1・嫌な予感
ふと、何かがわたしの上に乗っているような感覚がしたので、わたしは目を覚ます。すると、わたしのお腹の上に少年が乗っていた。その少年は――浴室に閉じ込めているはずの、泥棒だった。
「……え」
彼の手には、キッチンにあったはずの包丁が握られている。わたしはマズいと思ったが、彼はもっとマズいと思ったようだ。
目を覚ますとは思っていなかったのだろう。浅い考えで、わたしを殺そうとしたのか。それにしても、どうやって脱出したのだろうか。それが気になって気になってしょうがない。
が、とりあえずわたしは言った。
「や、やめて」
殺めて、と聞き違えられたらどうしようかと思ったが、幸いなことにそんなことにはならなかった。というか、少年は耳が聞こえないのだ。だから、わたしの唇の動きで判断したのだろう。彼はナイフを離した。その隙に、わたしは勢いよく起き上がる。
少年はびっくりして、わたしから離れようとする。だが、仮にもわたしは高校生で、残念なことに彼は中学生だ。しかも、中学生にしても大分小柄で、非力な子だった。とても痩せていて、お腹に乗られても殆ど体重を感じないレベルである。そんな少年が、普通の女子高生であるわたしに抵抗できるはずもなかった。
起き上がった勢いで、わたしはそのまま少年を押し倒す。いかにもいかがわしいことが行われそうな体勢になったが、わたしはそこから少年の首を絞める。少年はすぐに抵抗する。が、すぐに大人しくなった。目を瞑って、現実を受け入れたかのような。
別に、殺すつもりはない。彼が大人しくなったのを見て、わたしはすぐに手を離した。そして少年がごほごほとむせている隙に、彼の薄い身体を回転させ、うつ伏せの状態にしてから彼の両腕を押さえ、背中側に持っていく。彼の、おしりの上にわたしが乗っているようなイメージ。それから、わたしは余った足でなんとか彼の足を固定する。わたしが鯱みたいなことになっていて、傍から見ればかなり滑稽な絵面となっていた。
わたしは少し疲れながら、言った。
「……大人しく、して」
「……」
うつ伏せで、わたしの顔は少年から見えないので、その声は彼に聞こえていない。それでもわたしは言った。
「……はぁ、はぁ……」
それにしても、本当に疲れた。
ここから、わたしはどうすればいいのだろうか。大人しく殺されておけば、こんなに疲れなくても済んだのだろうか。そんなことを考えて、いつの間にか一時間以上が経過していた。流石にそろそろ疲労も回復してきたので、段々と思考も回ってきた。しかし、思考が回ったといって、それが救いになるというわけでもない。もしわたしが手を離せば、彼はまた暴れるだろう。そうなった時、わたしはまた彼を押さえることができるだろうか。
「……」
あれ、万事休すじゃないか――わたしはそう思って、手を離した。予想通り、彼はすぐに暴れ始め、わたしは押さえきれず。そして彼は、近くに落ちていたナイフを手に取りわたしを押し倒し返した。
「……あー」
それにしても、さっきの彼はどうしてナイフを離したのだろう。ナイフを離したら、抵抗されることぐらいは分かるものじゃないか。いくら中学生とはいえ。それとも、人の言うことには逆らえないのだろうか。
どちらにせよ、困った話である。
少年は、その黒くて長い髪を揺らし、あまりにも真っ白な肌に汗を垂らしながら、わたしの方を睨んでいる。こう見ると、かなり顔が整っている。これは将来に期待が持てるぞと、わたしはそんなくだらないことを考えた。
「……桃花くん」
わたしは彼の名前を呼ぶ。しかし、彼はもうわたしの顔を見ないようにしていた。
人の言うことに逆らえない――なるほど、とわたしは一人で納得した。
その納得が間違っているか間違っていないのかは兎も角、少なくともわたしは今マジのマジでピンチだった。
今、まさにナイフの先端がわたしの胸に振り下ろされようとしている――あと、一秒も持たずして、わたしは死ぬだろう。
なんてことだ。あんなに死を望んでいた彼女は死にたくても死ねず、別に死を望んでいなかったわたしがこうもあっさり死んでしまうだなんて――世界は不条理と理不尽に埋め尽くされている。わたしはそう思って、先程の彼のように、全てを受け入れて瞼を閉じた。そして彼は発狂しながら、ナイフを振り下ろした――
その瞬間だった。
突然、ガン! という音が聞こえた。これは――壁を叩かれた音だろうか?
