第43話 幌馬車の長旅と、焚き火の告白
王都を出て北へ向かって四日、車窓の緑は次第に色を失い、乾いた灰色の岩肌が露出する山道へと変わっていた。
吹きつける風の冷たさが、日ごとに肌を刺す鋭さを増していく。街道と呼べる道はとうに途切れ、轍の深い荒れ地を進むたびに、大型幌馬車の木組みがギシギシと悲鳴を上げていた。
御者台で手綱を握るルイーナの隣で、リョウは外套の襟を立てながら前方の山並みを見据えた。標高が上がるにつれ、空気の薄さと冷気が肺の奥を冷やす。
「道がかなり荒れてきたな」
「ああ。ここから先は王国騎士団の定期巡回区域からも外れる。路面の亀裂と落石に注意しろ」
ルイーナが鋭い青い瞳で周囲の断崖を警戒しながら、手綱を巧みに捌く。そこへ、荷台の幌の間からカーナが身を乗り出してきた。
「ルイーナ、止めろ。右後輪見る」
馬車が岩棚の陰で速度を落として静止した瞬間、カーナが身軽に飛び降りた。道具袋から金槌を取り出し、車軸の留め具と鉄バネの噛み合わせを確かめると、金具を小気味よい音で二度、力強く叩き込む。
「岩を越えた拍子に楔が少し緩んでた。あたしが打った真鍮座金だから砕けちゃいねえが、これでよし。あたしの組んだ足回りは、これくらいの衝撃じゃ音を上げねえよ」
カーナが白い歯を見せて荷台へ戻ると同時に、前方の岩陰から低い唸り声が響いた。灰色の体毛に覆われた角狼が二頭、崖の上から前脚を踏み鳴らして飛び降りてくる。
馬が驚いて前脚を上げ、荒い鼻息とともに暴れかけた。
「リョウ、手綱を!」
ルイーナが叫び、手綱をリョウの手へ預けると同時に御者台を蹴って跳び下りた。抜かれた長剣の切っ先が、飛びかかってきた一頭の鼻先を鋭く牽制する。
「止まれっ!」
リョウは御者台の床板に両足を強く踏ん張り、革の手綱を短く巻き取って力一杯引き絞った。
荷台の幌の隙間から見ていたカーナは、間近にあるリョウの引き締まった背中と、手綱を制する腕の躍動に息を呑んだ。
普段は帳簿をめくり、穏やかな顔で交渉をまとめる商人が、咄嗟に見せた迷いのない力強さ。いつもと違う頼もしい気迫と真剣な横顔に、カーナの喉が小さく鳴った。くわえた煙管を持つ指先が、微かに震える。
「……セリアがやる」
荷台の奥からだぼだぼのローブを翻したセリアが、小さな指先を向けた。青白い燐光が宙に閃いたかと思うと、耳をつんざく炸裂音とともに紫の雷撃が狼の足元の岩盤を吹き飛ばす。
退路を塞がれ、たじろいだもう一頭の眉間を、ルイーナの銀の刃が正確に叩き伏せた。
「……ふう。よし、いい子だ」
リョウが落ち着いた声で馬の首筋を撫でると、荒ぶっていた巨馬はようやく前脚を揃えて落ち着きを取り戻した。
カーナは我に返り、慌てて煙管を深くくわえ直すと、赤くなった顔を誤魔化すように幌から身を乗り出して怒鳴った。
「お、おいルイーナ、荷台に血を飛ばすんじゃないよ!」
ルイーナは苦笑しながら血糊を布で拭い去った。
「すまん、風下へ誘導したつもりだったのだがな」
「……セリア、お腹すいた……」
セリアが眠たげに目をこすりながら、リョウの腰布を引いた。手綱を握り直したリョウは、苦笑しながら荷台の奥を覗き込んだ。
「みんな無事か? コンテナは?」
「リョウさん、コンテナは完全に無傷です!」
中央に据えられた【保冷魔導コンテナ】の前で、フェルが温度計の数値を熱心に記録していた。
「外気が冷え込んできても、吸熱魔晶石とゲルがしっかり働いて、狙い通りの二度から四度を保ち続けています。これなら生薬が凍って傷む心配もありません!」
「よし。悪路での耐震性も合格だな」
夕暮れ時。切り立った巨岩が冷たい北風を遮る岩陰を見つけ、一行は今夜の野営地を設営した。
ルイーナが馬の世話をし、セリアが陣地の周囲に魔導の警戒陣を敷く。その間に、リョウとフェルは手早く焚き火を起こし、夕食の支度に取り掛かった。
