第10話 Experience後編
昼休み。
この学生生活、いや、この社会は、すべてが整っていた。
朝七時に起き、三十分で身支度を済ませる。
シャワーも食事も自動化され、学校までは自動タクシーが送り届けてくれる。
八時に登校し、人類統合機構への祈りを一時間。
その後は定められたカリキュラムを受け、十三時になると昼食の時間がやってくる。
「おー、今日は八十年前の牛肉味だ」
「俺はこのミルクケーキ味にしてみようかな」
「なんだこれ、レッドペッパー味?」
生徒たちは、それぞれ手元の食事を選んでいた。
食事は、飲み物のような液体と、スティック状の固形物の二種類に限られている。
必要な栄養素も摂取量も計算済みで、食事によって健康を損なう心配はない。
何を食べるかは選べる。けれど、選べるものは決まっていた。
「昔の人って、家畜を育てて食べてたらしいぜ」
「えー、そんなかわいそうなことできないわ」
「動物を飼ったりもしてたんだってさ」
「植物以外を飼育するなんて、大変じゃない?」
昔の雑誌や写真には、そうした暮らしの記録が残っているらしい。
遥は、その話を聞いてネクサスを思い出した。
飼育。
そうじゃない。
ネクサスは親友だった。家族同然の存在だった。
遥は一度も、あのカラスを飼っていると思ったことはなかった。
「遥、次の文化祭の出し物だけどさ」
和馬が牛肉味のドリンクを飲みながら話しかけてきた。
「なんだっけ。レトロ喫茶でドリンクを出したいんだっけ」
遥が答えると、和馬は嬉しそうに笑った。
「そう。それでコーヒー味ってのを見つけたから、それでいこうと思ってる」
「コーヒーって、昔の飲み物だっけ」
「そうそう。しかも、あれらしいぞ。メイドっていう、決まった服装で給仕するのが古の伝統だったんだってさ」
メイド。給仕ということか。
遥は、過去の画面で見た古い衣服を思い浮かべた。
あのスーツと言われてたようなものを着るのだろうか。
「答えはノーだ。女の子が着る専用装備らしいぞ」
「どこでそんな情報を仕入れたんだよ」
「人類統合機構の検閲をクリアした幻のゲームに出てくるんだよ。で、調べたら本当だったって話」
その情熱は、いったいどこから来るのだろう。
「だからさ、いい子がいるんだ!クラスDに、その子に頼もうぜ。メイド服、絶対似合うと思うんだよ」
周囲の空気が変わった。
「和馬くん……それはさすがにひどいわ」
「やめてあげなよ」
何人かが声を上げた。
「和馬……それ、本人に聞かれたらどうするんだよ」
遥も呆れたように言った。
「違う! 違うって! 単純に、見た目がめっちゃかわいい子がいるんだよ!」
予想外の反応だったのか、和馬は慌てて言い直した。
女子たちの表情が、さらに険しくなった。
「見た目なんて、医療で変えられるのに」
「逆に、見た目がよければクラスDでもいいんだ……」
「和馬……お前、バカだな」
遥がそう言うと、和馬は顔を赤くして、ぷるぷると震えた。
「くそー! いいじゃねえか! ほっとけ! ほら、遥、声かけに行くぞ!」
「え、今? しかも本気なの?」
「当たり前だ! 名前はもう調べたから、ついてきてくれ!」
和馬に腕を引かれ、遥は教室を飛び出した。
昼休みは、残り十分しかなかった。
「申し訳ありませんが、お断りします」
少女は少しだけ頭を下げた。
長い髪が肩から滑り落ちる。背筋はまっすぐに伸び、その表情には乱れがなかった。
和馬と遥を見つめる瞳は、澄んだ青色をしていた。
「ダメかな? めっちゃ似合うと思うし、決まった仕事をやらされるより、絶対……」
「いえ。私だけがクラスSの方と一緒に楽をするわけにはいきませんから」
少女は微笑んだ。
和馬が言葉に詰まった。
「神代さん、ごめん。和馬が急にこんなこと言って。もう諦めよう」
遥は和馬の腕を引いた。
