うさぎとオオカミ【前編】
外に出たナワテは、色めき立つ観客たちに紛れた。ちょうど出囃子がなり終わる頃だった。
◆◇◆◇◆◇◆◇
舞台を眺め見ると、キラキラと星のような光が無数、空中に舞っていた。つい先ほどまで、そんな現象は起きていなかったはずだ。
空を見るとその答えが分かった。
雲の隙間から日脚が差し込んでおり、舞台上をサスのような光が照らしていた。その光に反射した砂埃が煌めいて見えたのだ。
「ふんふんふーん。ふふふふふーん」
少し明るくなった舞台。その袖から、聞いたことがあるようなないような、軽やかな鼻歌が聞こえてくる。
「緑風、花風と化せ……」
鼻歌に混ざり、低い声が舞台袖から小さく聞こえてきた。すると、唱えの通り、舞台上から観客に向かってサァーっと、柔らかな風が吹いた。
直後、客席から「おおっ!」という驚きの声が上がった。
物語の始まりを察知した観客たちの目が、ますます舞台上に集中する。
その時、袖幕がひらっとなびいたかと思うと、そこから舞台に駆け込んできた少女がいた。
スレタだ。
その瞬間、どよめきと歓声が同時に湧いた。賛否はともかくとして、間違いなくこの大会で一番の反応だ。
── 『これは、この時代に生まれたブルーバーグ家の宿命だよ』 ──
舞台上を眺めながら先ほどのスレタの言葉を反芻すると、ナワテは目頭が熱くなった。
彼女は白いワンピース姿で、頭にうさぎの耳が付いたカチューシャを装着していた。その格好のまま鼻歌を奏でながら跳ねるように舞台を駆けている。
心地の良い風の音、鼻歌、優雅に駆けるうさぎの耳の少女──。
奇しくも、一面緑色の幽邃な草原と一匹の白い野うさぎが観客たちの目に映し出されていた。
異世界に誘う摩訶不思議なこの現象が、演劇をこよなく愛する民の心を揺さぶらないはずがない。憎悪の眼光を放っていた観客たちも、いつしか食い入るように一匹の野うさぎを、その目で追いかけていた。
舞台から客席に向かってなびく風は、スッチが裏から魔法を使って起こしている。ナワテが考えた演出だ。
ナワテが初めてアダルアの演劇を観た場所がここポッポ街だ。彼には、その時から疑問に思っていたことがあった。
劇中に魔法を使う芝居が一つもない。
確かにBGMも照明もない中、体一つで芝居に打ち込むその姿は、ナワテの胸を熱くするものがあった。しかし、せっかく魔法が使えるのにそれを利用しないのは宝の持ち腐れだ。このように、使い方一つで観客に場所のヒントを与えることもできる。
魔法を使わない理由に関して、最初はなにか特殊な事情があるのかと思っていた。しかしそのことをスッチに訊ねると、特に理由はないとのことだった。むしろ考えたことすらなかったと彼は言った。
つまり、演劇に魔法を用いるのは、これがヴァーレの演劇史上初めての試みであった。
結果は大成功。
斬新なアイデアだと言うように、どの観客も驚きのリアクションを見せている。
狙い通りの反応に、ナワテは心のなかで「よし!」と言った。
すると、客席から子どもの笑い声が聞こえてきた。見ると、それは母親に手を繋がれた男の子の声だった。なぜだろうか、男の子はスレタが居ない舞台上手の方角を見て笑っている。
伝染するように観客たちの目線が上手側に移動した。すると、皆がクスクスと笑い始めた。
観客たちの目線の先には、こそっと舞台袖から顔だけを覗かせている女が一人。
ルルだ。
ルルは実に卑しい表情を浮かべながら、舞台袖からうさぎ耳のスレタを見ている。犬の耳らしきカチューシャを頭に付けていることから、ルルの役がうさぎを捕食の対象にしている肉食動物だということが分かる。
観客の笑い声が大きくなると、ルルは立てた人差し指を自らの唇に付けた。
直後、ルルは型破りな行動に出る。
なんと、観客に向かって「シー!」と言ったのだ。
その瞬間、客席の笑い声が大爆発した。
これにより、ただならぬ雰囲気を発していた舞台周辺の重力が一気に軽くなった。ルルが観客を手玉に取って空気を一変させたのだ。
これはルルのアドリブだ。彼女のひとかたならぬセンスにナワテは見惚れてしまった。このような離れ業は、自分の発想力に相当な自信がなければ出来ない。
登場人物が観客と直接的なコミュニケーションをとること。それは役として生きる演技を礎とする俳優にとってご法度的行為といえるだろう。しかし、ここにいる観客たちはつい先ほどまで険悪な空気を放っていた。かなり荒行ではあるが、それを忘れさせるためならアリだった。
だがスレタも負けてはいない。舞台周辺が笑い声で湧いたのを利用して、なにかに気づく素振りを見せた。
そして、舞台袖にいるルルを見た。
「あなたは、だれ?」
「狼だ」
そう。ルルの役は狼だ。
運悪く、野原を駆け回る子うさぎが、腹をすかせた狼の標的となってしまったのだ。
野生の狼を演じるルルが、腰を落とし臨戦体制に入る。
それは観客に向かって人差し指を立てていた先ほどまでのルルではない。本当に襲いかかりそうな目をして、うさぎの耳を付けたスレタを睨みつけている。
………………。
いつしか、観客の笑い声はピタリと消え失せていた。
「大人しくしろ」
「うん。分かった」
「そうだろそうだろ。こわいだ…………え?」
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