2・引退宣言
「もう、やめないか?」
彼女は言った。それがどういう意味なのか、わたしにはよく分からなかった。
だが、嫌な予感はしていた。
ボロボロなアパートの一室――わたしの部屋にて、二人きり。わたしと彼女は、テーブルを挟んで向かい合って座っていた。彼女が飲んでいるのは生ビールで、わたしは今何も飲んでいなかった。結局、あの缶チューハイは捨てた。味が微妙だったからだ。先程食に対する好き嫌いについてどうでもいいとか言っていたわたしだが、しかし缶チューハイは食べ物ではない。味覚がどうという話についても、それは食事の話であって飲酒の話ではない。
スイーツでお腹は満たされなかったので、先程コンビニで買ったカップ麺を啜りながら、わたしは彼女の話を聞いていた。
わたしは訊いた。
「……何を?」
彼女が何を言おうとしているのか、わたしには分からない。ちっとも分からない。だから、訊いた。だが、聞きたくはなかった。
「……」
わたしの問いに、彼女は答えにくそうにしながらも、しばらく間をおいて、ようやく口を開いた。
「……悪いこと、とかさ」
「え」
よく分からなかった、とは言えない。彼女の言葉を、わたしは理解した。
彼女は、こう言いたいのか。今までやってきた、未成年飲酒やら飲酒運転、深夜徘徊、あとは売春や校則違反など。それらを、もうやめないかと。彼女はそう言っているのだ。
「……なんで」
わたしが帰宅途中に訊いたのは、「どうして彼女は居残りをしていたのか」だ。その答えとして、彼女の言っていることは成立していない。それとも――それについて、言われたのだろうか。
「いや」
しかし、それについては彼女が否定した。
「そうじゃない。もしそうだとしたら、ミラが呼び出されていないのはおかしいじゃないか」
「……確かに、ね」
確かにそうだ。だから、そうじゃないのだろう。でも、それならやっぱり答えが成立していない。そう言うと、彼女は答えた。
「……確かに、成立はしていないね。でも、関係はしているんだよ」
「関係?」
彼女の言っていることが、また分からなくなった。
でも、これ以上彼女の話を聞きたくはなかった。しかし、もう後戻りは出来ないのだろう。
バクバクと、激しい動悸に襲われる。割り箸を持つ手が震えているかもしれない。わたしは、目を瞑りたい気分になった。
そして――彼女は言った。
「私は、大人になりたい」
彼女は、
「実は」
言った。
「私には、夢があるんだよ」
ゆめ。
将来の、夢。
阻害され、迫害され、見放され、見下され、社会から離れ、離れ離れになったわたしと彼女。
その、はずなのに。
「……夢って、なに」
「それは、ちょっと秘密にしたいんだよね。実は、先生に呼び出されたのもそういう事情で――」
先生に、将来の夢について相談していた――らしい。
何ヵ月か、前のことだそうだ。
時々、先生と話していたそうだ。
彼女はそう、笑いながら言った。
「……将来の、夢」
わたしは、戸惑っていたのか。
それとも――悲しんでいたのか。
分からない。
わたしと彼女は、社会のレールから徹底的に外れてしまっていた。
そのはずなのに。
彼女は――夢を持ったらしい。
おめでたいことだと思う。本来であれば、祝福するべきことでもある。だが――残念なことに、わたしは人を祝うという気持ちが欠損している。だから、祝えない。おめでたいと思えない。嬉しいと思えない。
置いてきぼりにされた気分ですらある。
もしくは――
見放された、気分。
彼女が、
わたし達の――いや、
わたしの敵になったかのような。
社会の一部になったかのような。
そんな、気分。
「……そうなん、だ」
「……だから、そろそろ遊びは終わりにしたいんだ」
遊び。
そう、わたし達の悪い遊びは、遊びでしかない。未成年飲酒だろうが、喫煙だろうが、薬物だろうが。窃盗だろうが強盗だろうが詐欺だろうが売春だろうが、校則違反も法律違反もルール違反もマナー違反も、その何もかもがただの遊びなのだ。
遊びは、いつか卒業しなければならない。そのぐらい、わたしにも分かっている。
彼女は言った。
「本気で、自分の夢に向き合いたい。私はそう思うようになっていた」
「……」
夢、将来の夢。なりたいもの。
わたしには、持てない希望。
「……カノンは」
わたしははっきりと、彼女の名前を呼ぶ。
カノンの名前を呼ぶ。
「カノンは、わたしと遊ぶの、好きじゃなかった?」
その問いに、意味なんてなかった。彼女が、正直に答えてくれるわけもないのだから。
