第8話 Nexus's Grave
目を開けると、外だった。
空が見えた。
薄い雲が流れている。波の音が聞こえた。身体の下には砂があり、服は濡れて重くなっていた。
遥はしばらく、そのまま動かなかった。
何が起きたのか、すぐには思い出せなかった。頭の奥が鈍く痛む。
銃声と、暗闇の中で響いていた低い音が、途切れ途切れに蘇った。
ネクサス。
そう思って、遥は身体を起こした。
起き上がろうとすると、全身が痛んだ。
腕に力を入れ、砂に手をつく。掌には、乾きかけた血がこびりついていた。
その手の中に、黒い羽根が一本あった。
「……ネクサス」
声に出した途端、胸の奥が詰まった。
腕の中にいたはずだった。あの倉庫で撃たれ、動かなくなっても抱きしめていた。
機体の中に飛び込んだときも、確かに手の中にあった。
なのに、今はこれしかない。
周囲には、見覚えのない岩場が広がっていた。
海岸の先には木々が茂り、その向こうに、崩れかけた建物の影が見えた。
それは現代とは違う古い遺跡のような作りの建物だった。
街の明かりは見当たらなかった。
「あれは昔の高層ビルかな。とんでもないところに来てしまってるな」
遥は立ち上がり、海岸を歩いた。
岩の隙間を覗き、砂の上を探し、打ち上げられたものがないか確かめた。
何度も同じ場所を歩いた。
どこにもいなかった。
ネクサスの姿も、ほかの羽根も見つからなかった。
手の血を見た。
夢だったのなら、こんなものは残らない。
遥は海岸の端にある木の根元へ向かった。
近くに落ちていた平たい石を拾い、土を掘った。思ったより固く、石の先が何度も弾かれた。指先に土が入り込んでも、やめなかった。
ようやく羽根が入るほどの穴ができた。
「昔はこうやって弔ったって、どこかで見たんだ。……これで合ってるのかな。知らんけど」
返事をするものはいなかった。
遥は掌の羽根を見つめた。
「ごめんな」
羽根を穴に入れ、土を戻した。上から小石を置く。
墓と呼ぶには、あまりにも小さかった。
それでも、何もないままにはできなかった。
「ネクサス」
もう一度、名前を呼んだ。
返事はなかった。
遥はしばらく、その場に立っていた。
やがて、海へ目を向けた。
人は海に近づかない。呪われた場所だと教えられてきたが、何があるのかを遥は知らなかった。誰も海について語ろうとはしなかったし、遥自身、疑問に思ったこともなかった。
あの機体が海へ潜るまでは。
逃げるために、ただそれだけの理由で。
あの機体は、海に何があるのかも知らずに潜っていった。
遥は海岸へ戻り、岩に腰を下ろした。街へ帰る方法を考えようとしたが、何も思い浮かばなかった。
濡れた服が肌に張りついていた。風が吹くたび、身体が冷えた。
波の音だけが続いていた。
どれくらいそうしていたのか、低い駆動音が聞こえた。
遥は音のする方へと海岸を歩き始めた。
岩場を回り込んだ先に、小さな入り江があった。
波の穏やかな水面の下に、黒い影が見えた。
最初は岩だと思った。
しかし、近づくにつれて見覚えのある輪郭が浮かび上がってきた。
黒い装甲。大きな肩。人間とは違う、滑らかに連なる外殻。
古代機体だった。
巨体は浅瀬の岩に身を預けるようにして、半ば水に沈んでいた。
赤い目は消え、装甲のあちこちに傷があった。肩の一部は大きく欠けている。
「おい……聞こえるか?」
返事はなかった。
機体の頭部に触れようとすると、装甲の一部がわずかに開いた。
内部に小さな光が灯る。
《そんしょう:おおい》
《しゅうふく:ちゅう》
「生きてるのか?」
少し間があった。
「……いる」
機体の声だった。
遥は大きく息を吐いた。
「よかった……」
機体の頭部を見上げた。
「ここにいたら、見つかるかもしれない。この海岸から離れた場所。できるだけ海の中の深いところにいて、誰にも見つからないように」
機体は黙っていた。
「僕が呼んだら、来てほしい」
少し考えてから、遥は尋ねた。
「……来れる?」
「これる」
「じゃあ、そうしてくれ」
「わかった」
赤い目が一度だけ淡く光った。
機体はゆっくりと身体を動かし、浅瀬から離れた。
黒い装甲が水の中へ沈んでいく。
最後に赤い目が水面の下で光り、それも見えなくなった。
遥は海を見つめた。
帰らなければならない。
濡れた服のまま島の内側へ向かうと、木々の間に古びた設備の跡があった。