彼の動きが止まる。その瞬間、わたしは逃げ出した。精一杯の力を振り絞って少年を突き飛ばし、急いで玄関に向かった。
丁度その時、ぴんぽんとインターホンの音が聞こえた。誰だろうか。もしかしたら、警察かもしれない――警察だったら、捕まるのはわたしの方じゃないか――そんなことを思いながらも、命が最優先だったので、わたしはドアを開けた。
すると、そこにいたのは警察ではなく――そしてもちろん彼女でもなく――隣人だった。
隣の部屋の、常盤ほたるさん。
「あの、うるさいんだけれど……」
そうか――さっきまで、少年とじゃれ合っていたのだ。物音が隣の部屋に聞こえてもおかしくないどころか、むしろそれが当然である。今の時刻は分からないが、わたしが眠りについたのが午前一時のことだ。外は微妙に明るいので、恐らく早朝四時といったところだろうか。
……助かった。
「と、常盤さん。ごめんなさい。少し、助けて貰えませんか」
言いながら、わたしは靴を履いて外に出る。そして、そのまま隣の部屋へと向かった。隣の部屋――つまり、常盤さんの部屋である。
「え、なに……?」
「ドア閉めてくださいっ!」
わたしの緊迫した声に、常盤さんは戸惑いながらもドアを閉めて、そのままこちらにやってきた。
「どういうことなの……?」
常盤さんの問いかけをスルーし、わたしは部屋のドアを閉めて鍵をかける。
ここで、ようやくわたしは一息ついた。
「……はぁ」
「ねぇ、状況が全然理解できないんだけれど……」
説明が面倒――というか、状況を全て伝えてしまったら、豚箱行きになるのは彼ではなくわたしだ。
だから、とんでもなく簡潔に説明した。
「……つまりですね、わたしは襲われていたんです」
「なるほど。それは辛かったね……」
無事に誤魔化せた。人を騙す、というのは本当に気持ちがいい。
「わ、わたし、怖くて……」
「安心して。今すぐ警察を呼ぶから……」
あ、マズいかも。そうだ、この誤魔化し方じゃ普通に警察を呼ばれるじゃないか。うーん、どうしよう。
もう、アドリブで何も考えずに言い訳しよう。
「……いえ、その必要はありません」
「え、どうして……?」
「あの、えっとぉ……あの人、中学生なんです」
だからなんだってんだ。
「だから……?」
「えっと、正直言って、あの子、結構かわいそうなところもあって……」
「……?」
うわぁ、わたし言い訳下手くそ過ぎる。
「い、今冷静に考えてみると、わたしにも悪い部分があったかもしれなくて」
「ふむ……」
「あの、ごめんなさい。兎に角、こうやって助けてもらってるのに、我儘を言ってしまいますが、警察には言わないでくれますか」
「……」
これぞ、兎にも角にも作戦である。成功するかは微妙だが、成功して欲しい。常盤さんがどういう人間か、わたしには分からないのだ。だから、もう祈るしかない。神ではなく、あなたに――
「……分かった。通報はしないよ……」
「ほ、ほんとですか」
ああ、よかった……。なんとか、首の皮一枚繋がった。
常盤さんは、優しい声で言う。
「今日はここで寝ていいし、その少年とやらがいなくなるまではここで暮らしてもいいよ……」
「……さ、流石にそこまで面倒を見てもらうわけには……」
「ただし」
ここで、常盤さんが三点リーダーなしにこう言い放った。
「嘘はつかないでね」
……まぁ、流石にバレるか。わたしは誤魔化すのを諦めて、言える限りのことを常盤さんに話した。
「……なるほどね……」
それにしても、綺麗な人だ。モデルさんかなと思ったが、どうやら彼女はプロの水泳選手らしい。頭もいいみたいなので、わたしとしては羨ましい限りである。寝起きのはずなのに、丁寧に手入れされた茶髪と、すっぴんのはずなのに、あまりにも整い過ぎている顔面。思わず性的に見てしまいそうだなと思った。
