第12話 Veil前編
遥は和馬と街に出ていた。
二人がいるのは、あの倉庫を遠くに見渡せる高層ビルの上階にある店だった。
最先端の電子機器を扱う店で、大きな窓から街を一望できる。
倉庫のあった場所は、今も立ち入りが禁止されていた。
周囲には高い壁が設置され、その内側を隠すように囲われている。
近くまで行ってみたものの、中へ入ることはできなかった。
だから、少しでも様子が見える場所を探して、この店に来たのだ。
窓の向こうに、倉庫が見える。
壁の向こう側には、以前と変わらない建物や道路が広がっていた。少なくとも、ここから見る限りでは、爆発があったとは思えない。
何もなかった。
そう思ったとき、遥はわずかな違和感を覚えた。
倉庫の輪郭を目で追う。
建物の壁も、窓も、周囲の道路も、何ひとつおかしくはない。
けれど、そこにあるはずのものが、どこか違って見えた。
うまく説明できない。
もう一度、目を凝らす。
建物の向こう側に、何かが見えた気がした。いや、見えたというより、そこにあるものの奥行きが、ほんのわずかにずれているような感覚だった。
「何見てるんだ?」
和馬が声をかけてきた。
「あそこって、何か変な感じしない?」
「ん? あの壁の向こう?」
和馬は窓の外をじっと見つめた。
「別に何も。あそこに何かあんの?」
「いや……」
和馬の視力が悪いわけではない。むしろ、遥よりよく見えているはずだった。
勘違いだろうか。
遥は一度、視線を外した。
「お前がこんな店に興味あるとはなー」
和馬は店内の商品に目を向けていた。
「いや、たまにはこういうところもいいかなって」
「おっ、これ最新の脳波音楽じゃん!」
和馬は棚から機器を手に取り、自分のデバイスと接続し始めた。
遥はもう一度、窓の外を見た。
倉庫は、さっきと何も変わらずそこにあった。
けれど、今度は少しだけ違っていた。
建物の表面に目を向けているはずなのに、その向こうにあるものまで見えているような気がする。
そこに何かがあるのではなく、何もないはずの場所に、何かがあるように見えていた。
目の奥が、わずかに痛んだ。
遥は思わず目を細めた。
「遥、これ聴いてみろよ!」
和馬の声に振り返る。
「何?」
「最新型。音楽を直接脳に流すんだってさ。ほら」
和馬が差し出した機器を受け取る。
けれど、遥の意識はまだ窓の向こうに残っていた。
さっき見えたものは何だったのか。
もう一度確かめようとしても、今はただ、いつもと変わらない街並みが広がっているだけだった。
の後、遥は和馬と店内を見て回った。
和馬は新しい機器を見つけるたびに足を止め、機能や性能について楽しそうに話していた。
遥も適当に相槌を打ちながら、いくつかの商品を眺めた。
気づけば、窓の外の景色も少しずつ夕方の色に変わっていた。
「俺、今日はそろそろ帰るわ。十九時になる前に買い物頼まれてるからさ」
「あ、もうあと一時間もないぐらいか」
「そうそう。じゃあな」
遥は手を振り、笑顔で和馬を見送った。
「あ!」
少し離れたところで、和馬がもう一度振り返った。
「遥! 気をつけて帰れよー。もうあんなのは俺もごめんだからな!」
「ああ、さすがに二回目は僕もごめんだ」
そう言って、お互いに笑った。
和馬の姿が人混みに紛れていく。
もうあんな事件には巻き込まれたくない。そう思っていた。
けれど、望むかどうかに関係なく、事件は向こうからやってくる。
遥は、もう一度あの倉庫の方へ向かっていた。
途中、作業服を着た男とぶつかりそうになった。
「あ、すみません」
「こちらこそ。……意外と、しっかり前だけを見ていれば当たりませんよ」
男はそう言うと、振り返ることもなく歩いていった。
少し遠回りをしながら倉庫へ向かう。けれど、以前は通れた道も、今では通行止めになっていた。
見覚えのない壁まで設置され、近づくことさえ難しくなっている。
どうすればいいのか。
立ち止まって周囲を眺めていると、ふと、通れる場所が分かった。
道と道のわずかな隙間。壁の切れ目。
普段なら気にも留めないような場所だった。
なぜ分かったのか、自分でも説明できない。
遥は前だけを見て歩き出した。
マップも、AIのアシストも使わなかった。
見たことのない道を進んでいくうちに、周囲から人の姿が消えていた。
少し不安になり、来た道を戻ろうと振り返る。
「おい。ちゃんと生きてるか?」
声がした。
予感はあった。
いつか、またこの声の主に会うのだろうと。
「後藤さんも、見た目どおりしぶとくてよかったです」
そう返すと、後藤の顔が緩んだ。
「……本物だな。本当に、ちゃんと生きててよかったよ」
後藤は遥の顔をしばらく見つめていた。何かを確かめるような目だった。
