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傀儡奇伝(くぐつきでん)  作者: 黒崎 海
第四十三章 哀別の夜、歓喜の朝
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第二話

 桐野の屋敷内は、今までに無いほど大勢の人々が行き交い、賑やかな笑い声に満たされた空気は今まで桐野と志狼だけしかいなかった静かな屋敷を、明るさで打ち震わすようだ。

羽織袴姿の男達、料理の支度をする襷掛け姿の女達、磨き上げられた廊下を忙しく行き交う人々の間をすり抜けて、海華は例の部屋へと足早に向かう。


そう、志狼と共に塵一つなく掃き清め、拭き上げた離れへと。

日焼けして白っ茶けていた襖も張り替えられ、大工の手による修繕も行われているそこは、一見しただけでは、今まで放り出されていた空き部屋とは思えないほどだ。


 修一郎が悩みに悩んで選び抜き、朱王が大枚はたいて買い揃えてくれた箪笥やら何やらの花嫁道具も一足先に届いているはずだ。


 次第に強くなる胸の高鳴り。

涙の跡がうっすら付いた頬を袖口で軽く拭い、海華の手が襖に掛かる。

そろそろと開いた襖の向こう。

白日の光が射し込む室内、眩い程の光に照らされて、よく見慣れた横顔が浮かび上がった。


 「あ、志狼さん……」


 「っ! 海華……! 今来たのか?」


 ひどく驚いた面持ちでこちらを振り向く志狼は、未だ普段と同じ格好のまま。

ぴかぴかと艶光りする箪笥や鏡台そして長持ちに囲まれて、ぽつねんと佇む志狼に、海華は微笑みながら小首を傾げる。


 「どうしたの? そんなに慌てちゃって?」


 妙に狼狽える志狼の隣に進み、その視線の先へ目をやる。

そこには、衣紋掛けに掛けられた純白の白無垢が、光の洪水の中で清らかな輝きを放っていた。


 「── 旦那様には、後の楽しみにしてろ、って言われたんだが、どうしても見たくてな」


 ぽりぽりと頬を掻き、照れ臭そうに視線を宙にさ迷わす志狼。

その横にぴたりと寄り添い、柔和な笑みを浮かべつつ海華が志狼を見上げる。


 「あたし、これ着るの二回目よ?」


 「でも、お前が着るのを俺は初めて見る」


 ぽつりとこぼれた台詞に、海華は再び小首を傾げた。


 「だって志狼さん、都筑様の所で……」


 「お前が白無垢来てた時、俺は離れの屋根裏で、鼠と一緒に埃まみれになっていたからな」


 くす、と小さく思い出し笑いをこぼす志狼は、白無垢から視線を外し、海華

を見る。

そう考えると、 あの時志狼の姿を離れ以外で目にしなかった。

きっと、夜までずっと屋根裏に籠り切りだったのだろう。


 「そっ、か……。でも、今日はイヤってほど見れるわよ? 志狼さんのために、白無垢着るんだから」


 誰か一人のために着るのは、これが最初で最後。

心底嬉しそうに微笑む志狼の手をとり、『早く支度しちゃいましょ』そう早口に告げながら、海華は志狼の手をとった。






春霞を纏う望月。

ぼんやり揺れる眠たげな月明かりを受け、綻び始めた桜花が仄かに光る。


 重厚な門柱、そして玄関先に桐野家の家紋が付いた提灯を掲げ、祝いの宴は始まりを告げた。


 華やかな、それでいて厳粛な雰囲気に満ち満ちた広間には黒い礼服姿の男女で溢れ、その中には当然媒酌人である修一郎夫妻や桐野、そして朱王の姿もある。


 よくよく見れば、中西長屋の大家夫妻、伽南や錺物屋の幸吉、高橋夫妻に都筑、そして都筑の母や六人の姉がそれぞれの夫を伴い、緊張した面持ちで座している。

襖を取り去りった、ぶち抜きの広間に座る客人らの視線の先には鈍い輝きを放つ金屏風を背に、黒い紋付き袴姿の志狼と、白無垢姿の海華がいた。


 左腕を三角布で吊ったままの志狼に、その理由を知らぬ者らの怪訝そうな視線が突き刺さる。

しかし、雪乃に手を引かれ静静と入室した海華の姿が、その視線を志狼から引き剥がした。

輝くように白い白無垢と角隠しを身に付けた海華は、顔から首に白粉をはたき、頬紅を付け、唇には深紅の紅をひいている。

普段化粧っ気の無い海華を見知っている者、そうでない者の唇から感嘆の溜め息が漏れる。


 『美しゅうございますねぇ』都筑の母が漏らしたその一言に、廻りに座る者らは素直に頷く。

いつも見ていた海華とは全く違う神々しいばかりの美しさに、朱王はただ声も出せずに見惚れるばかり。

 