そして、その通りだった。彼女は答えた。
「……楽しかったよ」
確かに最初は楽しかったのかもしれない。
でも――いつからか、彼女はこの悪い遊びに、飽きていたはずだ。
楽しくなくなっていたはずだ。
それに――好きとは、言わなかった。
この悪い遊びは、誰にとってもただの遊びだった。もちろん、わたしにとってもそうだった。だが、それはそうだったというだけの話だ。実際、それ以外の意味も、確かにあった。
社会への反逆――と言うには、あまりにもスケールが小さ過ぎるかもしれないが、それでも、わたしはその気になっていた。
社会に反するような行動をして、人に迷惑をかけて、他人の人生を壊して、自分の人生を滅茶苦茶にして――満足していた。
大嫌いな社会に、一矢報いたような気になっていたのだ。
大嫌いなみんなに。
「……」
喋り方が、分からない。
遠くに行ってしまった彼女は、もう。
わたしなんて、見てくれないのだろう。
「……うん」
だから、わたしは言った。
「もう、やめよっか」
色々あり過ぎて、疲れてしまった。
泥棒の少年に襲われて、隣人の水泳選手に助けられて、唯一の悪友と離れ離れになった。いや、これからも関係は続くのだ。続くのだが――しかし、カノンはもうわたしの友達ではない。身内でもない。あくまでも、他人でしかない。
悪いことを卒業するとか言いておきながら、わたしの買った生ビールを二本部屋に持ち帰っていったのには流石に笑った。もちろん、お金は払ってくれたが……。カノンは、
カノンは、本気で言っているのだろうか。
どんな夢を追いかけているのか、わたしには教えてくれなかったけど。
でも、きっとそれは失敗するだろう。というか、して欲しい。わたしは切実にそう思った。
「……うーん」
つまらない日々だ、とわたしは思う。少年もいなくなってしまったので、暇つぶしが出来ない。わたしの言う暇つぶしとは、要するに悪いことである。今まではカノンがいた。そして、彼もいた。彼の場合は彼を監禁すること自体が暇つぶしのようなものだったのだが。
「だる……」
常盤さん譲りの三点リーダー。いや、そんなくだらないことを考えている暇はないのだけど。
あの少年に会いたい。わたしはそう思った。彼を完膚なきまでに壊したい。ぐちゃぐちゃにしてやりたい。これはただの報復である。だが、報復や復讐だって所詮は暇つぶしだろう。そんなものに、意味なんてないのだから。
失ったものは、基本的に戻ってこない。
「……」
朝にサボった風呂掃除をしながら、わたしは色々なことを考えていた。
たとえば、遊びのことを真剣に考えてみたり。過去に、カノンと遊んでいた記憶を呼び起こしてみたり。
あまり楽しい時間ではなかった。風呂掃除なんて、楽しいものじゃない。
遊びのことを真剣に考えたら、それは遊びではない。
カノンと遊んでいた記憶なんて、所詮は過去でしかない。
過去のことを考えて、一体何になると言うのだろうか。
無価値の昔よりも、価値のある未来を考えた方が、よっぽどいい。
でも、よくたってつまらない。
「……」
結局のところ、わたしと彼女は出会うべきじゃなかったのだ。彼女は――カノンは、わたしとは違った。
阻害されていても、迫害されていても――彼女には、資格があった。
生きる資格があった。人生の目的があった。
幸せになる資格が、確かにあった。
わたしとは全然違う。
わたしは不幸ではないし、不遇でもない。酷い目に遭ったわけでもなければ、被害者ですらない。だからこそ、わたしには生きている資格がない。人生に目的なんてないし、幸せになることは許されない。
それでも、楽しむことぐらいは許してほしいものだが。
カノンは、努力をするのだろう。努力が、できるのだろう。わたしと違って、何もかもが違って。
「……はぁ」
ため息をついて、わたしは考えるのをやめた。これ以上は考えていても仕方がない。
風呂掃除も終わり、いつの間にか外は暗くなっていた。現在、十一月。この地域で、この時期に未だ雪が降っていないのは珍しい気もする。雪が見たいから北海道にやってきたのに、あんまりだ。
「……寝るか」
寝ようと思った。だが、布団を用意する気力がなかった。さっきカノンが部屋に来た時、布団を片付けてしまったのだ。
どこかに出かけようかとも思ったが、あまり動きたくはなかった。それでも、何かをしないと気が済まなかったので、わたしは仕方なく制服から私服に着替える。
