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第56話 エレン殿?

フェルの指が、リョウの襟の内側へ入って、折り返しを直した。


調印式の朝だった。大通り本店の奥の広間には、夜会の前に使った姿見が引っ張り出してある。机の上には、合格した工房が製造を担う十七工房連合の代表として署名する書類の控え――初回発注分である保冷コンテナ四十台、および規格ボルト・ナット一万二千組の納入契約書と、二次審査と価格入札の結果をまとめた革の鞄が、口を縛って置かれていた。


「曲がってます」

「そう?」

「動かないでください」


顎の下を、フェルの指の背がかすめた。月光花の涼しい匂いが首筋へ寄ってきて、リョウは言われた通り、天井の一点を見て動かずにいた。


横からカーナが右の袖口を掴んで引き寄せ、留め紐をほどきにかかった。

「お前なあ。商談の時は平気な顔で貴族と渡り合うくせに、なんで服だけこんなに雑なんだ。留め具が左右逆だぞ」

「見えないところだろ」

「王宮は見えないところを見るんだよ」


鍛冶で硬くなった指先が、手首の内側に当たる。紐を穴へ通す間、カーナは口をへの字に曲げたまま、リョウの手首ばかり見ていた。耳の縁が赤い。広間の暖炉が強すぎたのかと思ったが、今朝は火を入れていなかった。


上着は、夜会の時に仕立て直した黒を使い回した。襟の形を王宮の格に合わせて直し、袖を指一本分詰めて、銀貨三枚。経費の欄には、もう書き込んである。


入口の柱にもたれていたルイーナが、腕を組んだまま歩み寄ってきた。礼装用の白い手袋の指先を歯で挟んで引き抜くと、素手でリョウの肩の縫い目を端から端までなぞる。


「王宮では私の半歩後ろを歩け。勝手に横道へ入るな」

「入らないよ」

「廊下で商人らしい人間と目が合っても、立ち止まるな」

「それは約束できない」

「約束しろ」


肩に置かれた掌が離れるまで、ルイーナの視線は縫い目から動かなかった。


残る一人は、さっきから何も言わずに袖を掴んでいた。左の肘の少し上、直したばかりの布が寄るほど、きゅっと。


「……迷子防止」

「俺は三十だぞ」

「……知ってる」


セリアは袖を離さないまま、リョウと一緒に馬車へ乗り込んだ。


王宮の正門を抜けると、石畳の幅が下町の大通りの倍になった。門の衛兵がルイーナに敬礼し、ルイーナは顎だけで返す。リョウは言われた通り、その半歩後ろを歩いた。昨日のうちに履き慣らしたはずの靴の踵が、まだ当たる。


回廊の壁には、青地に金糸で王家の紋を織り込んだ幕が等間隔に垂れていた。あれ一枚で、十七工房の月の工賃が飛ぶ。数えかけて、やめた。


謁見の広間は、回廊の突き当たりにあった。


左右に重臣が並び、奥の壇上には肘掛けに片肘をついた国王が座っている。前列には軍務局の調達部の顔が見えた。隅の列では、御用商会の番頭が襟の金の飾り紐をいじっていた。


調印用の長机は、壇の手前に据えてある。二通の羊皮紙と、朱の封蝋と、羽根ペンが一本。ペンを持った書記官が、机の脇に直立している。


指定の位置へ並ぶと、フェルがもう一度、リョウの襟へ指を伸ばした。


「さっき直したろ」

「歩くと、また曲がるんです」


奥の扉の脇で、先触れが銀の杖で床を打った。フェルはハッとして手を引っ込め、慌てて背筋を伸ばした。


「第一王女、エレオノーラ殿下――」


広間の全員が、同じ方向へ向き直った。リョウも向いた。招待状の末尾の一行は、三度目に声に出して読んだ。第一王女殿下ご臨席。式の来賓だ。軍務局の上の、さらに上の誰か。


扉が開いた。


入ってきたのは、銀白色の髪を下ろした、凛とした佇まいの女性だった。


髪は肩甲骨のあたりまで流れていた。束ねていた時には分からなかった長さだ。王家の青の正装は、いつも一番上まで留めていた襟が開いていて、首筋に細い銀の鎖が一本かかっている。腰には、飾りの多い儀礼剣。