わたしが全てを話し終えると、常盤さんは言った。
「随分と面倒なことになっているんだね……」
恐らくだが、常盤さんはわたしを警察に突き出したりはしないだろう。だからといっていい人であるとか、そういうわけでもない。
常盤さんも、それなりにグレーの道を歩んできたのかもしれない。わたしはそう思った。それとなく訊いてみると、
「グレーどころか完全にブラックだよ……」
常盤さんはそう答えてくれた。完全にブラックって。水泳にもそういうのがあるのかと思ったが、常盤さんは否定した。
「そういうことじゃないよ……」
「じゃあ、どういうことなんですか」
「言えないよ」
三点リーダーなしでそう言われたら、わたしも黙るしかない。常盤さんのこれまでの、二十四年の人生で、一体何があったのか。気にはなるが、今は気にしていられる状況でもないので、わたしはこれ以上追及しなかった。
「なるほどね。ミラちゃんは、その少年を監禁したわけだ……」
ミラちゃんというのは、わたしの名前である。伏谷深良。そこまで奇抜な名前ではない。
「……ミラちゃん」
「ん? 気に入らなかったなら、ごめんね……」
ごめんとは言っても、直す気はないらしい。別に、気に入っていないというわけでもないので、わたしは首を横に振った。名前なんて、好きなように呼べばいい。呼び名にこだわりはないのだ。
「でも、ミラちゃんって呼ばれたのは初めてです」
「ふうん。なら、私が特別だね……」
反応に困ったので、わたしは愛想笑いで返した。
そんなわたしの心中を察したのか、常盤さんは話を元に戻した。
「……まぁ、一概にミラちゃんが悪いとは言えないね……」
「……」
少なくとも、同情の余地はあるということだろうか。わたしとしては、先に泥棒しようとした彼が百で悪いと思ってしまうのだが。
「それはないね。だって、監禁の方が窃盗よりも罪が重いでしょ……」
それこそ、わたしは無いと思う。殺人も落書きも、罪であることに変わりはない。犯罪であることに変わりはないのだ。少なくとも、わたしはそう思う。
しかし、大人の女性に堂々とそんなことを口にできるほど、わたしもメンタルが強いわけではないのだ。
「……そうですね」
「でしょ……」
わたしは弱い人間だ。強ければいいというわけではないが、強い方がいいに決まっている。それを常盤さんに言ったら、
「人間は弱い生き物だよ……」
とか言いそう。
まぁ、決めつけはよくない。そして決めつけはよくないのと同じぐらい、犯罪だってよくないものだ。そのぐらいは分かっている。
「分かっているなら、自首してよ……」
「しませんよ。自首すべきは彼でしょう」
桃花くん。耳が聞こえない彼に対してであれば、名前を呼んでも恥ずかしくはない――まぁ、それはどうでもいいが。
目には目を、歯には歯を――わたしはそういう主義だ。
「わたしは悪くありません」
「……まぁ、なんでもいいよ。私は何も言わない……」
なんでもいいなら口を出さないで欲しかったが、ただでさえ迷惑をかけているので、そんな偉そうなことを堂々と言えるわたしではなかった。流石に、そこまでふてぶてしくはなれない。とはいえ、遠まわしに言えるほど頭のいいわたしでもないのだが。
早朝の五時。ようやく寝ることを許可してもらえたので、わたしはベッドで横になった。疲れたので、もう何も考えたくなかった。今から寝ても眠れるのは精々二時間か三時間ぐらいだろうが、それでも眠りたい。睡眠欲というのは三大欲求の中で最も重要な要素である。少なくとも、性欲よりは大事だろう。食事は、好きじゃない。
「……狭い」