 以前、偽りの祝言を挙げた時は不覚にも涙々で直視出来なかったが、今は涙すら出てこない。

感じるのは、血潮に乗って全身を駆け巡る暖かな幸福感、それだけだった。


 都筑の姉、お一の末娘の少女が右手で杯を手にする志狼に三三九度の酒を注ぐ。

限りなく水で薄めたそれを受ける手は、微かに震えていた。

契りの杯を交わし、はれて夫婦となった二人を祝い、朗々と響く高砂。

揺らめく蝋燭の灯りに浮かぶ人々の柔らかな微笑み。

緊張に高鳴る鼓動をどこか遠くに感じながら、海華は夢心地で幸せに包まれる。


物心ついてから今までの生活、自らが紡いできた人生、それが頭の中に走馬灯のように浮かんでは消える。

本当に、本当に夢のよう。

生きていて良かった、そう染々感じるこの瞬間。


ふと顔を動かせば、優しい眼差しを向けてくる朱王と修一郎の姿が見える。


涙は、もう出てこない。

ありったけの笑顔で、二人の元から今、旅立つのだ。


 赤く艶めく唇が、静かに、音もなく『ありがとう』の形を作り出す。


 そして、雪乃が無言のまま海華の肩を小さく叩いたのは、宴もたけなわを迎えた頃だった……。

雪乃に手を引かれ、着いたのはあの離れ。

白無垢を解かれて、白い夜着に着替えさせられる海華。

綺麗に整えられた寝具を横目に見れば、、自分がこれから何をするのかを嫌でも思い知らされる。


 以前も、同じ事を体験した。

しかし、今は状況が全く違う。

やはり緊張しているのだろう自分に、『大丈夫よ』と始終優しく声を掛け、最後にきつく抱き締めてくれた雪乃も、もういない。


 あれだけいた客人達は、もう帰路についてしまったのだろうか、人の声一つ聞こえない、しんと静まり返ったこの空間に、息苦しささえ感じる。


 落ち着きなく、きょろきょろと真新しい家具で囲まれた室内を見渡す。

と、襖の向こうに現れた人の気配に、無意識だろう、その身体が強張った。


 「…… あー…… あの、海、華?」


 張り替えられた新しい襖、そこから聞こえるやけに弱々しい呼び掛け、それは志狼に間違いない。『はい』と、いささか固い声色で返事をしてみるが、襖は小さく揺れるのみ。

一向に開かれる様子はなかった。


 「あの……志狼さん?どうかしたの?」


 「うん、いや……ここ、入ってもいいか?」


 思いもよらぬ志狼の返事に、呆気にとられた表情で目を瞬かせた海華だが、やがてその唇が笑みの形につり上がる。


  「いいに決まってるじゃない。ここは、志狼さんの部屋なんだから」


 笑いたいのを必死でこらえ、襖に向かい答えれば、『そうか』と短い返事の後に、そろりそろりと天の岩戸が開かれる。


 ひょこりと顔を覗かせた志狼は海華同様白い夜着姿だ。


 「お疲れ様。皆さんお帰りになったの?」


 「ああ、さっきな。長丁場だったから、お前も疲れたろ」


 ぎくしゃくとどこかぎこちない様子で部屋へと入り、焚かれていた火鉢の傍らに腰を下ろす志狼は夜着の中で吊っていた左腕を撫でる。

それを目にした海華は、畳から上掛けを捲った布団の上へ移り、志狼を手招く。


 「腕、揉むわよ? また固まってるんでしょ?」


 自らの左腕を差して言う海華に志狼は軽く頷いて布団へ上がる。長い間同じ格好でぶら下げていた腕は、血の巡りが悪くなるのだろう、冷たく固まっていた。

腕を吊っていた三角布を外し、力なく垂れ下がる腕をそっと持ち上げ、海華は肩から指先までを軽く擦りつつ筋肉を揉みほぐす。

肩から指先へ、指先から肩へ……何度も手のひらを往復させていくうち、青白かった腕に血の気が戻り、痺れや重だるさが嘘のように消えていく。

ほぅ、と志狼の口から小さな吐息が漏れたのに気が付いた海華は、にこりと小さく微笑んだ。


 「どう? 気持ち良い?」


 「ああ、気持ち良い……。すぐにでも、動きそうな気がするな」


 苦笑いしながら左腕を擦る志狼。