ユニクロで買った無地のグレーパーカーと、いつ買ったのか覚えていないダメージジーンズ。履いてみると結構ぴちぴちだったので、もしかしたら中学生の時かもしれない。正直、この服装だと結構寒い気もするが、別に遠出をするというわけでもないので、風邪を引く心配はしなくても大丈夫だろう。
「……」
コンビニにでも行くか、とわたしは玄関を出る。階段を下って歩くと、見知った人を見かけた。わたしは声をかけた。
「あれ、波久礼さん?」
そこにいたのは、カノンの隣の部屋の住人である波久礼さんだった。わたしの声に、波久礼さんはようやくわたしに気付いたようで、気さくに返事をしてくれた。
「やぁ、ミラさん。また、おでかけかい?」
そういえば、波久礼さんはわたしをミラさんと呼ぶのだったか。気楽に名前呼びができる人は、羨ましいと少しだけ思ってしまう。練習をすればわたしだってできるようにはなるのだが……。
わたしは答える。
「はい。コンビニに行こうかなと」
「そうなんだ」
ここで、わたしはあることに気が付いた。
「そういえば、出かけるんじゃなかったんですか?」
波久礼さんは、さっき会った時に言っていた。『僕は今日、帰らないから』、と。
だから、彼女とお泊まりデートでもするのかと思っていたのだが……。
「……実はね、格好悪いことに財布を忘れてしまったんだ」
「あらら……」
なるほど、そういうことか。
「それは格好悪いですね」
「あはは。肯定しか出来ないね」
デートに財布を忘れてしまった――ということだろう。そのまま店かなんかに入ってしまって、そこで財布を忘れたことに気が付いたのだろうか。それは確かに、ちょっと格好悪い。
すると、波久礼さんは言った。
「いや、彼女じゃないよ」
「え」
まさか、浮気――そう思ったが、波久礼さんは慌てて言った。
「いや、奥さんだよ。浮気なわけないじゃないか」
「あぁ、なるほどです」
籍はもう入れているらしかった。彼女じゃなく、奥さん。
「一度は言ってみたいセリフですね」
「そうだね。僕も言えて嬉しいよ」
そう言って笑う波久礼さん。幸せそうで何よりだった。波久礼さんが幸せだろうが不幸せだろうが、わたしには何も関係がないのだが。
あんまり邪魔しちゃ悪いので、
「それじゃあ、そろそろ行きますね」
そう言って、わたしはコンビニへと向かった。
徒歩三分で到着し、カゴを持って商品棚へ。やけ食いをしたい気分だったので、弁当を何個かカゴに入れる。菓子パン系も何個かカゴに入れて、次は飲み物コーナー。メロンソーダやコーラ、ファンタ等、片っ端からカゴに入れていく。お酒の気分ではなかったので、酒コーナーはスルーした。
買うものが思い付かず、わたしはそのままレジに向かった。さっきとは違う店員だったが、わたしが適当な番号を言うと、勝手にタバコを持って来てくれた。聞いたことのない銘柄だったが、わたしはそのままお金を払う。さっきと同じく、スマホ決済である。
年齢確認もされず、会計を終えて店を出る。わたしってそんなに老けているのかなと少し不安になったが、老けていたからといってそれは大した問題ではない。老けようが若かろうが、自分の顔は嫌いなのだ。
「……」
家に帰る途中、店員さんにお礼を言った方がよかったかもなと、そんなくだらないことを考えた。今から戻ってお礼を言っても、店員さんは困惑するだけだろうとも思った。
帰宅し、弁当をレンジでチンした。麺類以外で箸を使うのはあまり得意じゃないため、わたしは食器棚からスプーンを取り出した。
温めが終わり、テーブルに弁当をぼんと乱暴に置く。中身がこぼれてしまったが、そんなものは片付ければいいだけだ。
わたしは「いただきます」と手を合わせてから、弁当を食べ始めた。今気付いたが、それはハンバーグ弁当だった。もう1つの弁当は、どの弁当だろうか。少しだけ楽しみになってきた。
口に肉と米をいっぱい詰めて、そしてコーラで流す。あまりにもはしたない食べ方だったが、一人の時ぐらいは許してほしい。とはいえ、恐らくわたしは人がいる時でも同じように食べるのだろう。わたしはそういう人間である。別に、カッコイイと思っているわけではないのだが。
いずれ、わたしは完食した。味は、知らない。
そしてわたしは2つ目の弁当に手を伸ばした。
菓子パンを食べた。
買っておいた缶チューハイも飲んだ。
メロンソーダも飲んだ。
そして、
「ッ、がはっ、ゔぇ……」
思い切り吐いた。
喉から信じられないほど苦しそうな音が鳴る。それは音ではなく、声だった。
流石にやり過ぎたと、わたしは反省する。遊びのために、自分を傷付けるべきではなかった。
