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月曜9時の恋人――上司と部下のリモート勤務録  作者: 妙原奇天


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第10話 距離の定義

 出社が始まって二週目、オフィスの空気はいつのまにか“通常”の重力を取り戻していた。

 朝、打刻し、観葉植物の葉を横目に見ながら通路を抜け、指定席に荷物を置く。フロアの端では複合機が紙を吐き続け、誰かの笑い声が薄い波紋になってガラスの会議室に貼りついていく。戻ってきたのは、会話の密度と、視線の扱い方の難しさだ。

 モニターの四角に収まっていた他人が、実寸の体温で隣を歩く。歩幅、靴音、コーヒーの匂い。そういうものに、僕の語彙は追いつけない。結果として、言葉は減る。九時の五分の曲も、ここではイヤホンの中にしか流せない。曲が終わると、音のない「開始」が来て、来たそばから雑務が積み上がっていく。


 この週は、ずっと走っていた。新機能の小さな不具合が波のように寄せてきて、客先ごとに異なるOSの端末で再現確認、社内の周知文言の差し替え、FAQの語尾の揃え直し。そして十七時を過ぎた頃、別部署の若い子――峯岸が、泣きそうな目でタスクの束を抱えて現れた。


「すみません、ログの取り方が、わからなくて……」


 彼女を見て、真澄さんが席を立つ。

「会議室、空いてる?」

 僕はスケジュール表を見て、端の小部屋を押さえた。ふたりで峯岸を挟むようにして座り、手順の紙を作る。やって見せ、やらせて、できたら褒める。気づいたら、保護者の動きになっていた。


「助かりました」と峯岸が言い、何度も頭を下げて帰っていく。ドアが閉じると、僕らの間に、疲労が、見える形で残った。


「コーヒー、持ってくる」と真澄さん。

「お願いします」


 戻ってきた紙コップは熱く、蓋の小さな口から甘い香りがした。

「砂糖、入れた」

「珍しいですね」

「今日は、いるなと思って」


 甘さが喉を滑る。舌に少し残る。残った甘さが、言葉の初速を鈍くする。鈍いままに、午後の会議をまたいで、十八時、十九時。誰かが帰り、誰かが残る。蛍光灯は減光モードに入り、白が薄く青に寄る。時計の針の音が、ここまで近く聞こえることがあっただろうか。


 ――気づけば、話していない。

 モニターに数字を置くときだけ、最低限のやり取りをする。画面の角に頼れた回線が今はない。現物の空気の中では、沈黙が速く濃くなる。濃くなる前に薄める術を、体がまだ覚え切れていない。


 二十一時を過ぎ、フロアはほとんど空になった。

 自販機の前の灯りだけが強く、廊下の角は静物画みたいに影を抱えている。

 僕は椅子の背にジャケットを掛け、腰を伸ばして息を吐いた。

 そのときだ。ガラスの会議室のほうから、低い声が、ほんの独り言の大きさで流れてきた。


「君がいない画面、ちょっと寂しかった」


 耳が勝手に向く。

 独り言を誰かが拾ってしまったときの、世界の揺れ方。

 僕は立ち上がり、会議室の戸口に立った。中では、真澄さんが窓の夜景に背を向け、テーブルに片肘を置いていた。猫背ではないが、肩の布地が微かに落ちている。見慣れた横顔が、蛍光灯の月に似た白で縁取られていた。