隣にぴったりと、常盤さんがくっついて眠っている。ベッドは一つしかないのだ。文句を言う筋合いはないが、やっぱり狭い。それに、お風呂に入っていないので今のわたしは汚いのだ。流石に人とくっつくのは抵抗がある。においとかも、気にしたい。わたしは女子なのだ。まぁ、常盤さんがいいならいいか。
「……」
わたしもさっさと意識を手放したかったが、脳が中々眠ってくれない。これは困った。このままじゃ、わたしは居眠りをしてしまうかもしれない。そうなったら最悪だ。ただでさえ進級が危ういのに、更に居眠りで成績を下げられたら、わたしの高校生活は終了を迎えることだろう。別に、進級したいと思っているわけでもないのだが。いや、それは全学生が思っていることなのかもしれない。
どちらにせよ、わたしはここで眠らなければならない。手っ取り早いのは、睡眠薬を接種するという方法だ。しかし、その睡眠薬を持っているのは、わたしの知っている限りでは彼女しかいない。常盤さんが持っていれば話は早いのだが、その常盤さんは現在、すやすやと眠りについている。起こすのは申し訳ないし、だからといって家主が寝ている隙に部屋の中を探すと言うのも犯罪っぽい。わたしは不良生徒であっても犯罪者であっても、人でなしであっても、人間ではあるのだ。だから、そんなことはできないのだ。
そしてわたしは睡眠薬を処方されたことがそもそも無い。だから、睡眠薬を処方されている彼女に頼るしかない。しかし、その彼女だってこの時間には眠りについているはずだ。わざわざわたしの都合で起こすだなんて、あり得ない。それは人間の所業じゃない。一応、合鍵を交換していたりはするのだが、それだと結局寝ている彼女を起こすことになってしまう。だから、違う方法を探すしかないのだろう。
彼女の隣の部屋――波久礼さんが睡眠薬を持っているとは思えない。だから、やっぱり違う方法だ。
では、考えてみよう。
眠る方法――その一。
頭を、思い切りぶつけてみる。
いやいや、その方法はダメだ。理由は、隣にいる常盤さんを起こしてしまうかもしれないからだ。それに、命の危険もある。頭をぶつける系は自分にすらおすすめできない。
なら、眠る方法――その二。
思いつかなかった。
「……はぁ」
わたしはわたしの頭脳の残念さに打ちひしがれながら、そのまま意識を手放した。
いつの間にか眠っていた。くだらないことを考えるという、眠る方法として最も効果的で最高な方法を試してよかった。
そしてわたしは、午前七時半に常盤さんに起こされた後、朝ご飯を御馳走してもらい、礼を言って、常盤さんの部屋を出た。そして、ビビりながら自分の部屋に戻った。すると、少年はいなくなっていた。一応、ありとあらゆるところを探してはみたが、彼は完全に消えていた。もしも警察に駆けこまれたら大変だが、まぁそんなことは無いだろうという希望的観測を一人呟いたところで、わたしはお風呂に入ろうと決めた。
着替えを用意して、適当な床にぼんと置いておいて、バスタオルを用意して、適当な床にぼんと置いておいて、着ていた服を脱いで、適当な床にぼんと置いておいて、浴室に入った。酷いにおいだった。そういえば、忘れていた。わたし、トイレにも行かせてなかったんだった――というわけで、急遽全裸で風呂掃除タイムと相成ったわけだが、途中から面倒になったので、わたしは全裸のまま着替え(制服と下着)を持って部屋を出て、そして彼女の部屋へと向かった。このアパートに、男の人は一人しか住んでいないのだ。だから、見られる可能性は低い。と思ったが、部屋を出た瞬間にアパートの前を通ろうとしていたおじいさんと目が合った。持っていた着替えで身体を隠してはいたが、それでも「ぴゃっ」と悲鳴を上げてしまう。だからといって後には引けないので、わたしはそのまま急いで彼女の部屋へと向かった。幸いなことに、おじいさんは目を逸らして――というか、わたしのことなんて全然気にならなかったらしく、そのまま歩いていった。
