第44話 極寒の夜の「団子密着」と、奇跡の採取
翌日の昼下がり、馬車が最後の険しい尾根を越えた瞬間、目の前の視界が一気に開けた。
切り立った巨岩の裂け目が何十キロにもわたって大地を穿ち、底知れぬ谷底から冷たい霧が白く吹き上がっている。見上げる空には雪雲が重く垂れ込め、吹き付ける風は冷気を通り越して、肌を刺す鋭さを持っていた。
標高数千メートル。人跡未踏の北方極寒未開地――「竜の渓谷」の入り口だった。
「ここが、竜の渓谷……!」
御者台のルイーナの隣で、フェルが毛布を首元まで引き上げながら息を呑んだ。
「ああ。王都の素材商が脅していた通りの寒さだな」
リョウが呟きながら息を吐くと、白い呼気が一瞬で散った。
谷へ足を踏み入れて間もなく、西の空が鉛色に染まり、山の天候が急変した。突風が地鳴りのような音を立てて吹き荒れ、視界を白く染める吹雪が馬車を襲う。
「ルイーナ、風を遮る場所へ寄せろ!」
「分かっている!」
ルイーナが手綱を巧みに捌き、馬車を岩壁の窪み――天然の洞窟のような巨大な岩棚の下へと滑り込ませた。
馬車を岩陰に固定し、厚い防風布を張って野営スペースを確保したものの、日が落ちるとともに気温は底知れず下がり始めた。
毛布を重ね、外套を着込んでも、足元から冷気がじんわりと這い上がってくる。
「チッ……薪が湿気を含んでて、煙ばかり出て火が大きくならねえな」
カーナが火箸で燻る小枝を突きながら舌打ちした。
「凍えるほどではないが……これでは手足がかじかんで、今夜は一睡もできそうにないな」
「はい……身体が強張って、明日の繊細な採取作業に響いてしまいます……」
ルイーナが手袋を擦り合わせ、フェルが困ったように眉を寄せる。
「おいセリア、荷台のコンテナの放熱板を引っぺがして、こっちの暖房代わりに使えねえのか?」
「駄目ですカーナ! 明日使う前に壊してどうするんですか!」
「……逆転回路は、まだ作ってない」
セリアが毛布にくるまったまま、首だけを振った。
そんな中、リョウの膝元へもぞもぞと潜り込んできたセリアが、ふと顔を上げた。
「……ん?」
「どうした、セリア」
「……リョウ、さっきより温かい」
言われてリョウ自身も、自分の皮膚の内側が妙にカッカとしていることに気づいた。寒さに対抗しようとして代謝が上がったのか、あの滋養強壮薬の余波が、ここに来てまた身体の芯から熱を作り始めているらしい。
リョウの身体の周囲だけ、ぽかぽかと暖かい空気が漂い出していた。
「……あの副作用、まだ終わってなかったのか」
リョウが呟いた瞬間、セリアの黄金色の瞳がキラリと光った。
「……あったかい」
迷いは一切なかった。セリアは毛布を放り出すと、リョウの懐のボタンの隙間へ躊躇なく頭から潜り込み、温かい胸元に顔をすり寄せて抱きついた。
「おいセリア、ちょっと待て、急に入ってくるな」
「……ここ、天国……」
薄いシャツ越しに、セリアの小さく柔らかな鼓動がトクトクとリョウの胸板へダイレクトに伝わってくる。温まった三角形の狐耳の付け根がリョウの顎や首筋にふにふにと当たり、黄金色の尻尾が腰へと器用に巻きついた。それを見たフェルが、青ざめながら真っ赤になって立ち上がった。
「セ、セリアちゃんっ! 一番いい場所を! 昨夜の抜け駆け禁止はどうしたんですか!?」
「……非常時……条約は失効……」
「失効してません!!」
そこへ、カーナが横から大股で割り込んできた。
「だったらあたしが右腕もらった! 手が冷えたら明日の道具が握れねえ!」
無骨な腕がリョウの右腕をがっちり抱え込み、横腹へと遠慮なく密着してくる。
「カーナ、引っ張るな! 抜けそうになる!」