「本物? しかも、しつこい聞き方ですね」
「いや、こっちの話だ。それより、聞きたいことがある」
「奇遇ですね。僕もあります」
二人は目を合わせた。
「ゼロイムはどこだ」
「ゼロイムって何ですか?」
ほとんど同時だった。
後藤の手には、いつの間にか拳銃が握られていた。
小さな発砲音が響いた。
弾丸は、遥には当たらなかった。
その背後にいたものを撃ち抜いていた。
「……びっくりした」
遥が振り返ると、人の形をした何かが倒れていた。
以前、倉庫で見た小型戦闘ロボット。
いや、あれよりもずっと精巧だった。外見だけなら、人間と見分けがつかない。
撃たれた箇所から機械部品が覗いていなければ、ただの人間にしか見えなかっただろう。
一般人に紛れ、自分を追っていたのか。
「俺をつけていた奴だ。お前には尾行はついてない」
「僕、また巻き込まれてますね。全部、後藤さんが悪いじゃないですか。勘弁してくださいよ」
後藤は真面目な顔をしていたが、やがて堪えきれなくなったように笑い出した。
「ははっ! お前、やっぱりイカれてるな」
笑いはなかなか収まらなかった。
「ああ、最高だ。俺が一番嫌いで、一番大好きだった奴にそっくりだよ」
「息子と言ったり、嫌いなのか好きなのか分からなかったり。イカれてるのはそっちですよ」
後藤は遥の肩に腕を回した。
「運命かもな。もう、ここまで来たら」
「何がですか?」
「それは後で教えてやる」
後藤はそう言って歩き出した。遥の返事を待つつもりはないらしい。
仕方なく、その後をついていった。
しばらく歩いていると、いつの間にか周囲に人が増えていた。
作業服を着た男。顔に入れ墨をした女。また別の男や女。
皆、どこからともなく現れ、後藤の後ろについてくる。
やがて、あの壁がそびえ立つ倉庫の前にたどり着いた。
後藤は壁の向こうを見つめ、それから遥に視線を戻した。
「お前、ここがおかしいって見えてたよな」
遥は答えなかった。
「それは正解だ」
後藤は壁に近づき、手のひらを押し当てた。
「触ってみろ」
「何をですか?」
「いいから」
遥も壁に手を伸ばした。
ひんやりとした感触が指先に伝わる。硬い。表面にはわずかな凹凸まであり、どこからどう見ても本物の壁だった。
「普通の壁ですよね」
「そう見えるだろうな」
後藤は壁から手を離した。
「だが、これは壁じゃない」
「……どういうことですか?」
「この向こうに何があると思う?」
遥は壁の向こうに目を向けた。
倉庫がある。道路がある。事件の前と変わらない景色が広がっていた。
「倉庫でしょう?」
「違う」
後藤は短く答えた。
「ここはあの日、爆破された。倉庫も、周囲の設備も、何もかも吹き飛んだ。今は何も残っていない」
「でも、見えてますよ」
「見えているし、触れることもできる。普通の人間にはな」
遥はもう一度、壁に触れた。
確かにそこにある。指先に伝わる硬さも冷たさも、嘘だとは思えなかった。
「人類統合機構の技術だ。あいつらは、存在しないものを存在するように見せることができる。目を欺くだけじゃない。触れた感覚まで再現する」
「そんなことができるんですか?」
「できるんだよ。お前、学校の授業は仮想空間で受けているだろ。いや、授業だけじゃない。ほかにもいろんな場面で使っているはずだ」
「基本的にはそうですね。身体を使うもの以外は」
「あれは、脳に流し込む情報を最低限に抑え、記憶にも残りにくいよう調整されている。そういう仕組みなのは知っているな?」
「そうですね。脳のパンクやショートを防ぐためですよね?」
「間違いじゃない。だが、それが本当の理由かと言われれば、そうじゃない」
「別の理由があるってことですか?」
「そうだ。この世界の秩序を保つための重要な仕組みでもある。仮想空間を使えば、直接脳に知識を記憶させることもできる。便利すぎて、今さら使わないという選択肢はないだろうがな」
後藤は壁を見上げた。
「この場所も同じだ。人類統合機構は、そこにないものを、あるように見せている。俺にも倉庫や道路は見える。だが、ここに何も残っていないことを知っている」
「じゃあ、僕が見た違和感は……」
「お前には、こいつが本物じゃないと分かったんだろう」
「分かったというか……何か変だと思っただけです」
「それで十分だ」
後藤は遥の顔を見た。
「お前には、ほかの奴らには見えないものが見え始めている。いや……お前には、本来の形が見えているのかもしれんな」
「本来の形?」
「まだ自分でも分かっていないんだろう。無理もない。俺にも詳しい理由は分からん。どれだけ見ても、俺には普通にそこにあるようにしか見えない」
後藤はそこで言葉を切った。