大鍋に井戸水を注ぎ、持参した塩漬け肉と干し根菜を放り込む。そこへフェルが、調合用の小瓶からすり潰した薬草の粉末をパラパラと振り入れた。
「これは身体を芯から温める生薬ブレンドです。少し苦味がありますが、血液の循環を促して冷えを防いでくれますよ」
「助かる。少し肉の臭み消しに香草も足すか」
リョウが手際よく木べらで鍋をかき混ぜると、やがて澄んだ空気の中に、食欲をそそる豊かな香りが立ち上った。
すっかり日が落ち、夜の帳が下りる頃。五人はパチパチと爆ぜる赤い焚き火を囲み、温かいスープを行き渡らせた。
「ふはぁ……っ! 生き返るねえ……! 冷えた体にこの熱いスープが染み渡るぜ!」
カーナが木椀を一気に煽り、満足そうに息を吐く。
「生薬の苦味が肉の脂と調和して、実に滋味深い。フェル、見事な味付けだ」
「ありがとうございます、ルイーナさん! リョウさんが臭み消しの分量を調整してくれたおかげです」
フェルが嬉しそうに頬を緩める。
その隣では、セリアがすでにリョウの膝の上に上半身を預け、スプーンを口に運んでいた。リョウの身体からは、あの滋養強壮薬の余波による微熱が今なお穏やかに放熱されており、天然の暖炉のようにぽかぽかと暖かい。
「……ん……リョウ、すごくあったかい……。スープより、リョウがいい……」
「スープもちゃんと飲め。冷めると不味くなるぞ」
リョウがセリアの頭を軽く小突くと、セリアは黄金色の尻尾をご機嫌そうにパタパタと揺らしながら、リョウの足首にぎゅっと巻きつけた。
満腹になり、身体が温まったところで、リョウは立ち上がった。
「火を絶やすなよ。夜中の冷え込みに備えて、近くの岩場から薪をもう少し拾ってくる」
「あ、リョウさん、足元に気をつけてくださいね」
フェルの声に見送られ、リョウはランタンを手に、少し離れた枯れ木の茂みへと歩いていった。
焚き火の周りには、四人だけが残された。
静寂が夜の山を包み込む。パチッ、と薪のはぜる乾いた音だけが、冷たい風の音に混じって響いていた。
木椀を両手で包み込み、立ち上る湯気を見つめていたフェルが、ふと小さく息を漏らした。
「……私、あの人に最初に褒められた時も、全然褒められた気がしなかったんですよ」
「何だい藪から棒に。何て言われたんだ?」
カーナが焚き火の端に置いた鉄瓶を見やりながら尋ねる。
「『才能はある。商才がないだけだ』って」
「ひでえな」
「ひどいですよね」
フェルはくすりと笑い、膝の上で指を組んだ。
「父が亡くなって、店も借金だらけで、自分には才能がないんだって落ち込んでた時です。一番古い借用書を炉の火で燃やしながら、淡々と言われたんです。『俺にできないことができる奴は価値がある』って。……あんな言い方、普通しませんよね」
「あいつらしいや。あたしなんざ、最初は防錆ペーストのことで怒鳴り込まれたんだからな」
カーナが苦笑いを浮かべ、煙管を取り出して火のついた小枝で火をつけた。深く煙を吐き出す。
「あたしが剣を叩いて研いでるのを、あいつはずっと横で見てたんだ。それで何て言ったと思う? 『さっき、同じところを叩いてたのに、槌の角度は毎回変えてたよな』だぜ」
「えっ、リョウさん、そんなところまで見てたんですか?」
「ああ。ドワーフの筋肉自慢の男どもだって、そんな細けえとこ見やしねえよ。素人の商人のくせに、そこを当ててきやがった。『これは俺には絶対できない』って言われた時点で、あたしの負けだったね」
カーナは煙を夜空へ吹き上げ、自嘲気味に、だがどこか誇らしげに目を細めた。
焚き火の赤い光に照らされた横顔は、いつもの気の強さが少しだけ抜け落ちて、小柄な女らしい柔らかな線をしていた。
「……悔しいけどさ。あいつにだけは、半端な金物は絶対に渡せねえよ」
小さく呟いた声は、夜風にかき消されそうになるほど静かだった。
膝を抱えていたセリアが、焚き火の赤い明かりを見つめながら、ぽつりと呟いた。
「……セリアは、あの人が嫌いだった」