「聞こえました」


 僕の声で、彼はわずかに目を見開いた。

 驚きのあと、笑いでも謝罪でもない中間の表情で、首を傾げる。


「……拾われた」


「はい」


「撤回は、しない」


「わかっています」


 椅子を引いて向かいに座る。ガラスの壁の向こうで、清掃スタッフのカートがかすかに音を立て、遠ざかった。フロアの空気が、ここだけ深くなる。


「僕もです」


「うん」


「……上司としてじゃなく、桐谷さんとして」


 言葉が出た瞬間、会議室の温度が半度だけ上がった。

 “桐谷さん”と呼ぶのは、名前の手前の呼び方だ。だが、今夜のそれは、肩書きと苗字を一度ばらしてから、手で丁寧に組み直す作業に近い。

 彼は目を伏せ、笑うでもなく、唇の内側をわずかに噛んで、それから顔を上げた。


「俺も、遥として、寂しかった」


 遥――。

 胸骨の中心に、ゆっくり正確に置かれる音。

 置かれた瞬間、これまでの沈黙の角が丸くなる。

 角が丸くなって、やっと言葉が置ける机になる。


「距離の話を、もう一度しませんか」


「距離の定義、だね」


「はい」


 白いメモアプリも回線もない。代わりに、会議室のテーブルの木目に、僕らは思考を並べることにした。

 僕が先に口を開く。


「リモートのとき、僕らは“画面とマイク”の厚みで守られていました。見つめると触れないの間に、余白があった。余白があるから、言葉が正確になった」


「うん」


「オフィスは、余白が縮む。視線は突き抜けるし、沈黙は濃くなる。……だから、距離は、物理ではなく、合意だと思うんです」


「合意」


「はい。互いに同じ速度で、同じ場所に置ける合意」


 彼は頷き、指先でテーブルを小さく叩いた。節の硬い音が一つ、ふたつ。

「たとえば?」


「九時の五分を、ここでも続ける。イヤホンで。同じ和音で始める」


「続けよう」


「それから、“黄色い線”。持ち運べる線は、会議室にも置ける」


 僕は名刺入れから、あの小さな付箋を取り出した。黄色の四角に、細いペンで“線”。彼の前に滑らせる。

 彼はそれを見て、すぐには手を伸ばさなかった。視線だけがそれに触れ、数秒遅れて、親指と人差し指で大切そうに挟む。


「便利だ。……でも、今日は置かないでもいい?」


 問いの形で来たやわらかい願いに、胸の奥のどこかが鳴った。

 僕は一瞬だけ息を止め、ゆっくり吐いた。


「はい。今日は、置かない」


 その決定が、テーブルの上の空気の密度を少し変える。

 “置かない”ことで、逆説的に線の存在が濃くなる。

 踏み越えたいわけではない。ただ、線を見ないで話したい夜が、ある。


「距離の定義――」と彼が言う。「いちばん外側に、役割の円がある。上司と部下。それを外さない。外したら、ここに居場所を失う」


「はい」


「でも、その内側に、君と俺の“個人”の円がある。そこは、仕事の言葉を装っても隠しきれない場所だ」


「わかります」


「その“個人”の円に、夜だけ、細い橋をかける。常設ではない橋。撤去可能な橋。……それが、俺の距離の定義」


 橋、という比喩に、疲れた脳がすぐに地図を描く。

 僕は、テーブルの木目を一本の川に見立て、視線でごく小さな橋を架ける。木目の濃淡がたしかに流れていて、橋はそこを跨ぐ。


「僕は――」

 言おうとして、喉の奥で言葉がほどけた。

 ほどけた言葉を、今度はゆっくり手で編み直す。


「僕は、橋のたもとに“合図”の標識を立てたい。“今は渡っていい”“今は渡らないほうがいい”。それが“黄色い線”です」


「合図を出すのは、どっち?」


「出せるほうが出す。出すのにためらいがあるなら、相手が代わりに出す」


 彼は笑う。

「民主的だ」


「民主的でないと、夜は不公平になります」


「たしかに」


 緩んだ笑いが落ち着き、蛍光灯の白がまた少し月に寄った。

 窓の外には本物の月は出ていない。けれど、ガラスに映るオフィスの薄青は、夜の光の淡さを見事に真似る。

 模造の月でも、足元は見える。見えるから、歩ける。


「――遥」


「はい」


「今日のこれ、業務時間外の会話だよね」


「はい」


「……なら、正直を、ひとつ」


 彼の声の輪郭が、少しだけ柔らかくなる。

 僕は、頷きで促した。頷きは合図だ。喉を通る言葉よりも正確な許可の形。


「君を、部下として守るのは、これからもやる。やるけど、それは“役割の外側”に向けての責任だ。

 “内側”の君に対しては、守るより、並びたい」


 並ぶ、という動詞は、僕の胸の内側に、古い午前中の匂いを呼び戻す。

 週のはじめの九時、同じ曲、同じ画面。