「分かった。でも、来週までは待つから! 気が変わったら教えてくれ。学内チャットの申請は遥のほうに出しておくから、遥に言ってくれたらいい!」
「え、ぼく?」
返事を待たず、和馬はその場を去っていった。
「神代さん、重ね重ねごめんね」
「いえ。お二人は……いい人ですね」
「え、そう?」
「クラスSの方が、クラスDの私に話しかけてくださること自体、珍しいんです。それなのに、命令ではなく、お願いまでしてくださるなんて」
神代は驚いたような顔をしていた。
その青い瞳を、遥はなぜか覚えていた。
「改めて、お断りのご連絡をいたします。どうかお許しください。それでは、失礼します」
そう言って、神代みおんも去っていった。
放課後。
十六時から始まる最後の祈りは、三十分で正確に終わる。
その後の一時間は、いくつかのカリキュラムや自主研究、スポーツなどから選択して過ごし、帰宅する。
平日は十九時までに自宅に戻らなければならない。
遥は図書館で歴史研究をすることにした。選択した内容を端末に入力すると、すぐに許可IDが付与された。
図書館の扉を開けると、見たことのない数人の男女がいた。
壁には数十台のモニターが並び、その前に机と椅子が整然と置かれている。
遥は空いている席に座り、授業でも使っている端末を頭に装着した。
脳内にだけ届く音声が問いかけてくる。
『接続して仮想空間へログインしますか?』
「いや、データの閲覧だけでいい。僕の権限で、ここでしか調べられないものを基準に検索して」
『該当するデータは五件あります。ただし、検閲ランクが不足しています』
「それ以外で表示できる、最も古いデータは?」
『検索結果は表示できません』
「検索結果を表示できない? なんだそれ……。何なら見られるんだ? 文字だけとか?」
『他にご希望はありますか?』
違和感が残った。
こうなったら、キーワードを片っ端から試すしかないか。
「カラス、ロボット、月、海……なんだっけ」
『表示できません』
「……メイド?」
『該当するデータが一件あります。表示しますか?』
「本気?」
遥は周囲を見渡した。誰もこちらを気にしていない。
脳内音声を切り、脳内チャット機能に切り替える。
なになに。メイド。
それは、はるか昔、ご主人様に仕える給仕の女性が身につけていた衣装。
特殊な装飾や、決められた仕草、専用の台詞まで存在していたらしい。
「津那木さん」
びくっとして、脳内チャットの接続まで切ってしまった。
勢いよく振り返ると、驚いた顔をした神代さんが立っていた。
「申し訳ありません。驚かせてしまいました」
「こちらこそごめん。ちょっと集中していて」
「こちらでお見かけするのは初めてですね。クラスSの方が来られるのも、本当に珍しいです」
「あ、そうなんだ。確かに初めて来たかも。神代さんはよく来るの?」
そう尋ねると、神代さんは小さく笑った。
「私たちクラスDは、利用できる情報にいろいろと制限がありますから。こうして図書館で調べるしかないんです」
確かに、今使ってみても、自宅で調べられるものと大して変わらない気がしていた。
知らなかった。
「僕はもう使わないから、席を譲ろうか」
そう言って立ち上がった。
けれど、周りには空いている席がいくつもあった。
「いえ、そういうことではなくて……」
遥はきょとんとして神代さんを見た。
神代さんは一度、周囲に目を向けた。
それから、誰にも見えないように遥の手を取った。
柔らかく、しなやかな手の感触が伝わる。
「え」
「あなたなら、わかってくれると信じています」
そう言って、神代さんは手を離した。
そのまま振り返ることなく、出口へ向かって歩いていく。
遥の手の中には、小さな紙片が残されていた。
指先に触れる紙はさらさらとしていた。
初めて触れるその感触と、手のひらに残る彼女の温度が、しばらく消えなかった。