「……ふぅ」
断固として言うが、わたしに露出趣味はないので、普通にただただ怖かった。将来は凶悪犯罪者にでもなりたいなと思っていたが、それでも公然わいせつにだけは手を染めないようにしようと心の底から思った。
「……いや、凶悪犯罪にも手を染めちゃダメだろう」
彼女はそう言いながら、快くお風呂を貸してくれた。やはり、持つべきものはお風呂を貸してくれる友達だ。
無事に、身体を清めることもできたので、わたしは制服を着用する。そこで、そういえば学校の鞄を部屋に置いてきたことに気付いた。だが、面倒だったので、放置することにした。
そもそも、学校に持っていくものなんてないのだ。授業に必要なものは全て置き勉している。校則で置き勉は禁じられているので、これも悪カッコイイ要素だ。
学校へ行く用意も済んだので、わたしと彼女は一緒に出発した。
六時間授業を難なく終えて、放課後。今日は財布を忘れてしまったので、昼ご飯を買うことができなかった。なので、わたしは今とてもお腹が空いている。彼女を誘って寄り道でもしようかと思ったが、残念なことに彼女は今日居残りをするらしい。というか、居残りを命じられたらしい。普段なら彼女の居残りが終わるまでわたしも付き合うのだが、今日はあまりにも空腹だったので、先に学校を出ることにした。
自転車で帰宅し、財布を取って、コンビニに急ごう。そう思ったが、そこであることに気付いた。
もしかして、財布取られてるんじゃ……?
その、嫌な予感は的中した。帰宅して、家中のどこを探しても、わたしの財布は見つからなかった。やられた。
そうだ、そういえば彼は泥棒なんだった。泥棒を部屋に放置していくとは、あまりにも警戒心が無さすぎる。もうちょっと警戒するべきだった。あの時は、命が最優先だったから仕方ないとはいえ……。仕方なくても、悪いは悪い。
「……はぁ」
全財産ではないが、全財産の20パーセントほどが盗られてしまった。全財産が約10万円ぐらいなので、盗られたのは大体2万円である。小銭も入っていたので、もう少しか。とても許す気にはなれない。
今度会ったら本当に殺そうと思った。
「……」
スマホ決済という便利なものがある世の中に、多少は感謝しよう。わたしはそう思いながら、充電中だったスマホを持って外に出た。すると、一人の男とすれ違った。
「おでかけかい?」
この人は、彼女の隣の部屋に住む、アパート唯一の男性である。確か、二十歳ぐらいだった気がする。名前は――波久礼稔。みんなからは、『波久礼さん』や『はぐれ者』と呼ばれている。昔、『半グレさん』と呼んだら怒られた記憶があるので、それ以来は普通に波久礼さんと呼んでいるのだが。わたしは頷いた。
「ちょっと、お腹が空きまして」
「そうなんだ……そうだ、何か食べていくかい?」
その申し出は嬉しかったが、わたしはそれを固辞した。特に理由は無いが、この人に借りは作りたくなかったのだ。
「いえ、お気持ちだけで結構です。食べたいものがあって」
「そっか。なら、気を付けて行ってね。僕は今日、帰らないから」
波久礼さんはそう言って、部屋の中に入っていった。
このアパート唯一の男性である波久礼さんは、ボディーガードのような役割を果たすことが多い。夜の買い物やお出かけに、波久礼さんを付き合わせることがしょっちゅうあるのだ(特に常盤さん)。常盤さんとは今朝まであまり絡みが無かったが、波久礼さんとはかなり絡んでいる。もちろんそれは、いやらしい意味ではなく。
「……」
