第一章 時計塔から消えた青い星 その③ブルー・スター計画
「一度、ベルさんのところに戻らない?」
リズがそう言うと、ノアは意外そうな顔をした。
「灰色の人、追わなくていいの?」
「追っても、もうどこにいるか分からないし。それより私、気になってることがあるの」
「ベル爺?」
ネリーはすぐに察したらしい。
リズは頷いた。
「機械鳥の刻印を見たとき、ベルさん、ちょっと変だったよね」
それから、とノアを見る。
「ノアも」
「えっ。僕?」
「うん」
「そんな顔してた?」
「してた」
リズは、はっきり覚えている。
G.R.1831。
あの刻印を見た瞬間、ベルの手が止まった。そしてノアも一瞬だけ、いつもの楽しそうな顔を消した。
「私、この街に来たばかりだから、知らないことが多すぎるの。だから灰色の人を追いかけるより、まず知ってそうな人にちゃんと聞きたい」
「賛成」
ネリーが言った。
「私もベル爺には聞きたいことがある」
二対一。ノアは素直に両手を上げた。
「分かりました」
《真鍮の駒鳥亭》へ戻る頃には、街はすっかり夕暮れに染まっていた。
深緑の扉を開けると、昼間と同じ琥珀色の灯り。壁の時計たちは、それぞれ少しずつ違う音を立てて時を刻んでいる。つい数時間前に初めて入った店なのに、リズはなぜか少しだけほっとした。
「おや」
カウンターの向こうでベルが顔を上げる。
「思ったより早かったね」
「ベル爺!」
ノアが勢いよく駆け寄った。
「本当にあったよ!VIIの装置!」
ベルの表情が変わった。
「……装置?」
「石の下から出てきたの。《BLUE STAR OPTICAL SYSTEM No. VII》って書いてあって――」
「ノア」
ネリーが止める。
「まず順番に話しましょう」
「あ、はい」
三人はVIIで起きたこと、IIIの天使像、青い光、五時に現れた時計塔の星について話した。そして最後に、
「灰色のコートを着た人がいました」
リズが言った。
「駅にも、VIIにも、IIIにも」
ベルの眉がわずかに動く。
「知ってる人ですか?」
「いや」
「本当に?」
自分でも、少し踏み込みすぎたかと思った。今日会ったばかりの老人にする質問としては、ずいぶん遠慮がない。
けれどベルは怒らなかった。しばらくリズを見たあと、ふっと息を吐く。
「君はよく見ているね」
「……すみません」
「謝ることじゃない。むしろ、見られたくないなら私の方が上手く隠すべきだった」
ベルはカウンターを離れ、店の奥へ向かった。
「ついておいで」
案内されたのは、客席からは見えない小さな書斎だった。本棚の間に古い机があり、その上には真鍮のランプ。ベルは棚の一番下から、細長い木箱を取り出した。
ずいぶん長い間、大切にしまわれていたものらしい。蓋を開ける。
「……鳥」
リズが呟いた。
中に眠っていたのは、銀色の機械鳥だった。駅で拾ったものとよく似ている。ただし――両方の目がない。
「これ……」
「私の祖父のものだ」
ベルは機械鳥をそっと持ち上げる。
「アーサー・ベル。王立機巧研究所の技師だった」
ノアが小さく「あ」と声を漏らした。
リズはそちらを見る。
「だからノアも刻印を見たとき、反応したの?」
「前にベル爺の書類で、G.R.1831って印を見たことがあるんだ。鳥のことは知らなかったけど」
「そういうことだったんだ」
ひとつ引っかかっていたものが解けた。
ベルは古い椅子へ腰を下ろす。
「祖父は《ブルー・スター計画》に参加していた」
「何の計画だったんですか?」
「光だよ」
ベルは答えた。
「この街を光で繋ぐための仕組みだったらしい」
王立機巧研究所では、特殊な青色の光学ガラスと反射鏡を用いて、離れた場所へ光の信号を送る研究をしていた。
VII、III、XI。街の各所に設けられた装置を使い、青い光を受け渡す。
「じゃあ、あの数字はやっぱり装置の番号?」
「おそらくね」
「時計塔の青い星は?」
ネリーが尋ねる。
「計画が成功したことを知らせる合図だった、と祖父の記録にはある」
「じゃあ今日、計画が動いてるってこと?」
ノアの声が弾む。
「百年近く経ってるのに?」
「そこが私にも分からない」
ベルは首を振った。
「今のグレイヴェルは、当時とは街並みがまるで違う。君たちが見たように、昔なら通っていた光も今では建物に遮られている。完全な形で動くはずがないんだ」
それでも、星は光っている。しかも誰かが意図的に。
リズは灰色の青年が持っていた鏡と青いガラスを思い出した。
「ベルさん。『王の忘れ物』って何なんですか?」
「……それは、本当に知らない」
ベルは少しだけ寂しそうに笑った。
「祖父も、はっきりとは書き残していない」
机の引き出しから、一冊の古い革張りの日記を取り出す。ページは茶色く変色していた。
「ただ、これがある」
日付は1831年6月18日。ベルがゆっくり読み上げる。
――王は我々に、最後の品を託した。
――それを宝と呼ぶ者もいるだろう。
――だが我々にとって、それは未来への問いだ。
そこで一度、ベルは言葉を切った。そして最後の一文。
