第39話 美の奇跡と、完璧なドレスアップ
姿見の前に並んだ四人の姿を前に、リョウは言葉を失っていた。
ローズヴァルト公爵家のプライベートサロン夜会、当日の夕刻。大通り本店の奥の広間は、臨時の控室と化していた。リョウの提案した「歩く最高級モデル」作戦のため、四人は一週間にわたり試作美容液を使い込み、肌を完璧に整えていた。その結果が、今目の前にある。
普段の作業着――フェルの薬草染めエプロン、カーナの煤けた前掛け、セリアの引きずりローブ、そしてルイーナの銀の胸当て――は、影も形もなかった。
フェルは、淡い若草色のシルクドレスを纏っていた。胸元にはカーナが打った真鍮の繊細な小枝のブローチが留められ、フェル自身が調合した月光花の清涼な香りがふわりと漂う。何よりも、その頬は内側から発光するように瑞々しく、白粉など一切塗っていないのに、まるで剥きたての果実のような透明感を放っていた。
「リョウさん……あの、変じゃありませんか? 私、こんな立派なドレスを着たの、生まれて初めてで……」
フェルが両手でドレスの裾を摘み、恥ずかしそうに上目遣いで尋ねてくる。その隣では、カーナが真紅のドレープドレスに身を包んでいた。鍛冶仕事で引き締まった無駄のない肢体が強調され、露出した肩や背中には荒れひとつない。耳元には自作した唐草模様の真鍮ピアスが揺れている。
「おい、リョウ、なんだその目は。似合わねえとか抜かしたら、今夜の護衛は無しにして炉へ叩き込むからな」
頬を朱に染めながら、カーナがそっぽを向いて腕を組む。足元では、セリアが夜空のように深い藍色のドレスを着て、だぼだぼの袖ではなく、レースの手袋から小さな指先を覗かせていた。ドレスの裾には微弱な光彩魔導が織り込まれ、動くたびに星屑のような微光が瞬く。陶器のように白い頬を撫でながら、セリアがリョウのタキシードの裾を引いた。
「……リョウ、セリア、綺麗……?」
「ああ、ものすごく綺麗だ」
セリアの頭を優しく撫でたリョウは、仕立て直した黒の上着の袖口を引いて姿勢を正した。普段の作業着とは違い、無駄のない裁断が肩幅の広さと引き締まった背中を際立たせている。
そして、最後に歩み出てきたルイーナの姿に、リョウは完全に息を呑んだ。深い紺碧の豪奢なイブニングドレス。鍛え上げられた長身としなやかな曲線美が見事に引き立ち、結い上げられた金髪の首筋は透き通るような白さを誇っていた。普段の厳格な騎士の面影は消え去り、そこにあるのは王都屈指の名門「ヴァルハイト卿家」が誇る、息を呑むような絶世の令嬢の姿だった。
ルイーナは洗練された淑女の笑みを湛え、優雅な仕草でリョウの前へ進み出ると、すらりと白い右手を差し出した。
「どうした、リョウ。見惚れている時間はないぞ。今夜の貴殿のエスコートは、この私が務める」
リョウは静かに頷き、差し出された白く細い指先へ、自らの掌を重ねた。計算用のペンだこや重い荷を運んでできた厚みのある掌が、ルイーナの手をすっぽりと包み込む。
その瞬間、ルイーナの藍色の瞳が小さく揺れた。伝わってきた体温の熱さと頼もしさに喉を微かに鳴らし、結い上げた白い首筋にさっと朱が差す。
後ろで見つめていたフェルが、無意識に胸元のドレスの布地をぎゅっと握りしめた。カーナも腕を組んだまま、リョウのいつもと違う堂々とした立ち姿から目を離せず、小さく唇を噛んでいる。
「……お前、本当にあのルイーナか?」
「な……失礼なことを言うな。これでも名門騎士貴族の娘だ。……エスコートされる側の台詞ではないな」
ルイーナは動揺を隠すように小さく咳払いし、リョウの腕に自然な手つきで自らの腕を絡めた。吸い付くように滑らかな素肌の感触に、リョウの背筋に心地よい緊張が走る。
「よし。全員、完璧だ。……行くぞ、俺たちの商売を見せつけてやる」
