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第55話 名前を伏せて試してください

審査会は、予想より二刻長引いた。


軍務局の調達部は最後まで身元保証書の条項に未練を残したが、「前線の兵士の命を守る基準に、反対する理由がありますか」というエレンの一言で、公開性能試験の実施だけは通った。条件は一つ。将来設置される独立審査機関の前段階として、今回は王宮軍務局の試験場で、軍務局監察部と中立公証人が共同で立ち会うこと。


試験は数日間にわたって実施された。


静荷重の二十四時間放置試験や、氷水に沈めた防振ゲルの百時間連続低温振動試験は、公証人と監察部が立ち会い、厳重に施錠された保管庫で先行して進められていた。そして迎えた最終日の朝、リョウたちは荷馬車で王都東の試験場へ入った。


石を敷き詰めた広い場内には、試験用の櫓と巨大な天秤、落下試験用の吊り台が据えられていた。観覧席には軍務局の役人たちが並び、最前列にはエレンが腕を組んで座り、その隣の席でリィが退屈そうに足を揺らしていた。


長机の上には、下町十七工房から二百本、王宮御用商会三社から三百本、地方の鍛冶組合五つから百五十本の金具が並べられていた。その脇の台座には、先行納入した実用機十台とは別に、本試験のために各陣営が提出した保冷コンテナ八台――下町十七工房連合から三台、王宮御用商会三社から各一台、地方組合から二台――が整然と据えられている。すべての金具とコンテナは、提出の段階で個別工房の刻印を耐火泥で平らに覆われ、応力のかからない側面に公証人による無作為の識別番号が打ち直されていた。検体番号と、工房名および各工房の製造ロットを結ぶ対応表は、数日前に最初の試験が始まる時点で公証人が厳重に封印していた。机の脇には、朱の封蝋が無傷のまま残る革袋が置かれている。


「帳面の封蝋は、すべての試験が終わり、最終合否が集計されるまで決して開かれません。開封には監察部立ち会い人二名の署名が要ります」


老人が告げると、リョウは頷いた。


「それでいい。俺たちも、どれが誰の品か分からない状態で測る」


そこへ、御用商会の番頭が二人の従者を連れて進み出た。仕立ての良い上着の襟に、王家御用の金の飾り紐を下げている。


「失礼ながら、一つ確認させていただきたい。我々は代々、王家に金具を納めてきた者です。どこの馬の骨とも知れぬ工房の品と、同じ机に並べて扱うというのは、いかがなものでしょうか」


「同じ机に並べるのではありませんよ」

リョウは番頭に向き直った。

「刻印を覆い、同じ番号札を打って、誰が作ったか分からない状態で試すんです。御用の印があろうが、裏通りの鍛冶屋の印だろうが、試験場の中では全部ただの番号です」

「それは……」

番頭が食い下がろうとしたとき、観覧席から澄んだ声が落ちてきた。


「決定事項だ」


エレンだった。立ち上がりもせず、手元の書類に目を落としたまま続ける。


「工房名は伏せて試す。それが事前の承認条件だ。異議があるなら、棄権して構わない」


番頭は唇を引き結び、一礼して引き下がった。ふと観覧席を見上げたリョウと、エレンの灰色の瞳が一瞬だけ交錯した。あの日、裏庭で抱き止めた時の華奢な腰の感触が脳裏をかすめる。エレンは視線を逸らさず、あえて査察官としての厳しい眼差しで真っ直ぐリョウを見返してきた。だが、その冷徹な表情とは裏腹に、銀髪の隙間から覗く耳朶だけがほんのり朱に染まっていた。


最終日の測定が始まった。


まずは先行していた長期試験の回収と判定だった。百時間の連続低温振動を終えた保冷コンテナが、水槽から次々と引き上げられた。監察部の検査官たちは四隅の防振ゲルマウントを取り外し、二重断熱の金属筐体を開いて、内部の吸熱ゲルと循環魔導陣の状態を確認していく。