「だが、ひとつだけ確かなことがある。お前があの機体に乗ったことと、無関係じゃない」
遥は、あの日のことを思い出した。
赤く光る印。手のひらに伝わった感触。目の前を覆った光。そして、腕の中から消えていったネクサス。
「後藤さん。あなたたちは、いったい何者なんですか?」
「それを話す前に、ひとつ聞かせてくれ」
後藤の表情が変わった。
「お前は、人類統合機構をどう思ってる?」
「人類統合機構は、この社会を作った」
「その通りだ」
「ないと、人類はもう生きていけない」
「そうだな」
「必要なものです」
「そうか」
遥はそこで言葉に詰まった。
当たり前にあった。
生まれたときから、ずっとそこにあった。空気と同じくらい当たり前で、疑問に思ったことすらない。人類統合機構について、自分の言葉で説明しようとしたことなどなかった。
「……それだけか?」
後藤に問われ、遥は顔を上げた。
「それだけって?」
「お前にとって、人類統合機構は必要なものなんだろう」
「ないと困る人は多いと思います。むしろ、反対する組織なんて、存在しない方がいいじゃないですか」
「そうだろうな。実際、困る人間は大勢いる」
後藤は否定しなかった。
「じゃあ、何で後藤さんは反対組織をやっているんですか?」
「さあな。少なくとも、あれが必要なものだってことは分かってる」
後藤は壁の向こうに目を向けた。
「世界全体で見れば、あいつらが作った社会の方がいいんだろう。昔みたいに戦争や飢えで大勢が死ぬこともなくなった。そういう意味じゃ、俺たちだって恩恵を受けている」
「だったら、どうして……」
「それでも、救われていない人間はいる。俺たちみたいにな」
後藤は自分の手を見た。
「昔から続いている不正もある。今だって、人類統合機構の中枢には、自分の立場を利用して好き勝手やっている連中がいる。もちろん、まともな人間だっている。真面目にこの世界をよくしようとしている奴もな」
「じゃあ、何が問題なんですか?」
「全体をよくすることと、そこにいる一人ひとりを大切にすることは、同じじゃないってことだ」
後藤は遥を見た。
「すべてを救うなんて、それはすべてを捨てているのと同じなんだ」
遥には、その言葉の意味がすぐには分からなかった。
「人によっては権力を持ちたいとか、ほかの人よりもっと楽をしたいとか……反対する理由はいろいろあるだろうな」
「後藤さんも、そうなんですか?」
「どうだろうな」
後藤は軽く肩をすくめた。
その口ぶりは曖昧だった。けれど、冗談を言っているようには見えなかった。
しばらく、二人の間に沈黙が流れた。
やがて後藤は、遥の目を見た。
「お前は、自分で何かを選んだことがあるか?」
「ありますよ」
「たとえば?」
遥は答えようとした。
けれど、すぐには言葉が出てこなかった。
学校も、住む場所も、日々の生活も。自分で選んでいるつもりだった。けれど、その選択肢がどこから用意されているのか、考えたことはなかった。
「……自分で決めているつもりです」
「つもり、か」
後藤はそれ以上、追及しなかった。
「まあいい。今すぐ答えを出せとは言わねぇよ。ただ、ひとつ覚えておけ。俺たちは、人類統合機構が作ったこの世界を、ただ壊したいわけじゃない」
「じゃあ、何がしたいんですか?」
後藤はすぐには答えなかった。
「ここまで一緒に来た仲間がいる。そいつらと始めたことを、途中で投げ出すわけにはいかねぇ。それだけは確かだ」
「それが、後藤さんの答えですか?」
「それに俺は……真実が知りたい」
後藤はそう言って、再び壁に目を向けた。
「だから、お前にも考えてほしいんだよ。何が正しいかじゃない。お前自身が、どうしたいのかをな」
遥は、ふと黒いカラスを思い浮かべた。
ネクサスは、自由に空を飛んでいた。
誰に命じられることもなく、行きたい場所へ飛んでいく。気が向けば遥のそばに戻り、また気ままに空へと消えていく。
あのカラスには、そんな当たり前の自由があった。
「そうですね……僕は、自由に」
そう答えようとしたときだった。
けたたましいサイレンが鳴り響いた。
あの日、倉庫で聞いたものと同じ音だった。
遥は反射的に顔を上げた。周囲にいた者たちも、一斉に動きを止める。
後藤は壁から目を離し、空を見上げた。
「……またかよ」
その声には、先ほどまでの穏やかさはなかった。
遠くで何かが動く気配がした。人々の足音が重なり、静かだった場所に緊張が広がっていく。
「何が起きているんですか?」
遥が尋ねると、後藤はすぐには答えなかった。
やがて、遥に視線を戻す。
「話の続きは後だ。ここから離れるぞ」
後藤はそう言うと、遥の返事を待たずに歩き出した。