そう、これは遊びなのだ。
いつもやっている、悪い遊びである。
暴飲暴食は、悪い遊びだ。法律違反ではなくとも、健康には悪すぎる。
そして、そんな悪い遊びこそが、わたしを満たす唯一の手段。
気持ち悪い。体調が悪い。酸っぱい味と、ゲロのにおい。より一層、気分が悪くなる。
でも、それでも――わたしは満足していた。
わたしは、心の底から笑っていた。
愉しんでいた。
「……あは、は」
胃の中のものを全て出し切り、わたしはトイレから出る。既に、外は真っ暗だった。トイレにも窓はあったが、吐くのに必死で気が付かなかった。スマホで時刻を確認する。現在、二十一時。
わたしはキッチンに向かった。そして、水道水でうがいをして、そのまま洗面所に行き歯磨きを行った。お風呂は、どうしようか。
「……」
一日ぐらい、風呂キャンセル界隈でもいいか。そう思って、わたしは寝る準備をすることにした。
明日は裸でコンビニにでも行こうかなと、次に行う悪いことを考えながら、わたしは布団を敷いた。捕まったらどうしよう。
部屋着に着替えるのも面倒だったので、わたしはパーカーとジーンズを脱いでそのまま布団に入る。寒いが、これだって悪いことだ。
別に、カッコよくなくたっていい。
悪ければ、それでいいのだ。
わたしが悪ければそれでいい。
もう、いいや――わたしは思った。
今までは、カノンに気を遣っていた。だから、カッコイイことしかしなかったのだ。カッコ悪いのは嫌がるだろうと思ったから。
でも、もうカノンはわたしと一緒に遊んでくれない。
なら――気を遣う必要なんて、ない。
クラスメイトの家に、放火でもしてみようか。放火なんて、全然カッコよくはないのだが、しかし、もうカッコイイを気にする必要なんてない。イジメもそうだ。殺人だって、そうだ。
そっか。わたしは今まで、カノンがいたから自由にやれなかったのか。
彼女は邪魔者だったんだ。
なんだ。
なら、いなくなってよかった。
そんな、いつも通りの自己欺瞞を堪能しながら、わたしは意識を手放した。
カノンも、手放した。
……わたしは、突然目を覚ました。視界は真っ暗で、目が慣れるまでは何も見えなさそうだった。
その辺にあったスマホで時刻を確認する。現在時刻は朝の二時だった。あまりにも中途半端な時間に目覚めてしまったみたいだ。
とりあえず、わたしは布団を出てトイレに向かった。ちなみに、実はユニットバスである。正直、わたしはあまり好きではない。彼を浴槽に閉じ込めていた時は、かなりトイレがしにくかった。カーテンで区切られているわけでもないし、誰かを家に泊める時、相手のシャワー中はトイレ使えないし。また、逆も然りである。
用を足して、わたしはトイレを離れ、目の前にある洗面台で手を洗う。手を拭いてから、わたしはそのまま玄関に向かった。
靴を履き、ドアを開く。わたしは外に出た。街灯はないが、トイレでも電気は付けていなかったので、暗闇に目が慣れていた。夜の光も相まって、なんだか幻想的だなと思った。
それにしても、妙に寒い――そこでようやく、わたしは自分がどういう格好をしているかに気付く。
そして、どういう格好で外に出ているのかにも気付いた。
「……」
現在時刻は、午前二時である。大丈夫だと思うことにした。そうして、わたしは自分が公然わいせつ常習犯になってしまったことを見て見ぬふりした。
そして、しばらく見下ろした後、わたしは部屋に戻った。
布団に寝転がりながら、しばらく考える。
考えている内に、おやすみなさい。
目が覚める。スマホで時刻を確認すると、朝の七時だった。
すぐに起き上がって、伸びをする。それから、洗面所に行って顔を洗う。目を覚ますためだ。いい感じに目が覚めてきたら、歯を磨く。歯磨き粉がもうすぐ無くなりそうだったので、今日買わなくちゃならないと思った。
そして、わたしは朝ご飯の用意をする。用意と言えば聞こえはいいが、要するに昨日食べきれなかった菓子パンをレジ袋から出すだけだ。猿でもできる簡単なお仕事である。別に、料理ができないというわけではないのだが、食材がないのだ。冷蔵庫には食べ物がほとんど入っていない――作れても、味噌汁一杯ぐらいだろう。そろそろ、買い出しに行かなければ。
メロンパンを一口ずつ食べ進めていく。朝ご飯にしては結構重いかもしれないと、食べながら思った。といっても、わたしの食が細いだけなのかもしれない。しかし、残すという選択肢はないだろう。お金が勿体ない。一応、収入源はあるのだが……。
