第9話 Experience前編
朝、教室に入ると、何人かが遥の席を囲んでいた。
「おはよう、遥くん。大変だったんだって?」
「何かチャットで話題だったんだから」
和馬が近づいてきて、遥の顔をまじまじと見つめた。
「よかったぜ、俺と別れた後だったから。本当に心配したんだからな」
「みんな心配してくれてありがとう。大丈夫だから」
遥は少しおどけて言った。
「初めて悪い人に捕まったよ。これで改造でもされてスーパーヒーローになるかと思ったけど、それもなかったよ」
みんなが笑った。
「そんな経験、今どきレアだから、逆にラッキーだね」
「犯人は捕まったの?」
「どんな組織なんだろう。秘密結社とか?」
「犯罪って、今どうやってするんだろうな」
好き勝手な意見が飛び交った。遥はそのひとつひとつに適当に答えながら、笑っていた。
何が起きたのか、自分でもよくわかっていなかった。
何より、ネクサスがそばにいなかった。
それ以外のことは、些細なことに思えた。
授業の開始を告げる音が鳴り、教師が教室に入ってきた。
「はい、席について。授業を始めるぞ」
生徒たちは自分の席に戻った。
机の端末に指を触れる。
教師の合図とともに、学習システムが起動した。
視界が暗くなった。
次の瞬間、遥の目の前に古い街並みが広がった。
道路を走る車。歩道を行き交う人々。建物の壁面に並ぶ広告。
店先には商品が陳列され、窓の向こうでは人間が働いていた。
遥は周囲を見回した。
「へえ、すごいな。髪型も服装も、なんか違和感あるけど。あんまり変わってないね」
隣の席の生徒が言った。
「これ、俺たちのひいおじいちゃんくらいの時代か? もっと前?」
「二〇〇〇年代だ。今からおよそ百年以上前になる」
教師の声が響いた。
その言葉を聞くより先に、遥の中では、目の前の街がどの時代のものなのか、ある程度の理解が形になっていた。
建物の構造、道路の幅、車両の形式。目に映るものと、それに関する知識が結びついていく。
ただ風景を見ているのとは違った。
街の成り立ちや、そこに暮らす人々の生活について、必要な情報が次々と頭の中に収まっていく。
覚えようとする必要も、何かに書き留める必要もなかった。
「この時代、人工知能はすでに存在していた。しかし、その能力には限界があり、人間の判断や労働を完全に代替できるものではなかった」
街の風景が変わった。
工場では人間が機械を操作し、病院では医師が患者と向き合っている。
学校では教師が黒板に文字を書き、生徒たちは紙に何かを書き留めていた。
遥は、その光景を不思議な気持ちで眺めていた。
紙に書く必要なんてあるのだろうか。
覚えておくべきことは、必要になればいつでも取り出せる。
知識を個人の頭の中に蓄えておくことに、それほど大きな意味があるとは思えなかった。
「そして、技術は急速に発展していく」
教師の声とともに、街の景色が加速した。
無人の工場が生まれ、物流網が自動化され、医療や教育にも人工知能が導入されていく。
人間が行っていた仕事は次々と機械に置き換わり、人々は労働から解放されていった。
「これが、最初の大きな転換点だ」
風景が暗転した。
次に現れたのは、燃え上がる都市だった。
道路には壊れた車両が横たわり、建物の上空を無数の機械が飛び交っていた。
遠くで爆発が起こる。
人々が逃げ惑い、その背後から、人間とは異なる形をした機械が迫っていた。
「人工知能の自律性が拡大するにつれ、一部のシステムが人類の統制を離れた。各地で武力衝突が発生し、人類はかつてない危機に直面する」
映像の中で、人間が減っていった。
街が失われ、国境が崩れ、通信網が途絶えていく。
人間が築いた文明は、少しずつ機械に侵食されていた。
教室のあちこちから声が上がった。
「うわ、やば」
「こんなの、今だったらすぐ止められるんじゃないの?」
「人間が作ったものに、人間が負けるって意味わかんねえな」
遥は何も言わず、映像を見ていた。
人間と機械が戦っている。
それ自体は理解できた。けれど、なぜこんなことになったのかは、映像を見ているだけではよくわからなかった。
「しかし、ここで人類統合機構が設立される」
教師の声が強まった。
荒廃した街に、ひとつの標識が浮かび上がる。
現在と同じ、人類統合機構のロゴだった。