崩れかけた建物と、色あせた黄金の金属の柱。
何に使われていたのかはわからない。
携帯端末は壊れていた。画面はつかず、通信もできない。
ここがどこなのかさえ、わからなかった。
黒い機体が沈んだあと、海岸には波の音だけが残った。
遥は濡れた服を抱えるようにして、岩に腰を下ろした。
街へ帰らなければならない。
けれど、どこへ向かえばいいのかさえ分からなかった。
どれくらいそうしていたのか、低い駆動音が聞こえた。
低い駆動音が、先ほどよりも近くから聞こえた。
遥が顔を上げると、黒い機体が水面から姿を現していた。
遥が何かを言うより先に、機体の胸部が開いた。
「のる」
「……乗れってこと?」
「そう」
手を地面に下げる。
遥を手に載せて、胸の前まで持ち上げた。
遥はそのまま乗り込んだ。
遥は海岸を振り返った。木の根元には、小さな墓がある。
もう一度、そこへ戻りたかった。
けれど、今は帰ることが先だった。
遥は機体の内部へ入った。
座席に腰を下ろすと、目の前に淡い光が灯った。
《きどう:かいし》
《そんしょう:おおい》
《ひこう:せいげん》
「お前も、飛べるのか?」
機体の内部に、電子音混じりの低い響きが重なる。
《し……らん……けど》
過去に遥が呟いた音声の断片を、機体の出力器官が無理やり組み立てたような声だった。
それを聞いた瞬間、遥は思わず笑いそうになり、そしてなぜか胸の奥が締め付けられた。
(……あいつが、よく言ってた言葉だ)
機体は水面を滑るように進み始めた。海岸線から離れず、水面すれすれを走る。時折、黒い巨体が海中へ沈み、しばらくして再び浮かび上がった。
遠くへ高く飛ぶことはしなかった。
人類統合機構に見つからないためだ。そう考えたのは遥だった。機体が同じことを考えているのかはわからない。
「大丈夫か?」
「……わからない」
「じゃあ、無理するなよ」
「むり……?」
「いや、なんでもない」
機体は黙った。
やがて、見覚えのある街の明かりが見えてきた。
「この先で降ろしてくれ。人に見つからないところがいい」
「わかった」
機体は海岸から離れた荒地へ向かい、短い距離だけ飛んで着地した。脚部が地面に触れた瞬間、鈍い音が響く。
遥は座席から降りた。
「ありがとう」
機体は少しだけ頭部を動かした。
「……また、よぶ」
「うん。呼んだら来てほしい」
「これる」
遥はうなずいた。
機体は再び海へ向かい、水面の下へ沈んでいった。
遥はその姿を見送ってから、街へ向かって歩き始めた。
家に着いたのは、夜が明ける少し前だった。
玄関の扉を開けると、母親が飛び出してきた。
「遥!」
母親は駆け寄り、遥の肩をつかんだ。顔を確かめ、腕をつかみ、怪我がないか何度も確かめる。
「どこに行ってたの……! 何度電話したと思ってるの!」
声が震えていた。
奥から父親も駆けてきた。顔は青ざめ、目の下には濃い隈ができていた。
「警察にも連絡したんだぞ。捜索願も出した。いったい何があったんだ」
遥は答えられなかった。
母親は泣いていた。父親は怒っているように見えたが、その手も震えていた。
「……ごめん」
「ごめんじゃわからないでしょう!」
母親の声が、玄関に響いた。
遥はうつむいた。
海側へ向かう途中、何者かに襲われたこと。気がついたら街の外で倒れていたこと。途中の記憶がないこと。
それだけを話した。
父親は何度も質問したが、遥は答えられなかった。母親は泣きながら、もう一度遥を抱きしめた。
「帰ってきてくれてよかった……本当に」
遥はゆっくりと手を回し、母親の背中に触れた。
その温もりは確かに自分の知る「日常」のものだった。だが、どれほど強く抱きしめ返されても、自分の体がすでに別の場所に残されてしまったような感覚が消えない。
自室に戻り、一人ベッドの縁に腰を下ろす。
洗面台で何度洗っても落ちきらなかった、爪の隙間の乾いた血。
手のひらには、乾いた血の跡が残っていた。
ネクサスの羽根を埋めた小さな墓のことを思った。
海の中には、あの黒い機体がいる。
窓の外を見上げれば、見慣れた空の下、どこまでも広がる静かな街並みがある。
だがその遠く深い海の底には、今もあの黒い巨人が、赤い目を開けたまま自分を待っているのだ。
遥は目を閉じた。
もう一度、名前を呼びたくなった。
けれど、声には出さなかった。