――三つの青が揃うとき、王の忘れ物は再び光を見る。
「三つの青……」
リズは自分の機械鳥を見る。青い目は一つ。
灰色の青年も、青いガラスを持っていた。
そしてベルの鳥は、両目がない。
「青いレンズが三つ必要ってこと?」
ノアが言った。
「可能性はあるけど」
ネリーは慎重だった。
「『三つの青』としか書いてないわ。三つのレンズとは書いてない」
「確かに」
リズも頷く。
その瞬間。
カチ。
「……また」
リズの機械鳥が動いた。青い目が淡く光る。そして壁に一つの文字を映し出した。
XI。
三人が顔を見合わせる。
「博物館」
ネリーが言った。
リズは壁の時計を見る。午後六時四十二分。
「博物館って何時まで?」
「七時!」
ノアが答える。
三人は黙って目を見合わせる。
「走る?」
「走ろう」
今度ばかりはネリーも止めなかった。
市立博物館へ到着したのは、午後六時五十五分だった。
「まだ……入れますか?」
息を切らして受付へ駆け込むと、係員が少し驚いた顔をした。
「あと五分だけですよ」
「ありがとうございます!」
ノアは元気だ。
リズは肩で息をしながら思う。
今日グレイヴェルに来たばかりなのに、どうして私は閉館五分前の博物館へ全力疾走しているんだろう。でも、ここまで来たら見るしかない。
向かったのは特別展示。
《失われた王都の機械技術》
展示室には古い計測器や歯車、星図、機械仕掛けの模型が並んでいた。そして最奥、
「XI」
リズは見つけた。巨大な真鍮の装置。
《王立天文観測所・反射式星辰観測器 1829年》
台座には、小さくXIと刻まれている。側面には、VIIやIIIで見たものと同じ丸い穴。
「これだ」
説明文を読む。
天体観測のために使用されたと考えられているが、通常の観測器とは異なり、観測者側から外部へ光を放つ機構を備えている。その用途は不明。
「星を見るだけじゃなくて、光を出す」
ネリーが呟く。
「ブルー・スター計画の装置だ」
「たぶんね」
その隣には、小さな展示ケースがあった。中に置かれているのは、三角形に欠けた深い青色のガラス。
《青色光学ガラス片 由来不明》
収蔵番号G-7-3-11。
「……VII、III、XI」
リズの心臓が早くなる。
「これが三つ目の青?」
ノアが囁く。
リズはガラスへ顔を近づけた。機械鳥の目とよく似た色。やっぱり、三つの青はレンズなのだろうか。
そのとき、展示ケースの表面に人影が映った。
リズは息を止める。
灰色の長いコート。少し離れた展示室の入口に立っている。
「……!」
勢いよく振り返るけれど、誰もいない。
「リズ?」
ネリーが怪訝そうに見る。
「今、いた」
「誰が?」
「灰色の人」
ノアも入口を見る。
「どこ?」
「そこ。ガラスに映ってたの」
三人で廊下へ出る。右。左。閉館間際の博物館は静かで、遠くに係員の足音が聞こえるだけ。姿はない。
「……やっぱり、つけられてる」
さっきよりも、その言葉が現実味を帯びる。自分たちが博物館へ来ると知っていた?それともずっと後を追ってきた?
リズは腕をさすった。怖い。でも、それ以上に分からない。
もし自分たちを止めたいのなら、なぜ「十一時に星を見ろ」なんて教えた?もし手伝いたいのなら、なぜ姿を隠す?
あの人は、一体何をさせたいんだろう。
「閉館です」
係員の声が聞こえた。考える時間はなかった。
外へ出ると、グレイヴェルはもう夜になっていた。街灯に火が入り、真鍮の金具が金色に光っている。昼間とは違う街のようだった。
三人は博物館前の階段へ座る。
「十一時まで、あと四時間くらい」
ノアが言った。
「ここで待つ?」
「四時間も?」
ネリーが呆れた顔をする。
「それに、ただ待ってればいいとも限らないでしょ」
「確かに……」
リズは振り返り、閉館した博物館を見る。中にはXIの装置がある。その隣には、機械鳥の目とよく似た青色の光学ガラス。
灰色の青年は言った。
――十一時に、星を見ろ。
「十一時って、夜だよね」
「そうね」
「VIIもIIIも、動かすには光が必要だった」
夕日を受けた青いガラス。鏡で導いた光。それがなければ、どちらの装置も動かなかった。
「じゃあXIも同じだとしたら……」
ノアも空を見上げた。
太陽はとっくに沈んでいる。月は出ているけれど、あの古い機械を動かせるほど強い光には見えない。
十一時に星を見ろ。なのに、十一時には太陽がない。
「変だね」
リズは呟いた。
「でも、あの人は十一時に何かが起こるって知ってるみたいだった」
「なら、夜でもXIを動かす方法がある?」
ネリーの言葉に、リズは今日見た街の景色を頭の中で辿っていく。
駅、時計塔、真鍮の円盤、市街地を走る蒸気管、街灯、博物館。
この街には、まだ自分の知らない仕組みがたくさんある。
そして十一時まで、あと四時間。
ただここで待つ?
ベルのところへ戻る?
それとも、夜でも光を作る方法を探す?
リズは膝の上の銀色の機械鳥を見つめた。
青い目が、街灯の光を受けてかすかに輝いている。
――さて、リズはどうする?