つーか、波久礼さんはもうすぐ結婚するらしい。おめでたいことだが、わたしは人を祝うという気持ちが欠損しているので、なんとも思わなかった。結婚するなら、波久礼さんは引っ越すのだろう。アパートから男性がいなくなるのは、気楽な分、不安も多い。
もし、不審者に襲われたりしたら――と。そういえば、わたしは今朝泥棒に襲われたんだった。そう思い出して、不安になる必要はあまりないのではとも思った。常盤さんはプロの水泳選手だし、水泳という競技がどんなものなのかは知らないが、プロなら喧嘩だってできるだろう。これからは常盤さんに守ってもらおう。
「……なんてね」
自分の身は、自分で守るべきである。
最寄りの、徒歩三分ぐらいのところのコンビニに向かった。特に食べたいといったものはなかったが、とりあえずスイーツとカップラーメンをカゴに入れる。一応、缶チューハイを何缶か、缶ビールを何缶か入れておく。どうせなら、今日の夜は彼女を呼んでパーティしよう。わたしは喫煙者ではないが、カッコつけるためにレジ横にあるボックスのタバコもカゴに入れて、そのまま会計。年齢確認はされなかった。せっかく偽造免許証を作っておいたのに、使う機会があまりないのは少し残念かもしれない。偽札も作ろうかと迷ったが、使えるレベルの偽札を作れるほどのお金も技術もないので、諦めた。というかそもそも犯罪である。わたしは犯罪なんてしない。
いつも通り自己欺瞞と罪を犯す(正確には、店員に罪を犯させる)罪悪感に耐えながら、会計を終えてコンビニを出る。スマホ決済はやはり便利だ。どうして今まで使っていなかったのか。
歩きながら、缶チューハイを開ける。酔いはしないが普通に弱いので、わたしは度数の低いやつだけしか飲まない。女子ぶってるとか言われたら嫌だからはっきりと言っておくが、わたしは男子ウケなんて気にしていない。というわけで、一口。
期間限定のってついつい買っちゃうけど、あんまり美味しくないことが多いよね!
幸いにも、期間限定のものは一缶しか買っていなかった。色々と買っておいて本当によかった。わたし一人じゃ絶対に飲み切れないだろう。
ちびちびと好みじゃない缶チューハイを飲みながら、アパートに向かって歩き出すわたし。しかし、途中で気が変わり、学校の方へと向かうことにした。彼女を迎えに行こうと思ったのだ。まだ、時間は夕方だが、パーティの開催は早ければ早いほどいいだろう。明日も学校なので、早めに寝なければならないのだ。それとも、今日も彼女は自殺にチャレンジするのだろうか。次はどんな方法で失敗するのか、わたしはそれをひっそりと楽しみにしていた。
恐らく、居残りはもう終わっているだろう。だから、このまま下校ルートを辿っていけば、いずれ彼女とすれ違う――そう思っていた。しかし、結局すれ違うことはなく、わたしは学校に到着してしまった。どうすればいいだろうか。
わたしはお酒を飲んでいるし、お酒を持ってもいるし、なんならタバコも持っている。制服ではあるので、学校に入ることはできるかもしれないが――と、そこで思い出した。そういえば、わたしはお腹が空いているのではなかったか。
思い出したら、またお腹が空いてきた。お酒を飲んでいるとはいえ、そんなすぐに腹は満たされない。そもそも、まだ八口くらいしか飲んでいないのだ。本当に好きじゃない味である。さっきは美味しくないと言ったが、普通に好みじゃないのかもしれない。
とりあえず、わたしは校門の前に座り、お腹を満たすためにレジ袋からスイーツを取り出した。スカートで地べたに座るのはあまり好きじゃないが、この際仕方がない。スカートに虫が入っても、泣き叫ばないようにしなければ。
今回、わたしが選んだスイーツは、ふわふわでもちもちな生大福である。きなこホイップと、黒蜜の2つ。2つあるので、彼女と1つずつ食べようと思ったのだが、残念ながらわたしはお腹を空かせている。だから、一人で食べることにした。