と、海華はその左腕を己が胸にしっかり抱き締め、その肩口に唇を寄せる。


 「焦らないで、ゆっくりでいいのよ?それまでは……あたしが、こうしてあげるから」


 うっとりと細められた瞳。

長い睫毛が小さな影を落とす、その白くなめらかな頬に、志狼はお返しとばかりに口づける。

自由になる右手で細い身体を抱き寄せて、寄せられたままの唇が細い首筋を滑り、細い鎖骨をやんわりとむ。


 なすがままの海華、その手が志狼の髪を結ぶ紐を、しゅっ、と乾いた音を立てて取り去った、その刹那、二人の身体が褥へ沈む。

蝋燭の灯りが揺れる暖かな闇に、響くのは微かな衣擦れの音だけ。


 満月も春霞に身を隠す夜。

綻びかけた桃色の花弁が、甘い夜露に身を震わせた……。







 「お前、とうとう泣かなかったな?」


 ふらふら揺れる提灯の灯りに目をやりながら、修一郎がぼそりと呟く。

『修一郎様こそ』そう小さな笑みを含ませて返す朱王は、後ろで結い束ねていた黒髪を、闇へ解き放った。

祝いの宴も終演を告げ、主である桐野に見送られて屋敷を後にした二人。

朱王と少し話しがしたい、そう雪乃に告げ、彼女を供の者と先に帰らせて、修一郎は朱王と並び歩く。


 今は『遠い親戚』ではなく『実の兄弟』として話しがしたかったのだ。


 長屋を出た時は海華と二人、しかし帰りは一人きり……。

心の中にぽっかりと空いた穴は、底無しに深く、常闇のように暗い。

屋敷を出た時から、めっきり口数の少なくなった朱王。

俯きがちに歩く朱王をちらちら横目で見遣りながら、修一郎は一度咳払いをした。


 「朱王よ、お前これから一人で大丈夫か?」


 単刀直入な問いが、修一郎からこぼれる。

朱王の歩みが、ぴたりと止まった。


 「私は……一人ではありません人形が、ありますから」


 真っ直ぐに、目の前の闇を見詰める朱王の唇が微かに蠢く。

人形がある、その一言に、修一郎は小首を傾げた。


 「それは……仕事に打ち込むという意味か?」


 「いいえ。海華は、自分の人形を残していきました。これをあたしだと思って、と」


 独りで寂しくないように、これをあたしだと思って。

そう言って、海華は命より大切な人形を朱王に託していったのだ。それは即ち、傀儡廻しを辞める、という意味である。


 「あの人形には、私と海華の髪を植えてあります。私の代わりに海華を守ってくれと、最初で最後思いを込めてこしらえました」


 ふわりと吹いた春風が、黒髪を揺らす。

あの人形は自分自身、そして海華自身なのだ。


 「海華を守る役目は、志狼にゆだねました。私は……陰から二人を見守ることしか出来ません。これからは、あの人形と共に生きていきます」


 そうきっぱりと言い切って、朱王はゆっくりと修一郎へ顔を向ける。

澄んだ眼差しに迷いはなかった。


 「そうか……。嫁をめとるつもりは、ないのだな?」


 どこか困ったように笑う修一郎の問いに、朱王は同じ表情を作り、はい、と頷く。

それが、陰から妹を見守り

ながら、人形師として暮らす、それが彼にとっての幸せなのだろう。


 「私は独りが性にあっているようです。食事は……まぁ、なんとか頑張ります」


 照れ臭そうに笑う朱王の横顔が、清らかな月光に照らされる。

そう、海華の新たなる生活の始まりは、朱王にとっても新生活の幕開けなのだ。


 「あまり無理はするな、何かあれば、いつでも力になる」


 ぽん、と細い肩を強く叩き、修一郎が再び歩みを進める。

月光の薄明かりと、提灯の灯りに導かれ、黒羽織の二人が闇へ消えていく。


 その先に続くのは、期待と不安、そして希望に満ち溢れた新たなる道、人生の旅路。


 ── 定めの糸に導かれ、同じ血を分けた三人が、歩みを止める事はないのだ ──






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