第40話 万物の真理(サイズじゃない、付加価値だ)
公爵夫人の言葉が終わるか終わらないかのうちに、大広間の空気が一変していた。
「まあ、公爵夫人! 抜け駆けはずるうございますわ!」
「私にも! 私にも一瓶分けていただけますか!? 銀貨三十枚でもお支払いしますわ!」
「いいえ、私の方が先にお声をかけました!」
鈴を転がすような淑女の仮面はどこへやら、シャンデリアの眩い光の下で、色とりどりのドレスを纏った貴婦人や令嬢たちが、我先にとリョウたちの周囲へ押し寄せてきた。長年、鉛混じりの厚化粧と重い香油に肌を苛まれ、痛みに耐えかねていた社交界の女性たちにとって、目の前で公爵夫人の手の甲を瞬時に潤わせた小瓶は、喉から手が出るほど求めていた奇跡の水そのものだった。
押し寄せる人波にも、リョウは一切動じなかった。前世で数々の商談を修羅場のごとく潜り抜けてきた男だ。柔らかな笑みを崩さず、右手で軽く群衆を制する。
「皆様、どうか落ち着いてください。本日は公爵夫人への献上分を含め、限定三十個のみの手作りの品となっております。価格は一瓶、銀貨二十枚。公爵邸の秩序を乱さぬよう、順番にお譲りいたします」
ルイーナが凛とした佇まいでリョウの隣に立ち、近衛騎士としての無言の威圧感で列を整えさせる。フェルが緊張しながらも丁寧に小瓶を手渡し、カーナが素早く銀貨を受け取り、セリアが満足そうに小瓶の魔導刻印を指先で確認していく。
「まあ……! なんて素敵な小瓶かしら。この真鍮の細工、まるで美術品ですわ」
「肌に吸い込まれていく……本当に油の嫌なベタつきがありませんこと!」
小瓶を手にした夫人たちが次々と歓声を上げる中、列の最後尾で、必死にドレスの裾をたくし上げている姿があった。昼間、大通りの店舗でリョウを「泥水」と嘲笑したクローバー男爵夫人だ。
「ま、待ちなさい! 私も! 私にも譲りなさい!」
「あら、クローバー男爵夫人。順番はお守りあそばせ。社交界の礼儀もご存じないの?」
並んでいた高位の貴族夫人に冷たくあしらわれ、クローバー男爵夫人は屈辱に顔を真っ赤に染めていた。だが、四人の眩いばかりの素肌と、手に入れた夫人たちの歓喜の声を前にしては、引き下がることもできない。
やがて、木箱の中に残った小瓶は、最後のひとつとなった。クローバー男爵夫人がおそるおそる進み出て、震える手で銀貨二十枚をカウンター代わりの丸テーブルに差し出した。
「わ、私にも……その小瓶を、分けてくださるかしら……?」
昼間の尊大な態度は消え去り、視線はすがるように最後の小瓶に注がれていた。フェルとカーナが一瞬視線を交わしたが、リョウは一切の嫌味を見せず、商人としての完璧な一礼をして小瓶を差し出した。
「毎度ありがとうございます、クローバー男爵夫人。お肌の調子が整いますよう、心より願っております」
「……あ、ありがとう……」
夫人は小瓶を胸に抱きしめると、逃げるように夜会の片隅へと去っていった。
三十個、完全完売。手元の布袋には、ずっしりとした銀貨六百枚の重みが収まっていた。
夜会を辞し、公爵邸を後にしたリョウたちは、貸し切りの馬車へと乗り込んだ。石畳を走る車輪の音が響く中、張り詰めていた緊張の糸がふっと解ける。
「ふぅ……っ! 終わったぁ……!」
カーナが真鍮の耳飾りをむしり取るように外し、座席に深く背中を預けて豪快に息を吐いた。
「おい、リョウ、見たかい!? あのクローバーの女の青ざめたツラ! ざまあみろってんだ! 泥水どころか、土下座せんばかりの勢いで銀貨を差し出しやがった!」