「抜けねえよ! あったけえ……生き返るぜ」
さらに、背後からルイーナが音もなく詰め寄ってきた。
「抜け駆けを咎めている暇などないぞ、フェル! 体調管理も行軍任務のうちだ。残った背後は私が確保する!」
がばっ、と背後からリョウの首元へ腕が回され、背中に隙間なく張り付いた。
「おいルイーナ、首が絞まる!」
「耐えてくれ、リョウ。実に合理的かつ効率的な防寒陣形だ」
「あ、ああっ、ルイーナさんまで……! も、もう残ってないじゃないですか……!」
フェルが涙目で慌てふためき、残されたわずかな隙間――リョウの空いた左腕へ、真っ赤な顔でおずおずと、だが確実に飛び込んできた。
「リ、リョウさん……! 失礼します……っ! 共同経営者として、体調を崩すわけにはいきませんから……!」
フェルがリョウの左腕を抱きしめ、肩口へと額を預けた。
前にセリア、後ろにルイーナ、右にカーナ、左にフェル。
四人におしくらまんじゅうのように全方位から包囲され、リョウは一分の隙間もなく固定された。腕一本すら動かせない。
「お前ら……重い。というか俺は暑い」
「動かないでください、リョウさん。隙間から風が入ります」
「……リョウ、もっと熱出して……」
「文句を言うな、貴殿の体温は今や全隊員の生命線なのだ」
「そうだぜリョウ、腹括って湯たんぽになりな」
男として何かを意識する前に、まず左腕が痺れてきた。
「……俺の扱い、完全にストーブじゃないか……」
外では風がゴウゴウと鳴っていたが、四人に固められたリョウの中心だけは、汗ばむほどの熱気に包まれていた。
翌朝。
風はすっかり収まり、岩棚の外には透き通るような青空が広がっていた。
テントの入り口から、四人がすっきりと伸びをして出てくる。一晩中リョウの熱を吸って熟睡したおかげで、足取りは驚くほど軽い。
その背後から、一晩中身動きが取れずに体力を吸い取られたリョウが、目の下に薄い隈を作ってふらふらと這い出てきた。
「ふぁあ……よく寝た! 手足も指先も完全に動くぜ!」
「ええ、寒さに凍えることもなくぐっすり休めましたね」
「……リョウ、昨夜、すごくよかった……」
「セリア、語弊のある言い方をするな!」
ルイーナが一喝し、セリアは平然と尻尾を揺らす。リョウは首の筋を鳴らしながら、小さく息を吐いた。
「……もう二度と、あの滋養強壮薬は作らんぞ」
だが、苦労して辿り着いた渓谷の岩肌は、見事な収穫を一行にもたらした。
朝日を浴びる絶壁の裂け目に、鮮やかな深紅の草が群生していた。
「あれです……! 竜血草です!」
フェルが駆け寄り、小刀を構えた。さらにその奥、岩盤に根を張る巨木の幹からは、澄んだ琥珀色の樹液がとろりと滴っている。
「よし、採取にかかるぞ」
リョウの合図で、四人が無駄のない手際で作業を進めた。
ルイーナが安全な足場を確保し、カーナが専用のヘラで樹液を壺に受ける。フェルが根を傷つけないように竜血草を掘り起こし、セリアが触媒の魔力で酸化を抑える。
採取した生薬は、すぐに馬車の【保冷魔導コンテナ】へと運び込まれた。
蓋を開けると、ひんやりとした白い冷気が薄く漂い出る。フェルが葉を一枚確かめ、満足そうに頷いた。
「傷んでません。朝露がついたままです」
セリアが内部の魔導温度計を確認する。
「……三度。安定してる」
これなら、王都までの一週間近い帰路の間も、乾燥や腐敗で品質を落とすことはない。
規定量の生薬を納め終えると、カーナが二重パッキンの蓋を押し下げ、真鍮のラッチ金具を小気味よい音で締め込んだ。
リョウはラッチを軽く叩き、息を吐いた。
「よし。王都へ帰るぞ」
馬車を引く二頭の軍馬が、澄んだ青空の下で高らかに嘶いた。




