うさぎとオオカミ【中編】
なぜだろうか。うさぎ役のスレタは凶暴な狼を前に逃げる素振りを見せない……。
拍子抜けした様子の狼だったが、再度体勢を低くし、襲い掛かるポーズをとった。
「これからお前を食べてやる。どうだぁ、怖いだろぉ」
「……」
仕切り直すように、狼が必要以上の説明をしてうさぎを脅かした。自然界の不文律からいえば、それは死を連想させる言葉のはずだ。
しかし……、野うさぎは笑顔を振りまくばかりでその場から動こうとしない。
いたたまれず、狼が痺れを切らす。
「あ、あんたね、状況分かってんの? 少しは怯えたり逃げまわったりしなさいよ」
「でも、大人しくしろって言ったじゃん」
「え……そ、それは、そうだけど……」
小さな野うさぎに矛盾を突かれてしまった狼は、返す言葉に詰まってしまう。
「あ、もしかして、怖がってあげたほうがいい感じ?」
「いや……それはそれでわたしの気持ちが乗らないっていうか。押し売りしてるみたいっていうか。そんなことないよって言って欲しいのが見え見えで、わたし可愛くないしとか言うヤツにはなりたくないっていうか……」
「めんどくさ」
「なんですってーっ!」
滑稽な狼に、堪らず観客の緩んだ口からクスクスという笑い声が漏れる。
「ねぇねぇ、なんで狼さんはうさぎを食べちゃうの?」
「なんでって……それが狼の神髄だからだよ」
「それって本当にそうなの? それって、誰が決めたの?」
「え、誰って……それは分からないけど。そういう決まりなの!」
「決まりごとが大事なんじゃなくって、その決まりごとがなんのためにあるのかを考えることが大切なんじゃないの?」
「え……考える?」
「狼さんがうさぎを食べなきゃいけない理由についてだよ」
「え、あ、あの……」
いつしか舞台上では、うさぎが狼を謗るという妙な関係性が生まれていた。
周辺には未だ、心地よい風がなびいている。
「えーい。もうバカバカしい。やめたやめた」
「え、やめた?」
「そう。あんたを食べるのをやめた」
この劇中もナワテは観客の反応に目を光らせている。
ルルが機転を利かせた甲斐もあり、皆の表情は解けていた。もう誰が反魔女か、あるいは反体制かは分からない。
年配の観客の中には深く頷いている者もいた。年齢的に以前の魔女の劇団を知っている世代だろう。少しは、マーガレットの意思を継承できているということなのだろうか──。
そうだったらいいなと、ナワテは思った。
「じゃあ、認めてもらえる? 自分はおばかさんですって」
「え……おばかさん?」
「そっ! よく考えもせずにわたしを食べようとしたんだもの。おばかさん」
「そこまで言うかな?」
「考えることができない、決められたことしか出来ない、ぼんくら」
「指をさすなー!」
舞台周辺は今、開演前の剣呑な雰囲気が嘘だったかのような笑い声で溢れている。
肉食と草食の立場が逆転した不思議な世界。二人はうさぎと狼になりきり、その世界にどっぷりとハマっている。まるで観客の存在など忘れているようだ。
思えばそれは、ベルルックサリーシステムに則った演技だった。
世の中にある脚本の殆どはフィクション──つまり嘘の話である。だからこそ、俳優は本当のことのように演じなければならない。嘘の物語に嘘の演技を重ねあわせても、真の意味で観客の心は動かせない。
すなわち、観客の心を動かすために必要なのは、心から本当の役になること。言い方を変えれば、役として生きること。
それがベルルックサリーシステムの考え方だ。
ルルとスレタの役として生きる演技によって、観客たちの目には、舞台上の光景が芝居ではなく実際に起きている出来事のように見えていた。しかも、物語が始まって僅か二分足らずの出来事である。
この大会のルール上、少なくとも三分以内には、観客にストーリーの世界観を理解させる必要があるということは前述に述べた通りだ。演出の工夫も一つの要因だが、ルルとスレタは他を圧倒する演技力でそれを短縮し、なおかつ観客たちの心を異世界へと誘っていた。