歩幅に見覚えがあった。靴音の間隔、目線の高さ、右手を腰の剣の柄の少し上へ置く癖。荷車の上でコンテナの隅金具をなぞっていた、あの右手だ。


リョウの頭の中で、何かを計算しようとした。何を計算するつもりだったのか、数字が出てこない。


代わりに、十日ほど前の試験場の石段で自分が言った台詞が、勝手に再生された。


『次も、あなたが現場まで見に来るくらいの仕事なら』


第一王女に向かって、言った。


エレオノーラは真っ直ぐリョウの前まで来て、足を止めた。少しだけ笑った。


「改めて名乗ろう。第一王女エレオノーラだ。先日は世話になったな、リョウ」

「…………」


横でフェルが首を回した。カーナも。ルイーナも。三人分の視線が頬に刺さるのに、リョウは口が動かなかった。セリアだけが、袖を掴んだまま、前を向いて平然としている。


「……エレン、殿?」

「今は殿下だな」

「…………失礼しました、殿下」


自分で聞いても、声が裏返っていた。


エレオノーラは儀礼剣の鞘を軽く鳴らし、書記官のほうへ向き直って式次第の確認を始めた。壇上の国王には聞こえない声だ。その背中へ、フェルが声を落とした。


「……リョウさん?」

「何?」

「今、二回言葉に詰まりましたよ」

「王宮だからだろ」


後ろからカーナが囁いた。

「嘘つけ。公爵家の夜会じゃ、平気な顔で公爵夫人に商談持ちかけてただろ」

「あれは普通だった」

「だから今のが普通じゃねえんだよ」


ルイーナは何も言わず、リョウの横顔を斜めから見ていた。やがて、短く息を吐く。


「……確かに」

「……だから言った」


セリアだった。三人が振り向く。


「何を?」

「……女」


三人の視線が、一斉にセリアへ落ちた。セリアは狐耳を一度だけ動かして、また前を向いた。


「……寝すぎ、ではなかったんですね」


フェルがぽつりと言った。リョウは、あの日自分が「じゃあ寝すぎか」と返した側だった。


エレオノーラが戻ってきた。式次第の確認は済んだらしく、書記官が羽根ペンを持ち直して一歩下がる。


「名を隠したことは謝ろう」

声は低く、壇上までは届かない大きさだった。

「王女の前でも、君が同じことを言う人間か、確かめたかった」


「たぶん、同じことを言いましたよ」

「本当か?」

「ただ」

「ただ?」

「王宮相手なら、技術支援料はもう少し高くしていたと思います」


エレオノーラの口が、小さく開いて閉じた。


沈黙が三拍ほど続いた。それから、儀礼剣の柄に置いた手が小さく震えはじめ、喉の奥で笑いを噛み殺す気配がした。咳払いで誤魔化したが、もう遅い。壇上の国王が、ちらりとこちらへ視線を寄越した。


「……そこは変わるのか」

「商売なので」

「覚えておこう。次の見積もりの時にな」


笑いを引っ込めたあとも、目尻だけはまだ笑ったままだった。


そこへ、広間の端から子供の声が響いた。


「リョウー!」


重臣の列が、ざわりと割れた。侍従が二人、裾を持ち上げて追いかけてくるのが見える。その前を、小さな礼装の影が全速力で走ってきた。ひらひらの裾を膝まで引っかけ、脇には見覚えのある乳白色の板を抱えている。


「……リィ?」

「リィじゃないよ!」


小さな影はリョウの目の前で急停止し、くるっと一回転した。礼装の裾が花みたいに広がる。


「第二王女アイリス!」


リョウの思考が、今日二度目の完全停止を起こした。


カーナの口は開いたままで、ルイーナが握っていた白い手袋が、音もなく絨毯へ落ちた。フェルも目を見張ったまま固まっている。


アイリスはそのまま踵を返し、壇の階段を駆け上がった。


「お父様!」


階段の上で、国王が肘掛けに置いた手を止めた。


「わたし、決めた!」


嫌な予感がした。リョウだけではなく、たぶん広間の全員が。


「リョウを、お姉様のお婿さんにする!」


壇の下で、誰かの靴が半歩だけ後ろへ下がった。


それ以外の音が、広間から消えた。


「――アイリス!」


エレオノーラの声が裏返った。口が開いたまま、眉が跳ね上がり、儀礼剣の柄を握る指が白くなっている。さっきまで完璧に整っていた顔が、初めて崩れた。


リョウは立ったまま、動けなかった。横にいたフェルが無意識に手を伸ばし、リョウの礼装の襟をきゅっと掴んでいた。指先が強張って、直したばかりの布に容赦なく皺が寄っていく。カーナの眉が片方だけ上がる。ルイーナの目が細くなる。セリアは何も言わず、リョウの袖を、さっきより一段強く握った。


アイリスだけが満面の笑みだった。


「だって、お姉様、馬車の中でずっとリョウの話ばっかりしてるもん! 金具が割れた時のリョウの顔がどうとか!」

「していない!」

「してるよ!」

「していない! あれは仕事の報告だ!」

「してるよー!」


重臣たちの前で、第一王女と第二王女が言い合っている。壇上の国王は片肘をついた姿勢のまま、何も言わなかった。ただ、もう片方の手で静かに額を押さえている。軍務局の調達部の役人は視線を床へ逃がし、御用商会の番頭は壁に背中を預けて、顔が紙の色になっていた。


エレオノーラが、助けを求めるようにこちらを見た。リョウは目を合わせず、天井を見た。


金の漆喰の唐草が、一面に回っている。


国家規格の調印式のはずだった。入札は透明になった。出品者の名前まで伏せて、公平にした。それなのに。


(……俺の動揺だけ、なんでこんなに全員に丸見えなんだ)


調印用の羽根ペンを持った書記官が、さっきから同じ場所で、一歩も動けずに立っていた。


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