フェルは袖を二の腕までまくり上げ、測定治具のセッティングを補助していた。氷水試験の冷気に晒された金属壁や治具を扱っていたため、指先が赤くなっている。リョウはその横へ歩み寄り、湯気の立つ温かい蒸し布を置いた。


「指、先に温めとけ。ゲルの手触りが分からなくなるぞ」

「……ありがと」

フェルは布を両手で受け取り、かじかんだ指先を包んで小さく息を吹きかけた。耳の先をほんのり赤らめながらも、すぐに真剣な目つきに戻り、検査官が測定器を当てる手元をじっと見つめた。


金敷の代わりに据えられた試験台の前では、検査官たちが静荷重を終えた検体の軸の歪みをノギスで測っていた。カーナはその脇に立ち、一本一本の打音に耳を澄ませている。

額から首筋へ汗が流れ、短い革前掛けの脇から汗ばんだ素肌が覗いていた。リョウが帳面を片手に背後から屈み込み、検体の数値を見守った。


「……これは軽いな。中が詰まってない」

「番号だけ記録しとくぞ」

「ひゃっ……おい、近い!」

カーナはビクッと身をすくめて肘でリョウの脇腹を小突いた。

「見てんなよ、やりづれえ!」

「見てるのは数字だ」

「……嘘つけ、バカ」

カーナは耳まで真っ赤にしてぷいとそっぽを向くと、手拭いで首筋の汗を乱暴に拭い、真っ赤な顔のまま検査台へ視線を戻した。


その背後では、ルイーナが泥濘の区画に荷車を進入させ、軍の実戦条件を確認していた。

ぬかるんだ深い泥に車輪が取られ、重い荷車がぐらりと傾いた瞬間、リョウが駆け寄り、ルイーナと同時に荷台の枠木を力強く支え上げた。二人の呼吸がぴたりと揃い、荷車が水平を取り戻す。

「大丈夫か」

「問題ない。……すまない、助かった」

ルイーナの青い瞳が一瞬だけ揺れ、至近距離で合わさった視線に微かな熱が宿る。だが彼女はすぐに歯で革手袋を引き抜いて素手を露わにすると、軍の現場を知る戦士の厳しい顔に戻った。

「一つ言っておく。工具が一種類で済んでも、締めた感触が分かりにくければ、夜間の前線では使えない。金具のノッチはもう少し高い方がいい」

「分かった。今日の合否基準は変えないが、次の規格改訂の必須要件に入れよう」

「……頼む。兵の命に関わる」


櫓の上の測定台では、セリアが毛布ごと膝を抱えて座っていた。

治具に取りつけた魔導刻印の補正盤を光にかざしている。リョウが梯子を上がって狭い足場に滑り込むと、セリアはだぼだぼの寝間着の袖から細い指先を伸ばし、リョウの上着の裾をきゅっと掴んだ。

「……降りて。ここは、狭い」

「上がってきたのは俺だろ」

「……狭い。だから、離れて」

口ではそう言いながら、セリアは握った裾を絶対に離さず、リョウの腰に寄り添うようにして手元の刻印盤を掲げて見せた。


昼を回るころ、静荷重と防振ゲルの判定が完了した。


櫓の上から掲げられたセリアの微小刻印補正盤が光を屈折させ、目測では見落とされそうな〇・三ミリの微小なたわみまでを克明に炙り出していた。二十四時間の重圧で軸に規定以上の歪みが出たのは、全六百五十本のうち十本。監察部の検査官が無情に不合格の赤印を打ち、番号だけを読み上げていく。

一方、提出された保冷コンテナ八台の判定では、三台が脱落した。外枠を支える防振マウントが低温硬化を起こして復元率が規定を割り込んだものが二台、二重壁の断熱不良で庫内温度が上限の四度を超えてしまったものが一台だ。だが残る五台は、百時間の連続低温振動後も防振材の復元率がいずれも九割を上回り、最高値では九割三分を維持。吸熱ゲルと循環魔導陣による庫内温度も二度から四度の適正範囲を保ち続けて合格基準をクリアした。