「えっ、そうだったの!?」
フェルが目を丸くする。
「……初対面で、地下室のゴミだらけの部屋に来て……顔も見ないで、床の羊皮紙見て『三行目の式、無駄じゃないか?』って言った」
「ぶっ……! それは腹立つな!」
カーナが吹き出し、セリアの頭上の狐耳が小さく揺れる。
「……うん。頭痛くて、眠れなくて、追い出されると思ってたのに……。でも、誰もそこまで読んでくれなかった。……深眠香をくれた次の日の朝、何ヶ月ぶりかにちゃんと眠れて……頭が痛くなくなった時、布巾投げてくれた」
セリアはだぼだぼの袖をぎゅっと握りしめ、焚き火を見つめた。
「……リョウ、ちゃんと見てくれる」
焚き火の向こうで静かに耳を傾けていたルイーナが、深い溜息とともに口元を綻ばせた。
「……あの男は、見ないふりが異常に上手いのだ」
「あんたもかい、ルイーナ?」
カーナが煙管をくゆらせながら促す。
「ああ。騎士として、兜の中で汗をかき、頭皮が蒸れて臭うことなど、誰にも言えるはずがなかった。女としての恥じらいと、武人としての体面……それをあの男は笑うどころか、一切臭いに触れず、『視界の確保と戦闘効率の問題だ』と軍需品として清髪粉を扱ってくれた。……私の誇りも、羞恥も、両方守ってくれたのだ」
四人の声が、夜の静寂の中に溶けていく。
「ふふ……本当に、商売では誰よりも目ざといのに、自分のことになると妙な人ですよね」
フェルが息を漏らして微笑んだ。
「……それに、あそこ、半分だし……」
セリアが何気なくぽつりと呟いた。
「ぶっ……!? せ、セリアちゃんっ!?」
フェルが顔を真っ赤にして跳ね起きかけた。
「あそこが半分? なんだそりゃ。商売の取り分でも値切られたのか?」
「何の話だ? 旅費の半分を負担させられたとでもいうのか?」
事情を知らないカーナとルイーナが首を傾げる。
「……ん。半分」
「な、なんでもありません! 何でもありませんから! セリアちゃん、それ以上は言っちゃ駄目です、リョウさんの尊厳に関わります!」
「なんだよフェル、急に慌てて! どこが半分なんだよ!」
カーナが身を乗り出し、ルイーナが眉間に皺を寄せて考え込む中、フェルは必死に両手を振って誤魔化した。
焚き火の熱が、四人の頬を温かく染め上げていく。ひとしきり騒いだ後、フェルが居住まいを正し、真剣な眼差しで三人をぐるりと見回した。
「……でも、一つだけ決めませんか?」
「あ? 何をだい」
「勝手に二人きりで話を進めるのは禁止です。抜け駆け禁止です!」
フェルが胸元で拳を握りしめて宣言した。
「おいおいフェル、それ自分が一番不利じゃないかい? 同じ屋根の下に住んでんだからさ」
「う、うるさいです! 工房とプライベートは別です!」
「抜け駆け禁止か。……悪くない提案だな。騎士としても、友軍を出し抜く行為は規律上容認できん」
「……セリア、リョウの膝は譲らない……」
「ほら見ろ、早速抜け駆けしようとしてんじゃねえか!」
カーナが笑い声を上げ、ルイーナが腕を組んで頷き、セリアが平然としっぽを揺らす。
その時だった。
「おい、薪を拾ってきたぞ。……なんだ、お前ら?」
両腕いっぱいに枯れ枝を抱えたリョウが、暗がりからひょっこりと戻ってきた。
焚き火を囲んでいた四人が、示し合わせたように一斉に顔を上げ、満面の笑顔でリョウを見つめてくる。
「おかえりなさい、リョウさん! 寒かったでしょう、すぐスープ温め直しますね!」
「おうリョウ、ご苦労だったな! ほら、あたしの隣空いてるぜ、座りな!」
「……リョウ、セリアの横。ずっとここ空けてた……」
「リョウ、風上に座れ。私が風除けになってやる」
リョウは薪を地面に下ろしながら、思わず背筋にゾクリとした悪寒を覚えた。
(……なんか、さっきより女子会の結束が恐ろしく固まってないか……?)
パチパチと爆ぜる焚き火の煙が、満天の星空へと吸い込まれるように昇っていった。




