚の前に、ぴたりと立ち止まる。

 棚には、昨夜の短い眠りと短い目覚め、マイク越しの沈黙、青い光と、笑わない笑いが、積まれている。

 倒れない。

 倒れないように、無理に手を入れない。

 手を入れないことが、信頼の形だ。


「でも、もし、また寝落ちしたら」


「はい」


「次は、切ってもいい」


「……切ります」


「ありがとう」


 ありがとう。

 また、着地する。

 そのたびに、胸の砂は、少しずつ、海の底のほうへ沈む。

 透明な壁は、もう曇っていない。

 曇っていないけれど、壁の向こうの温度は、こちらの頬に確かに伝わっている。

 伝わらないはずのものが、なぜ伝わるのか。

 理由はたぶん、簡単だ。

 誰かの寝息を、僕は確かに聞いた。

 聞いたという事実は、言葉を必要としない。


 夜、各自の家で、それぞれのオフの灯りをともす。

 メッセージは、今日はもう送らない。

 画面は閉じる。

 壁は、壁に戻る。

 でも、耳の奥は、まだ、静かにひらいている。

 眠りの手前で、目を閉じる。

 短く息を吸い、吐く。

 昨日の浅い寝息と、今朝の深い呼吸が、音楽の前奏曲みたいに、短く重なる。

 重なって、消える。

 消えたあとに、やわらかい余韻だけが残る。


 おやすみ、と声に出す。

 どこにも届かないのに、届く気がする。

 それで、十分だ。

 十分で、はじめて、眠りに落ちる。


 ――マイク越しの沈黙が、僕らに教えたのは、言葉の前にある信頼の形だった。

 透明な壁は、ほんの一瞬、曇った。

 曇った壁に触れた記憶が、ゆっくり乾いて、薄い跡になった。

 その跡は、明日の朝、九時の光の中で、ほとんど見えなくなるだろう。

 見えないのに、そこにある。

 見えないから、触れて確かめたいと思う。

 触れられないから、言葉を選ぶ。

 言葉を選ぶうちに、もう一度、誰かの寝息を思い出す。

 そして、静かに、目を閉じた。

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