一口食べる。味とかそういうのは、よく分からない。実を言うと、食事は好きじゃないのだ。味覚がないというわけではないのだが、しかしわたしの場合は味覚を楽しむというのが分からないのだ。だから、生大福は生大福でしかない。感想としては、甘い。美味しいという感覚は知らないので、甘いとしか言いようがない。わたしに食レポは向いていないなと、いつものように思った。
ちなみに、そんなわたしがどうしてスイーツを選んだのかと言えば、それは彼女がスイーツを好んでいるからである。わたしとしては、なんでもいいのだが。米だろうが麺だろうがパンだろうが、肉だろうが魚だろうが植物だろうが、それは食べ物であって食べ物でしかない。わたしに好みだなんて大層なものはない。あるいは、偉そうな、か。
好き嫌いをよしとしない人は、好きもよしとしないのだろうか。そうでなければ、その思想は一貫していない。破綻しているとさえ、わたしは思う。
そういえば、彼女の両親はそういう人だったらしい。わたしの両親はそういう人ではなかったので、彼女の気持ちは分からないが、勝手な妄想で言えば、彼女はそれが不満だったのではなかろうか。だからこそ、彼女はとんでもない偏食家になったのだろう。だって、あの子はいつもスイーツしか食べないのだから。あるいは、果物。水やお茶なんて飲まないし、野菜なんて以ての外。食べられないというわけではないらしいが、食べたくないそうだ。
よく分からないが、可哀想だとは思った。とはいえ、共感どころか同情さえできそうにない。
食に対するこだわりって、性に対するこだわりもそうだが、本当に無意味でしかないとわたしは思う。
「……まぁ、思想の開示はここまでにしておこう」
そう独り言を呟いて、わたしはゴミをその辺に捨てた。もしかしたら、教師達が職員室の窓からわたしのことを見ているのかもしれない。しかしその場合、わたしがポイ捨てをしなかったところで、酒を飲んでいるのだから、変わらないだろう。だから見ていないことを祈ろうと思った。
神ではなく、教師に祈ろう。わたしは無神論者である。ポイ捨てをカッコイイとは、流石のわたしも思わないし。
甘いものを食べて乾いた喉を、あまりにも好みじゃない缶チューハイで潤す。そんなわたしの姿をチラ見して、「やば」と嘲笑しながら学校を去る高校生達。カッコよく見えれば、いいのだが。
ウチの学校の生徒達は、基本的にチクるということをしない。というより、面倒事を極端に嫌うのだ。それは教師達も同じであり、だからこそわたし達は好き勝手できているのかもしれない。
お酒を飲んだり、彼女と深夜徘徊をしたりしていた時、わたし達は何度か学校の先生と遭遇しているのだ。それでも、未だに生徒指導室に呼ばれたことがない。だから、きっと大丈夫だろうとわたしは思う。
楽観的だろうか。
楽観的なのだろう。
そのぐらいは、自覚している。
「……あれ、ミラ?」
しばらく待って、そしてようやく。
「……めっちゃ待ったよ、カノ……ン」
「……やっと」
やっと――彼女は言った。
「名前を呼んでくれたね」
「酔ってるからね」
実際には、全然酔っていなかったけど。練習の成果である。
彼女は自転車登校なので、さっきコンビニで買ったもの達は全てカゴに置かせてもらった。そして、彼女の鞄をわたしが背負っている。彼女は自転車を運転している。わたしは、その後部座席――ではないが、後ろの荷台に座っていた。つまり、二人乗りである。
自転車の二人乗りは、法律で禁止されているそうだ。正直、そんなことないだろうと思っていたのだが、前に気になってスマホで調べてみたところ、本当にそんなことがあったのだ。わたしはびっくりした。二人乗りなんて、珍しくもないのに。道路交通法というのは、想像以上に厳しいらしい。それも、安全のためなのかもしれないが……。