「あんた、名前は?」
「アルアだよ。狼さんは?」
「わたしはデリ」
「可愛い名前だね。デリ」
「そ、そうかな」
うさぎと狼という役の設定はナワテが与えた。しかし名前までは決めていなかった。
二人で考えたのだろうか──。アルアがアダルア、デリはデリスランドを例えているのだと理解できる。デリスランドを比喩するのが凶暴な狼であるのに対し、アダルアが可愛いうさぎという点は、アダルアの民に寄り添ったのだろう。ナワテの頭にはなかった発想だ。
「上手いな」
我知らず、ナワテの緩んだ口元からそんな言葉が漏れた。
演出家がすべてを決めるのではなく、俳優に自由にやらせればこのような新しい案が生まれる。誰が演じても全く同じ作品になるのなら、キャスティングなど無用であるし、そんなものは作り物であって芸術ではない。演じる俳優によって違う作品になるからこそ芸術なのである。それも、ベルルックサリーシステムの考え方だ。
デリとアルアはそれからしばらく話をした。好きな花の話。好きな食べ物の話。初恋の話。どれも友人と暇を潰す際に交わすような他愛もない会話である。
だからこそ、デリは疑問に思わざるを得ない。
「アルアはさ、わたしが憎くないの?」
「憎い……どうして?」
「分かるでしょ。わたしたち狼はあなた達の仲間を散々食い殺してきたのよ。なのに、どうして平然とお喋りできるのよ。わたしと」
デリの口からまくしたてるように発せられた言葉は、後ろめたいことを一気に告白するときのような、強くて荒い口調だった。
そんなデリの疑問に、アルアは思いを馳せるように遠くを見つめた。
「アルア、狼さんと仲良しになりたいから」
「仲良し……?」
「アルアね、狼さんに襲われたことがあるの。パパとママと、三人でここに来たときよ」
「──!」
突然と放たれた衝撃の告白に、デリの動きが、息が、思考が、時間停止した。
一方、アルアは変わらず明るい表情で辺りを見渡した。
「この場所はあのときとなにも変わってない。見晴らしが良くって、空気が美味しくって、風が唄ってる。アルア、この場所が好きだったの。大好きなパパとママとここに来るのがいつも楽しみだった。だからその日も、アルアがおねだりして連れてきてもらったの。そしたらガサガサって音がして……、獣の臭いがして……、噛みつかれて……」
「あんたの、パパと、ママは……」
後ろめたさに苛まれるデリは、踏み込んだはずの質問でさえ中途半端になってしまう。
だからなのか──。それは分からないが、それについてアルアが答える様子はない。
「アルアね、いつか狼さんとうさぎが手を取り合って暮らせる日が来たらいいなってずーっと思ってたの。せっかく同じ世界に、同じ時代に生まれてきた者同士、分かり合えないなんてもったいないよ。だから、狼さんに会っても絶対に怖がらないって決めてたの」
彼女がそれを言えば、誰もが頭の片隅に平和な世界を思い浮かべてしまうだろう。アルアが語ったのはそんな願いだった。
しかしそれは、弱肉強食の世界では決して叶わぬ願いだ。もの悲しそうに微笑むデリの顔にもそう書いてある。そのやりきれない表情は、観客たちの代弁をしているようにも見えた。
その時、袖幕がふわっと揺れた。
上手から三人目の演者が登場したのだ。
「おい、デリ。こんなところでなにしてる?」
「お、お父さん!」
デリの父親役で登場したのは、スッチだ。
であれば状況は最悪。デリの焦る視線が向く先は、アルアだ。
状況を知らぬ父親からすれば当然、デリの背後にいるうさぎは餌にしか見えていないはず。
つまり、
── このままだとアルアが食べられてしまう。
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