第3話 Reflect 後編
ネクサスは海が好きだった。
少なくとも、遥にはそう見えた。
まだ小学生だった頃、遥は雨の降る歩道の端で、翼を傷めたカラスを見つけた。
近づくと逃げようとしたが、飛び立てずに転んだ。
遥は家に連れ帰り、家族と相談して治療を受けさせた。
この時代、家庭で動物を飼育することは原則として禁止されていた。
生態系への影響や感染症を防ぐため、家庭で飼育できるのは認可されたロボットのペットに限られている。
本物の動物と暮らすという習慣は、遥にとっても昔の映像や資料で見るものだった。
だから、カラスを保護したときも、飼うつもりはなかった。
翼が治れば、野生に戻す。
それだけのつもりだった。
だが、カラスは回復してからも、何度か庭へ戻ってきた。物干し台にとまり、窓辺を覗き込み、遥の声を聞くと頭を傾けた。
遥が餌を置いても、必ず食べるとは限らない。気に入らなければ器をひっくり返すし、気が向かなければ何日も姿を見せない。
家族も、最初のうちは野生へ戻すべきだと言っていた。
けれど、カラスは誰かに飼われているわけではない。
家の中に閉じ込められることもなく、首輪をつけられることもない。
自分の意思で現れ、自分の意思で飛び去っていく。
いつしか家族も、庭へやってくるその黒い影を、特別なものとして受け入れるようになった。
遥はそのカラスに、ネクサスと名づけた。
名前を呼ぶと、首を傾げるその黒い影に、ふと口をついて出た響きだった。深い理由などなかった。
ネクサスは人間の言葉を話すわけではない。けれど、繰り返し聞いた音をまねることがあった。名前を呼べば顔を向ける。
手を差し出すと、機嫌がいい日には指先へ嘴を寄せる。
遥が海へ行くと、いつの間にか先回りして護岸の上にいることもあった。
今日もそうだった。
遥が歩道の終わりに差しかかると、監視灯のついた照明柱に黒い影がと마っていた。
「遅い」
しゃがれた声がした。
ネクサスだった。
正確には、ネクサスが発した音は、ただの鳴き声に近い。けれど、何度も聞いた遥には、そう聞こえた。
以前、自分が言った言葉を覚えたのだろう。
「悪かったよ」
遥は笑った。
ネクサスは返事の代わりに羽を震わせた。濡れたアスファルトの上を二歩進み、海の方へ首を伸ばす。防護壁の向こうから吹きつける風に、黒い羽が細かく揺れた。
「はるかっ、はるかっ」
ネクサスは遥の名前を呼ぶ。
「ん? お前、あっちに行きたいのか?」
遥が尋ねても、答えはない。
ネクサスは赤い海を見つめていた。
そこへ行くことはできない。
人間も、カラスも。
海は目の前にあるのに、壁一枚の向こうは別の世界だった。
遥は防護壁に背を預け、しばらく黙っていた。
ここにいると、あまり話さなくて済んだ。何かを聞かれることも、将来について答えを求められることもない。ネクサスは、遥が黙っていても気にしなかった。
ただ、同じ方向を見ている。
それだけでよかった。
「もう少し、したら帰ろう」
遥が言うと、ネクサスは首を傾けた。
そのときだった。
倉庫群の向こうで、空気を押しつぶすような音がした。
遥は振り返った。
港の奥。立入制限区域に隣接する古い倉庫群の一角で、白い光が瞬いた。
少し遅れて、警報灯が一斉に赤く点滅する。
歩道脇の案内端末から表示が消え、無音のまま避難経路を示す矢印だけが浮かび上がった。自動運転車が道路の中央で停止し、配送ロボットが進路を変えて建物の陰へ退避していく。
街を管理するシステムが、何かを危険と判断したのだ。
ネクサスが翼を広げた。
二度目の爆発音が、海面を震わせた。