 あのとき、見えないままで並んでいた距離が、ようやく目に見える机の上に乗る。


「僕も、並びたいです」


 言った瞬間、白い天井の蛍光灯が、僅かにチカ、と揺れた。

 蛍光灯の揺れは、オフィスの夜のくしゃみみたいなものだ。

 僕らの会話に手拍子を一回、打ってくれた。

 ありがとう、と笑いそうになって、堪える。


「……告白、してもいい?」


 唐突な形で来た。けれど唐突ではなかった。

 ここまで話して、語が欠けているのは“好き”の一語だけだ。

 欠けた語を置くために、僕らは“距離の定義”と“橋”と“合図”という周辺の地図を整えてきた。

 僕は、喉の乾きを飲み込む。彼は僕を見ている。逃げ道を塞ぐ視線ではない。退路があるのを確かめさせたうえで、前を向けるための目だ。


「はい」


「好きだ。遥」


 好き、という音は、いつだって幼い。

 幼い音が、夜の会議室には場違いで、そして、正しい。

 その幼さは、役割を無効化する。

 上司も部下も、ただの個人に戻す。

 個人に戻ったふたつの体は、机の端でこつんと当たらない距離を保ちながら、同じ方向を見られる。


 僕は、息をひとつ挟んだ。挟んで、置いた。


「僕も、好きです。……真澄さん」


 言い終えたあと、会議室の天井が、またチカ、と鳴った。

 蛍光灯の月は、薄く揺れて、しかし落ちない。

 窓の黒に、僕らの肩のラインが映っている。

 距離は近い。触れない。

 触れないけれど、見つめられる。

 見つめることの難しさは、今日、少しだけ減った。


「合図は?」と彼が言う。「今、橋を渡る?」


「渡らない。……今夜は、ここで止めます」


「了解」


 了解の二音は、恋を正しく保存するためのコマンドみたいに思えた。

 “保存しました”の文字が、胸の奥のどこかで静かに点滅する。

 点滅は、僕に眠りの予告をくれる。

 眠りの前には、少しだけ現実の後片付けがいる。


「明日の九時、五分。いつもの曲で」


「うん」


「黄色い線は、持ってきます」


「俺も」


「あと、昼は外に出ましょう。混んでいない店、知ってます」


「案内して」


 それは、未来の手続き。

 手続きを並べて、夜の危うさに楔を打つ。

 楔が打てるかどうかが、大人の恋と名乗る資格の半分を決める気がする。


 立ち上がる。椅子が床で小さく鳴る。

 彼も立つ。

 ガラスの外に清掃のカートがまた通り、今度は向こう側からこちらへ。

 ドアを開ける前に、彼が小さな声で言った。


「――君がいない画面、って、たぶん、もう戻ってこない」


 戻らない。

 画面がないから。

 でも、画面の代わりに、窓がある。

 窓の向こうの夜は、僕らに光を貸す。借りた光で、距離を測る。

 測りながら、歩幅を決める。

 決められた歩幅で、明日、並んで歩く。


 廊下に出ると、蛍光灯の白が背中から押してきた。

 押されるのは嫌いじゃない。

 自動ドアの向こうのエレベーターホールはひんやりして、金属の匂いが薄くする。

 降りる箱の中、鏡に映るふたりの肩の間に、目に見えない線が一本、ちょうど良い角度で渡されていた。


 地上に出る。

 夜風は弱く、街の灯りは少し湿っている。

 「また明日」と言い、改札に向かいかけたところで、僕は振り返った。

 呼びかけない。目だけで。

 彼も、目だけで返す。

 合図は、それで足りた。

 十分に。

 九時の和音は、明日のためにとっておく。

 蛍光灯の月は背後に、真正の月は雲の向こうに。

 両方の月を背負って、僕らは別々の道を歩いた。

 距離は、もう、怖くない。

 怖くないように、定義したから。

 定義したものは、守られる。

 守られるものは、やがて、自然になる。

 自然になった頃、きっと僕らは笑って、同じ窓枠の影に寄りかかっている。

 その光景の手前で、今夜はきちんと、それぞれの扉を閉めた。


 扉の向こう、部屋の灯りを落とし、ベッドに横たわる。

 耳の奥に、まだ流していない最初の和音が薄く鳴り、胸が静かに応える。

 好き、と言った。

 好き、と返された。

 その事実は、眠りの前でいちばん正確な温度を持つ。

 温度は、高すぎないほうがいい。

 低すぎても、いけない。

 ちょうどいい温度で、目を閉じる。

 蛍光灯の月はもうない。

 本物の月は見えない。

 でも、定義した距離は、暗闇の中でも確かにそこにあった。

 指先で触れずとも、触れたのと同じようにわかる場所に。

 明日の九時に、再確認するために。

 僕は静かに息を吐き、眠りへ、小さく橋を渡した。

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