正直、あまり気が乗らない。ただ、そうも言ってられないのだ。いずれ、また働きに出なければ。
「……ごちそうさまでした」
そういえば、いただきますを言い忘れていた。なので、ごちそうさまはちゃんと大きな声で手を合わせながら言った。隣の部屋に聞こえてたら、ごめんなさいと言わなければならないが。
朝ご飯を食べ終えて、わたしは学校へ行く準備をする。あまり、遅刻したくはないのだ。成績が下がるのは流石に困る。高校ぐらいは出ておけと親にきつく言われているわたしだ。ただ、ぐらいと言えるほど高校卒業の難易度は低くないと思うのだが。
「……」
わたしの意見である。
それにしても、いつもより寒い気がする――そう思ったが、理由は明白だった。わたしは今下着姿なのだ。服を着ずに朝ご飯を食べたのは、地球上でわたしだけなんじゃないかという気分になった。恐らく、他にもいる。
制服を着て、その上にコートでも着ようかと思ったが、結局それはやめた。そっちの方が、身体に悪いと思ったからである。
「……」
鞄を持たずにわたしは外に出る。そして、わたしは迷った。
カノンを迎えに行くべきだろうか――と。いつもなら、カノンの部屋まで迎えに行くか、カノンが部屋まで迎えに来るかのどっちかだったのだ。だが、昨日の件もあって、わたしはカノンに会いたくないと思っていた。というか、会いづらい。
なんて声をかければいいのか、分からないと思ったのだ。昨日はお酒が入ってたから、カノンはもういいやみたいなことを考えていた。だが、わたしはそこまで非情な人間ではない。シラフの状態で、わたしは少し後悔していた。
何に後悔しているんだと言われても、わたしは答えられないのだが。
「……」
自殺未遂、230回。
カノンは本気じゃなかったのだろう。1回目、2回目は本気だったのかもしれない。100回目ぐらいまでは本気だったのかもしれない。
でも、彼女は――カノンは夢を見つけていた。しかも、数ヶ月前から。だから、少なくとも――ここ30回ぐらいの自殺は、本気じゃなかったのだろう。
わたしが、彼女の自殺未遂を面白がっていることに、気付いていたのかもしれない。カノンには、分かっていたのかもしれない。
だから――付き合ってくれた。
わたしのために。
感謝するべきだろうか。
「……」
わたしは少し考えて、それからカノンの部屋へと向かった。
たとえ悪友じゃなくなったって、友達であることに変わりはない――そう、信じたかったのかもしれない。
そんなことは、ないのかもしれないが。
どちらにせよ、わたしにとってカノンという存在は大きいのだろう。大きくて、重い。そして、深いところにいるのだろう。
そう思った。
わたしは、緊張しながらインターホンを押した。一秒、二秒、三秒――どんどんと、時間が経つ。
そして、ついに一分経った。一向に、出る気配がない。というより――気配が、ない。
人の気配が、一切なかった。
わたしはもう一度、インターホンを押した。今度こそ、出て欲しいと願いながら。
一秒。
「……」
二秒。
「……」
三秒。
「……」
一分。
「……いや、おかしいでしょ」
わたしは思わず独り言を呟いた。こんなの、明らかにおかしい。何かが破綻しているとすら思える。しかしその一方で、わたしは何かを察しているようだった。何を察しているか。何を察しているというのか。よく分からないとは、やはり言えなかった。
わたしは、コンコンとノックをしてみた。しかし、何回やっても反応はなかった。
「……んー」
次は、ドンドンと強めにノックをしてみる。それでも、反応はなかった。
「……」
わたしは、深呼吸をしてからドアノブを捻った。
すると、ドアが開いた。
部屋に鍵がかかっていなかったのだ。泥棒の彼が来たら、大変なことになっているかもしれない――そんなことを思った。
「カノン?」
わたしはカノンの名前を呼びながら、ゆっくりと部屋に入った。そして、この時には、もう。
「……」
全てを察していた。
靴を脱いで、中にお邪魔する。
「お邪魔します」
意味もなくそんなことを呟きながら、わたしは前に進む。前に、前に。足は、止まらなかった。
そんなことに、意味なんてなかったのかもしれない。前に進んだって、進まなくたって、結果は変わらなかっただろう。わたしは、この時点で全てを知っていたのだから。
全てを、察していたのだから。
「……あ」
そして、わたしはついにカノンを発見した。
赤黒く染まった布団の上に、彼女は眠っていた。
「……カノン」
外咲奏音が、死んでいた。