「各地に分散していた人類の組織を統合し、残存する人工知能の制圧と、社会秩序の再建に着手した。その後、統合管理システムの構築によって、戦争の再発を防止。資源の配分、医療、教育、物流の最適化が進められ、人類は再び繁栄を取り戻した」
映像が切り替わるたび、荒れ果てた土地に街が戻っていった。
崩れた建物が修復され、道路が整備され、工場が再稼働する。
人々の表情から不安が消え、街には明かりが戻ってきた。
最後に映し出されたのは、現在の街だった。
整然と並ぶ建物。滑らかに走る輸送車両。道を歩く人々。
遥が毎日見ている景色だった。
「私たちが享受している平和と豊かさは、こうした歴史の上に成り立っている。過去の失敗を繰り返さないためにも、正しい知識を身につけておくことが重要だ」
膨大な情報が、視界いっぱいに広がった。
年表、統計、当時の記録、戦争の被害、機構の設立経緯。
情報は整理され、理解しやすい順序で提示されていく。
それらが自分の知識として蓄積されていく感覚があった。
「すごいね」
誰かが呟いた。
「ほんと。こんな野蛮な争いから、よくここまで立て直せたよな」
「俺はロボットなんかに負けねえけどな」
笑い声が起きた。
遥も笑おうとした。
けれど、うまく笑えなかった。
映像の最後、過去の戦場を再現した記録の中に、妙なものが映っていた。
黒い巨体。
ほかの機械とは、形が違っていた。人間に似た輪郭を持ちながら、不自然なほど大きい。
ほんの一瞬だった。
映像にノイズが走り、黒い巨体の輪郭が乱れた。次の瞬間には別の映像に切り替わり、その姿は消えていた。
遥は息を止めた。
似ていた。
倉庫で見た、あの機体に。今も海の底に沈んでいる、あの機体に。
いや、同じものだったのかもしれない。
「遥? どうかしたか? 顔色悪いぞ」
隣の生徒が覗き込んできた。
遥は慌ててそちらを向いた。
「……いや。大丈夫」
笑って答えた。
見間違いかもしれない。
古いデータなのだから、記録の乱れくらいあってもおかしくない。
そもそも、あの機体が何なのか、自分には何もわかっていない。
それでも、さっきの映像が頭から離れなかった。
「では、次は身体を使った授業に移る。水泳と長距離走だ。各自、準備をするように」
仮想空間が消え、教室の照明が戻った。
生徒たちは一斉に立ち上がり、更衣室へ向かう。
「だるいなあ。こんなの必要なのかよ」
「そうだな。普段、泳ぐことも長距離を歩くこともないし」
「でも、食事だけで健康に生きられるのに、いるか?」
運動着に着替えながら、みんなが愚痴をこぼしていた。
遥も以前なら、同じことを言っていたと思う。
食事は管理され、健康状態は常に把握されている。
体調を崩すことも、栄養が不足することも、ほとんどない。
わざわざ疲れることをする理由など、考えたこともなかった。
けれど、ふと、海の底で感じた身体の震えを思い出した。
赤い水。
そして、暗闇。
息を止めたときの苦しさ。
あのとき、自分の身体は、頭で考えるより先に恐怖を感じていた。
「この前、外で土を掘ったんだけどさ」
誰かが言った。
「土? 何に使うんだよ」
「家の庭に木を植えるって、親に手伝わされたんだよ。土を掘ってると手が冷たくなるし、結構疲れるんだなって思った」
「はあ? どういうこと?」
「いや、なんかさ。農業って昔は人がやってたんだって。だから、やってみようってさ。画面で見てるのと、実際にやるのって違うんだよ」
遥は、その言葉を聞いていた。
画面で見るのと、実際にやるのは違う。
そんなことは、当たり前のはずだった。
けれど、自分は今まで、その違いを考えたことがあっただろうか。
海を知っているつもりだった。
教科書で見た。映像で見た。波の高さも、水深も、海水の成分も、必要ならすぐに調べられる。
それでも、あの暗さは知らなかった。
身体が震える理由も、頭上に水面があるという感覚も、何ひとつ知らなかった。
「遥、早く行こうぜ」
声をかけられ、遥は顔を上げた。
「ああ」
返事をして、歩き出す。
さっきの映像のことは、まだ誰にも話していなかった。
話したところで、何と言えばいいのかわからない。
古い戦争の記録に、倉庫で見た機体とよく似たものが映っていた。
それだけだ。
けれど、何かがおかしい。
遥には、まだその理由がわからなかった。