「本当に……胸がすくようでした!」
フェルもドレスの裾を直しながら、桃色の頬を上気させて笑った。
「リョウさんが堂々と頭を下げずに、相手を買いに来させたんですもの。みんなの努力が、一番高い形で認められた気がします」
「……セリアも、満足……」
セリアはすでにリョウの膝の上に頭を乗せて丸くなり、だぼだぼのドレスを崩しながら、ご機嫌そうにしっぽを揺らしていた。
「……リョウ、すごく頼もしかった……。セリア、もう眠い……」
リョウがセリアの頭を優しく撫でると、隣に腰掛けていたルイーナが、深い青の瞳を細めて微笑んだ。
「お前が動じずに立っていたからこそ、公爵夫人も疑わずに受け入れたのだ。名門貴族のサロンを相手に、これほど鮮やかな勝利を収めた平民の商人を、私は他に知らないぞ」
「ルイーナが招待状を引っ張ってきてくれたおかげだ。お前がいなきゃ、門前払いどころか敷居すら跨げなかった」
「私は、正当な価値をあるべき場所へ案内したにすぎん」
ルイーナが静かに首を振り、車窓から差し込む月明かりの下で、リョウの肩へとそっと身を寄せた。
笑い合い、誇らしげに顔を見合わせる四人。そこには、ただの仕事仲間を超えた、共に戦い抜いた共犯者としての強固な絆があった。
大通り本店へ戻る頃には、夜はすっかり更けていた。リョウはカウンターの奥で重厚な真鍮の金庫を開け、布袋から取り出した銀貨六百枚の山を、一枚ずつ確かめるように収めた。帳簿の最終行に本日の売上を記入し、ぱたんと音を立てて閉じる。
「……資本や門閥のサイズじゃない。小さな小瓶に詰めた、本物の付加価値の勝ちだ」
リョウが満足そうに呟いたその時、隣で在庫帳と仕入れ伝票を突き合わせていたフェルが、ふと顔を強張らせて息を呑んだ。
「……リョウさん」
「ん? どうした、フェル」
フェルは青ざめた顔で、手元の羊皮紙をリョウの前に差し出した。
「大変なことになりました……。夜会での大成功を聞きつけた貴族たちから、明日の朝一番で百個以上の追加注文が届く見込みなんです。でも……」
「でも?」
「原料が、完全に尽きました」
フェルの言葉に、リョウは眉をぴくりと動かした。
「美容液のコアになっている『竜血草』と『巨木の細胞活性樹液』は、王都の高級素材商が抱えていた在庫を、今回の仕込みで買い占めてしまっていたんです。王都近郊の採取分は、これで完全にゼロになりました」
「……なるほど。仕入れの限界か」
「はい。これ以上の数を揃えるには、ここから馬車で数週間かかる北方の極寒未開地――竜の渓谷と呼ばれる過酷な山岳地帯から、採取したての『生の薬草』を運んでくるしかありません。でも、そんな遠方から生薬を運べば、途中で熱や揺れで腐るか、乾燥してただのゴミになってしまいます……!」
王都の外。遠く離れた未開地からの、長距離輸送の壁。既存の馬車輸送では、生薬のみずみずしい生命力を保ったまま王都へ届ける手段など、この世界のどこにも存在しなかった。
だが、フェルの深刻な訴えを聞きながら、リョウの口元には不敵な笑みが浮かんでいた。男は上着のポケットに手を差し入れ、地下の『極秘・サイズ回復研究室』の重厚な鍵を、指先で静かに握り直した。
「運ぶ手立てがないなら、俺たちが新しい輸送の仕組みを作ればいいだけの話だ」
リョウは真鍮の鍵を指先で弾き上げると、北の空を見上げるように夜の闇へ視線を向けた。




