第5話 Chain後編
そのとき、頭上を黒い影が横切った。
「ネクサス!」
カラスは倉庫の壁から飛び立ち、遥の方へ向かってきた。
羽ばたきがいつもより乱れている。
すぐ後ろには、小型の追跡機が浮かんでいた。
人の頭ほどの大きさで、機体の下面に複数のセンサーを備えている。
赤い光が地面を走り、遥の胸元で止まった。
遥は一瞬、何が起きているのかわからなかった。
追跡機の下部が開いた。
短い銃声が響いた。
ネクサスの体が空中で不自然に傾いた。
黒い羽が散った。落ちてくる影を見て、遥は反射的に両手を伸ばした。
受け止めた衝撃で、膝が地面にぶつかった。
「ネクサス……?」
カラスは鳴かなかった。小さな胸がわずかに上下している。
羽の下に、赤い染みが広がっていた。
遥は両手で包み、傷口を押さえようとした。
どこを押さえればいいのかもわからない。
指先が血に濡れた。
「おい。おい、頼むから」
ネクサスの首がわずかに動いた。
いつもなら、名前を呼べば首を傾げる。
指先を差し出せば、嘴を寄せてくる。
何度教えても、うまく真似できなかった言葉がある。
今は、何も返ってこなかった。
追跡機の駆動音が近づく。
遥の背後で、再び砲声が鳴った。壁が砕け、破片が足元を跳ねた。
遥はネクサスを抱きしめたまま、地下の開口部へ飛び込んだ。
足場のない斜面を滑り落ち、床に叩きつけられた。
息が詰まる。腕の中のネクサスは、ぴくりとも動かなかった。
目の目に、巨大な機体の胸部があった。
近くで見ると、装甲の表面には文字とも模様ともつかない刻印が走っていた。
継ぎ目に見えた部分は、細い溝が何層にも重なったものだった。
光がないのに、表面の奥で何かが流れているように見えた。
胸部の下寄りに、周囲の装甲とは異なる形の板が埋め込まれていた。
人間の背丈ほどもあるその板には、取っ手も、継ぎ目らしい隙間も見当たらない。ただ、中央に手のひらほどの窪みがあった。
上から破片が落ちた。
追跡機が開口部を狙っている。
ここにいれば、次の一撃で終わる。
遥は立ち上がろうとした。
足が震えて、うまく力が入らない。
ネクサスを抱え直す。血に濡れた羽が腕に貼りついた。
指先から滴った血が、装甲の表面に落ちた。
何も起きなかった。
遥は、もう一度ネクサスを抱きしめた。
逃げなければならない。
そう思っても、どこへ行けばいいのかわからなかった。
ふと、空いた手が装甲に触れた。
血のついた掌が、窪みを覆う。
その瞬間、指先にかすかな振動が伝わった。
装甲の奥で、何かが動いた。
窪みの周囲に青白い線が走り、胸部の下寄りに埋め込まれていた板が、低い音とともに内側へ沈んだ。
続いて、その上の装甲が左右に分かれ、暗い空間が口を開けた。
人ひとりが身をかがめれば、どうにか通れるほどの入口だった。
遥は息を呑んだ。
機体が自分に反応したのか。それとも、偶然なのか。
考える時間はなかった。
頭上で爆音が響き、崩れた床から新たな破片が降ってきた。
遥はネクサスを胸に抱え、開いた入口へ飛び込んだ。
内部は外から想像したよりも広かった。
奥には人ひとりが腰を下ろせる座席のような窪みがあり、その周囲を、文字とも模様ともつかない刻印が取り囲んでいた。
操縦桿も、見慣れた画面もない。
ただ、正面の壁面だけが滑らかに湾曲し、両手を置けそうな平らな部分が左右に伸びていた。
遥は座席に身体を滑り込ませ、ネクサスを膝の上に横たえた。
片手で傷口を押さえる。
「ネクサス……」
返事はなかった。
遥は、濡れた羽を指でそっと撫でた。
「帰ろう」
その声は、狭い空間に吸い込まれた。
しばらく、何も起きなかった。
やがて、壁面の一部が淡く光った。
刻印の線が、ひとつずつ青白く浮かび上がる。
光は胸部の奥へ流れ、遥の座っている場所を通り過ぎていった。
目の面に、読めない文字が浮かんだ。
≪Core OS: Disconnected≫
≪Activation Conditions: Unmet≫
遥には意味がわからなかった。
けれど、機体が眠ったままなのだということだけは伝わってきた。
外で、金属が砕ける音がした。
遥はネクサスの頭を撫でた。いつもなら、指先に嘴を寄せてくる。名前を呼べば、首を傾ける。
「……ネクサス」
声が掠れた。
「帰ろう」
今度は、壁の奥でかすかな振動が起きた。
光が一度、消えた。
次の瞬間、刻印の線が一斉に明滅した。
遥には読めない文字列が壁面を流れていく。
いくつもの記号が重なり、ほどけ、また別の形へと組み直されていった。
《生体情報を検出》
《音声パターンを取得》
《中核パターンの再構築を開始します》
遥は表示を見ていなかった。
ネクサスの身体を両手で包み、ただ名前を呼んでいた。
機体の奥で、何かが音もなく動いた。
それは、目覚めたというより、長い眠りの底から、ようやく自分の形を探し始めたようだった。
暗闇の奥で、何千年も閉じられていた機体の目が、ひとつ、赤く灯った。




