第6話 voice前編
赤い光が、暗闇の中で揺れていた。
規則的な音が聞こえる。耳障りな音だった。
遥は目を開けた。
目の前に、見慣れない文字が浮かんでいた。
《きどうを かいしします》
《しんごうを かくにん》
《ちゅうすう:ふめい》
文字は一度消え、また現れた。
《あんぜん:ふめい》
何が安全なのかも、何が不明なのかもわからなかった。
遥は身体を起こそうとした。すぐには動けなかった。
身体がどこにあり、どちらを向いているのかさえ、うまく把握できない。
硬い座席。目の前に広がる暗い空間。頭上を走る細い光。
そして、少し離れたところで点滅する赤い表示。
ここは、あの巨大な機体の中だった。
倉庫の床に埋まっていた、黒い巨人。
ネクサスを抱えたまま、その内部へ飛び込んだことを思い出した。
「ネクサス……?」
返事はなかった。
遥は腕の中を見た。
何もない。
そこにあるはずの小さな身体も、羽根も、温もりもなかった。
「ネクサス……っ!」
声が裏返った。
座席の隙間を覗き込み、足元を探した。
手で床をなぞり、狭い場所に入り込んでいないか確かめた。
黒い羽根ひとつ、見つからなかった。
さっきまで、確かに抱いていた。
腕に重さがあった。羽根が頬に触れた。
身体の温もりが、服越しに伝わっていた。
その感触だけが、まだ腕に残っている。
「ネクサス。どこだよ……」
何度呼んでも、返事はなかった。
遥はしばらく、空になった腕を見つめていた。
ついさっきまで、そこにいた。
いなくなるはずがなかった。
何が起きたのか、考えようとしても、頭の中がうまく動かなかった。
呼べば戻ってくるような気がして、もう一度名前を呼んだ。
返事はなかった。
やがて、壁面の一部が淡く光った。
《せいめいを けんしゅつ》
《おとを きろく》
《なかみの さいこうせいを かいし》
遥は表示を見ていなかった。
うつむいたまま、空になった腕を握りしめていた。
どれほどそうしていたのか、わからない。
不意に、機体全体が揺れた。
外から、鈍い衝撃が響いた。続いて、何かが擦れる音がする。
遥は顔を上げた。
外で誰かが動いている。
倉庫で見た、人間のような形をした機械。
人類統合機構の無人機だ。
逃げなければ。
そう思った瞬間、目の前に新しい表示が浮かんだ。
《そとぶ:せっぞく》
《きどう:ふのう》
「どういうことだよ……」
返事はなかった。
座席の前に、薄い光の板が現れた。
触れると、いくつもの表示が浮かび上がる。
意味のわからない記号が並び、その大半は暗く沈んでいた。
遥は手当たり次第に触れた。
何も起こらない。
「動けよ……!」
もう一度、強く押した。
機体の奥で、低い振動が起こった。
壁面の光が一斉に点灯する。
《きどうを かいし》
《しせい:ふあんてい》
《そんしょう:おおい》
座席が大きく傾いた。
遥はシートにしがみついた。
何かが動いている。
自分が動かしているのか、それとも機体が勝手に動いているのかもわからなかった。
次の瞬間、機体の頭部が持ち上がった。
倉庫の外壁が崩れ、瓦礫が降り注いだ。
眩しい光が差し込む。
その向こうに、人型の無人機が立っていた。
人間と変わらない背丈。滑らかな外装。
顔に見える部分には表情がなく、胸元には人類統合機構の識別標識が刻まれている。
その後ろから、さらに数体が現れた。
無人機の腕が上がる。
銃口が、こちらを向いた。
「撃つな!」
遥の声は届かなかった。
閃光が走った。
衝撃が機体を襲い、操縦席が激しく揺れた。
身体が座席から浮き、背中を叩きつけられる。
息が詰まった。
表示が赤く染まる。
《そんしょう:かくだい》
《うごける じかん:ふめい》
機体が片腕を上げた。
それが防御のためだったのか、攻撃しようとしたのか、遥にはわからなかった。
ただ、その動きは遅かった。
無人機の攻撃が続く。
黒い装甲に火花が散った。
機体はよろめき、倉庫の柱に肩をぶつけた。
柱が折れ、天井の一部が崩れ落ちる。
「やめろ……!」
遥は叫んだ。
何をやめてほしいのか、自分でもわからなかった。