そして、公開の場で最も激しい落下衝撃試験が始まった。


公証人が製造ロットごとに無作為抽出した規定本数の金具を、満載のコンテナを載せた荷車の四隅に組み込み、吊り台から石畳へ落としていく。事前に定められた審査規定により、抜き取り検体に一本でも破損や亀裂が出れば、その工房の全ロットが不合格となる。


十本。二十本。ほとんどの金具は、石畳に叩きつけられても形を保った。


三十八本目で、カーナの手が止まった。


「……おい、これを見ろ」

彼女が息を呑んで差し出した金具を、立ち会っていた監察部の検査官が拡大鏡で覗き込んだ。首の根元に、髪の毛ほどの微小な亀裂が走っている。別の検査官も同じ箇所を確認し、無言で記録簿に不合格の署名を走らせた。

「六十七番、首に微小クラック。不合格」


リョウが帳面を見る。泥で刻印が覆われているため、誰の品かはまだ分からない。


「記録だけとって、封は開けるな。全部終わってからだ」

「分かってる」

そう言いながら、カーナの眉間に深い皺が寄っていた。


夕刻、すべての試験が終了した。


公証人が立ち会い人二名の署名を確認し、帳面の封蝋を割った。番号と工房名、製造ロットの対応が、夕暮れの試験場に響き渡る。


御用商会三社のうち、二社は全試験に合格した。老舗の一社は塩水の腐食試験で全検体が最高評価を取り、カーナが静かに息を吐いた。

「……さすがだな。塩水は一番綺麗だ。うちの防錆より手が込んでる」

だが御用商会のもう一社は、金具の軸歪み七本と、防振材の復元率不足で不合格となり、ロットごと脱落していた。地方組合は五つのうち二つが金具の基準を満たして合格。一方、地方組合から出品されたコンテナ二台(一台は防振マウント硬化、もう一台は断熱不良による温度上昇)と、金具三本の軸歪みを出した組合は性能不足で涙を飲んだ。


そして、下町十七工房連合。出品した三台の保冷コンテナは、防振・保冷ともにすべて基準を満たしたものの――金具の発表で、空気が凍りついた。


「六十七番、裏通り三丁目、ドルフ鍛冶」

公証人の声に、観覧席の端がざわめいた。ドルフは下町で長く鉄を打ってきた親方の一人だった。いま、試験場の端で青ざめた顔をして立っている。


「落下衝撃で首に亀裂。不合格です」


ドルフが一歩踏み出した。


「待ってくれ! うちの金具は――」

「落とせ」


カーナだった。


観覧席も、御用商会の番頭も、ドルフも、一斉に彼女を見た。カーナは六十七番の金具を拾い上げ、親方の目の前に突きつけた。


「民間の静荷重試験なら耐えられたかもしれねえ。だが、コンテナを満載して荷車ごと落とす衝撃で亀裂一つ入らねえのが、今回の国家規格の合格条件だ。問答無用で不合格だ」

「だが、あれほど試作を重ねて――」

「熱入れか冷まし方か、焼きの工程にムラがあったんだろうよ。詳しい原因は、あとで断面を割って調べてやる。だけどな、戦場で首が折れたら使った兵が死ぬんだ。あんたの腕は知ってる。だから落とすんだよ」