しかし、安全のために自由が侵されるだなんて、あってはならない気もするが。極論なのかもしれないが、わたしは殺人でさえ正当な権利であるべきだと、思う。そうなれば、彼女を殺してあげられるのに。
「そんなことはないと思うよ。人間は、何かに縛られて生きるべきだ」
彼女はそう言いながら、先程買ってあげた生ビールを口にする。いや、よく飲めるなと感心してしまうな。わたしは、生ビールが苦手だ。味が、本当に苦手なのだ。さっき好き嫌いがどうとか、分からないだとか抜かしていたわたしだけど、流石にこれは例外である。生ビールだけはダメだ。これだけは本当に嫌いだ。それだけは絶対に譲れない。
「矛盾の塊みたいなことを言うんだね、ミラは」
「……いつも通りでしょ」
わたしはそう言って、笑った。彼女は笑わなかったが、彼女が笑うことなんて滅多にないと思う。なので、別に気にしていない。
「わたしはいつでも破綻しているから」
「……そうかな」
彼女はそう言ったっきり、黙ってしまった。この話が、つまらなくなったのだろう。わたしも正直、面白いとは思っていなかった。だから、別の話を振った。
「今日の夜、パーティでもしない? 夜っていうか、今からでもいいけど」
話というより、それは遊びの誘いだった。一応誘ってはみたが、わたしは彼女が断るとは思っていない。というか、誘わなくても来るだろうとすら思っている。そう思っていた。しかし、彼女は言った。
「……ゴメン、今日はちょっと遠慮するよ」
「……え」
その返事は、わたしにとってあまりにも予想外のことだった。戸惑いが隠せない。慌てて、自転車から落ちてしまうようなことにはならなかったが、それでもかなり困惑していた。
とりあえず、ワケを聞かなければ――わたしは訊いた。
「な、なんで」
「いや、今日はちょっとね……」
そう言って、彼女は話を濁した。何かを誤魔化しているかのような、そんな様子だった。まるで、わたしに言いたくないことがある――というような。
隠し事なんて、今までされたことなかったのに。とはいえ、人間なら1つは隠したいこともあるのだろう。わたしだって人間だし、わたしだって隠し事の1つや2つは余裕である。だから、彼女を責めることなんてできない。できない、のだが……。
「……そっ、か」
気になる。
ここで、追及しなければ、
わたしは、
失ってしまうような気がした。
一人の、友達を――
唯一の悪友を。
「……なら、仕方ないね」
でも、わたしは追及しなかった。ここで変に追及して、関係が壊れたら――そう思うと、できなかったのだ。
わたしは、愚か者なのかもしれない。
彼女は、明らかに安堵の表情を浮かべていそうだった。そんな感じの、雰囲気だった。後ろに乗っているわたしに、彼女の顔が見えるわけ、ないのだけど。
「……ところで」
わたしは、話題を変えた。
「どうして、居残りだったの?」
わたしと彼女は同クラスではない。なので、彼女についてあまり詳しいことは知らないのだ。
だから、訊いてみた。
でも、
「……ごめん」
彼女は、
「……帰ってから答えるよ」
そう言った。
後で、答えてくれるそうだ。
「……」
嫌な予感というものが、まさか本当にあるとは――わたしは、思っていなかった。
財布を盗られていた時のような、そんなものではなくて――直感とか、そういうのではなくて。
それは感覚で、雰囲気で、空気だった。
概念のように曖昧で、目には見えないし、わたしには掴めないような。
一言で表すなら、それは壁だった。
それは、心の壁だった。