撃つのをやめてほしいのか。
この機体を壊さないでほしいのか。
それとも、もう何も失いたくないのか。
機体が一歩、前に出た。
足元のコンクリートが砕けた。
もう一歩。
動くたびに、全身から異音が響いた。
それでも、機体は倒れなかった。
倉庫の奥から、さらに大きな影が現れた。
三メートルを超える中型人型無人機だった。
人間に似せた輪郭を持ちながら、肩や腕には厚い装甲が重なっている。
片腕には大型の銃器が取り付けられ、もう片方の腕は盾のような形をしていた。
その背後には、まだ複数の無人機がいる。
数が違いすぎた。
機体が腕を振るった。
黒い拳が中型機の肩を捉える。鈍い音が響き、中型機が後退した。
だが、古代機体の腕は、振り切った位置で止まらなかった。
重心を戻せず、上半身が大きく傾く。
次の攻撃を避ける余裕もない。
中型機はすぐに体勢を立て直し、反撃してきた。
衝撃で古代機体の身体が傾いた。
腕の装甲が弾け飛び、黒い破片が床に散らばった。
遥は息を呑んだ。
もっと強いと思っていた。
あれほど巨大な機体なら、目の前の無人機など簡単に押し潰せるのではないかと思っていた。
しかし、実際には違った。
動きはぎこちなく、攻撃を避けることさえ満足にできない。
何かしようとするたびに、身体のどこかが遅れてついてくる。
生まれたばかりの生き物が、自分の手足の使い方を知らないまま立ち上がろうとしている。
そんなふうに見えた。
そのとき、外から声が聞こえた。
「こっちだ! 急げ!」
後藤だった。
崩れた壁の向こうで、数人の人影が走っていた。
負傷した者を支えながら、倉庫の裏手へ向かっている。
後藤もこちらを振り返った。
一瞬だけ、視線が合った気がした。
何かを叫ぼうとした。だが、声は銃声にかき消された。
後藤たちはそのまま走り去った。
彼らを追う無人機もいたが、古代機体が立ち上がったことで、周囲の警戒が乱れていた。
何体かは目標を見失い、互いに進路を譲るような不自然な動きを見せた。
後藤たちは、その隙に倉庫の陰へ消えた。
遥は彼らを見送った。
助かったのかどうかはわからない。
自分も、ここから逃げなければならない。
「逃げよう」
機体に向かって言った。
「ここから、逃げてくれ」
返事はなかった。
しかし、機体は動いた。
片足を引きずりながら、崩れた壁へ向かって歩き始める。
無人機が追ってきた。
銃弾が装甲を叩き、火花が散る。
機体は何度もつまずきながら、瓦礫を踏み越えた。
外へ出た瞬間、夜風が吹き込んだ。
目の前に、海が広がっていた。
遥は立ち尽くした。
映像で見たことはある。
教科書にも載っていた。
けれど、実際の海は、知っているものとは違っていた。
暗い水面が、どこまでも続いている。
月の光が波に砕け、寄せては返す水の音だけが聞こえた。
海岸に人の姿はなかった。
背後から、駆動音が近づいてくる。
機体が振り返ろうとした。しかし、脚部がうまく動かず、巨体が大きく傾いた。
片膝をつき、地面を砕く。
遥は座席の縁を握りしめた。
「もういい。逃げてくれ」
機体は動かなかった。
「ここにいたら、壊されるんだろ……?」
答えを求めたわけではなかった。
ただ、何か言わずにはいられなかった。
視界の端に、文字が浮かんだ。
《にげる》
その下に、しばらくして別の文字が現れる。
《ほうほう:ふめい》
遥は思わず笑いそうになった。
逃げる方法がわからない。
そんなことまで、自分と同じだった。
背後で閃光が走った。
機体の背中に衝撃が叩きつけられた。
座席が跳ね上がり、遥の身体が大きく揺れる。
《そんしょう:じゅうだい》
《きどう:せいげん》
機体が立ち上がった。
ゆっくりと、海のほうへ向き直る。
「……海に行くのか?」
返事はなかった。
機体は一歩、前へ出た。
その動きは、先ほどまでとは少し違っていた。
足元を確かめるように、重心を移しながら進んでいく。
追撃の光が、背後から迫った。
機体が前傾した。
次の瞬間、巨体が宙に浮いた。
低い唸りが響き、機体は海岸から飛び立った。