ドルフは顔を歪め、金具を握りしめたまま言葉を失った。


エレンがゆっくりと立ち上がり、観覧席の柵越しにリョウを見下ろした。


「君の側の工房だぞ」

「そうですね」

「庇わないのか」

「庇う理由がありません」

リョウは帳面を閉じた。

「不良品を通したら、次の日から歯車印そのものが売れなくなります。俺が守りたいのは、ドルフ親方の面子じゃなくて、印の信用です」

「友人でも、か」

少し間を置いて、リョウは言った。

「味方だから通す方が、あとで高くつきます」


エレンは黙った。


灰色の目がリョウを見つめ、そこから先に何も言わないまま、ゆっくりと腰を下ろした。隣の席のリィが、エレンの袖を引っ張った。

「……エレン、どうしたの?」

「何でもない。静かにしていろ」


リョウはドルフの方へ歩み寄り、彼の手から金具を受け取った。


「親方。明日、焼き入れの工程を一緒に見直しましょう。基準型と、検査治具はうちから貸します」

「……いいのか。不合格の工房に」

「不合格のまま放り出すなら、最初から試験を公開しません。次の試験は一か月後です」


ドルフは目元を乱暴に擦り、深く頭を下げた。


夕暮れの試験場から人が引いたのは、日がほとんど落ちてからだった。


軍務局の書記が、本日の審査結果と今後の手続きを厳かに読み上げていた。本日全工程をクリアした金具とコンテナの仕様を王国標準規格として承認すること。合格した検体を提出した工房に対し、第一段階である「技術性能審査の合格」を認定すること。

これにより合格工房は、来週行われる供給能力および財務体制の二次審査を経て、公正な競争価格入札への参加資格を得る。落札後に王宮調印式において正式な調達契約が締結される運びに決まった。そして、王宮側が管理する国家基準原器の製造と定期校正、検査治具の供給、検査員の育成といった技術支援については、開発元であるリョウたちの工房へ包括委託する基本合意が全会一致で議決された。


整った集計表を見ながら、リョウは息を吐いた。


「最初の提案を受けていれば、今すぐ大金が入った」


背後から声がした。振り返ると、エレンが試験場の石段に立っていた。いつの間にか、リィの姿はない。


「入りますね」

「後悔は?」

「全然」

「なぜだ」

「この方が、十年後も金になります」


エレンが吹き出した。


肩を震わせて、手の甲で口を押さえる。夕暮れの風が銀髪を揺らし、束ねきれなかった一筋が頬にかかった。彼女はそれを指先でかき上げ、耳の後ろへ流した。茜色の夕日に照らされた横顔は、普段の厳しい査察官の鎧を脱ぎ捨てたように柔らかく、息を呑むほど綺麗だった。


「最後まで商人だな」

「褒め言葉として受け取ります」


エレンは石段を降り、リョウのすぐ横を通り過ぎた。擦れ違う瞬間、あの日、裏庭で抱き止めたときの微かな香油の匂いが、ふわりと鼻先をかすめた。数歩進んで、彼女はふと足を止めた。振り返らないまま、言った。


「リョウ」

「はい」

「もっと大きな仕事をしてみたいと思うか」


普段なら、即座に返せる問いだった。リョウは集計表を握ったまま、一拍、息を止めた。


「……そうですね」

「…………」

「次も、あなたが現場まで見に来るくらいの仕事なら」


エレンの肩が、小さく跳ねた。夕暮れの影の中で、伏せられた長い睫毛と、朱を帯びた耳の先がはっきりと見えた。彼女はしばらく何も言わず、石畳を見つめていた。


「……考えておく」


その声は、いつもの冷徹な査察官のものより、少しだけ低かった。エレンは早足で歩き出し、待たせていた馬車へ乗り込んだ。扉が閉まる間際、窓の奥からリィがいたずらっぽく笑いながら、リョウに向かって大きく手を振った。


二次審査と価格入札が終わった十日後の朝、大通り本店の郵便受けに、王宮の青い封蝋の封書が届いていた。


リョウは作業台でそれを割り、羊皮紙を広げた。合格した工房が製造を担当する下町十七工房連合の代表として臨む、国家規格採用と調達契約の正式調印式への招待状だった。日付と場所の下に、王宮書記官の細い字で、一行が加えてある。


『第一王女殿下ご臨席』


リョウは文字を二度なぞり、三度目に声に出した。


「……第一王女?」


隣でフェルが湯呑みを置き、カーナが手を止め、ルイーナが顔を上げた。リョウは羊皮紙を折り畳み、帳簿の間へ挟み込んだ。


開いたままの経費の欄に、礼装の仕立て直し代を一行書き足した。


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