馬車に揺られること半刻。辿り着いたのは、王都の貴族街の最奥にそびえ立つ、白亜のローズヴァルト公爵邸だった。大理石の階段を上がり、巨大な硝子扉をくぐると、巨大な水晶シャンデリアが眩い光を投げかける大広間が広がっていた。王都の最高位貴族たちが集い、きらびやかな宝石と絹の衣擦れの音が満ちている。
だが、リョウの商人としての観察眼は、華やかな光の裏側にある異様さを即座に見抜いていた。
集まっている貴婦人たちの顔は、例外なく分厚い白粉で塗り固められていた。遠目には白く見えても、近くで見ればひび割れ、首筋との色の違いは歴然としており、重い香油の油浮きが照明の下でテラテラと光っている。皮膚が呼吸を奪われ、悲鳴を上げているのが手に取るように分かった。
「近衛騎士団、ルイーナ・フォン・ヴァルハイト卿、ならびにご同伴の皆様!」
従者の高らかな先触れとともに、扉が開かれた。
ルイーナが完璧な淑女の歩調でリョウをエスコートし、その両脇をフェル、カーナ、セリアが従えて大広間へと足を踏み入れる。その瞬間、大広間の喧騒が、潮が引くように止まった。
静寂が、広間を支配する。
「……あの方々は、一体どこの姫君だ……?」
「待て、あの素肌の輝きは何だ……!? 白粉を塗っていないのに、まるで朝露を浴びた花のように透き通っている……!」
「光を弾いているわ……油の脂っぽさが一切ないのに、どうしてあんなに瑞々しいの……!?」
厚化粧で肌を隠すことしか知らなかった貴族夫人たちが、四人の圧倒的な素肌の美しさに釘付けになり、ざわめきが波のように広がっていく。その群衆の片隅で、昼間にリョウを嘲笑したクローバー男爵夫人が、持っていたワイングラスを取り落としそうになりながら、真っ青な顔で立ち尽くしていた。
「まあ、ルイーナ。ずいぶん素敵な同伴者を連れてきてくれたのね」
広間の最奥、一段高い貴賓席から、鈴を転がすような優雅な声が響いた。王都社交界の女帝、ローズヴァルト公爵夫人だ。
ルイーナはリョウを伴って優雅に進み出ると、完璧なカーテシーを披露した。
「公爵夫人、ご機嫌麗しゅう存じます。本日は、社交界の皆様の肌のお悩みを根本から救う、私の信頼する商人の友人をご紹介したく参りました」
公爵夫人は目を細め、四人の素肌を食い入るように見つめた。
「ええ、見れば分かるわ。私の目は誤魔化せないもの。あなたたちのその肌、王都のどんな高級香油を使っても、そんな清らかな輝きは出ないはずよ。……実を言うとね、私も長年の厚化粧で、肌が乾燥して痛くてたまらないの」
公爵夫人がため息をつき、手袋を外した。その手の甲は、痩せて細かなシワと赤みが浮き出ていた。
リョウは静かに一礼すると、懐から布張りの木箱を取り出した。カーナが削り出した真鍮彫刻のキャップが、シャンデリアの光を浴びて鈍く輝く。
「公爵夫人。肌が真に求めているのは、毛穴を塞ぐ重い油ではなく、深部まで潤いを届ける水溶性の栄養です。どうか、一滴だけお試しください」
リョウはスポイトを使い、公爵夫人の手の甲へ、琥珀がかった乳白色の美容液を一滴落とした。伸ばした瞬間、月光花とカモミールの気品ある香りが広がる。
そして次の瞬間――液体は驚くべき速度で皮膚へと吸い込まれ、完全に消え去った。公爵夫人の手の甲の赤みがみるみるうちに引き、乾燥で強張っていた皮膚がふっくらと解きほぐされ、驚くほどのしっとりとした潤いが満ちていく。
公爵夫人が息を呑み、目を見開いた。
「……まあ……っ! すっと消えて、肌の奥が潤っていく……! 重い油の膜が一切ないのに、皮膚が息を吹き返したようだわ……!」
公爵夫人は手の甲を何度も撫で、信じられない面持ちでリョウを見上げた。
「素晴らしいわ……! これを私に譲っていただけないかしら? おいくらでも出すわ!」
公爵夫人の感嘆の声が響いた瞬間、周囲を取り囲んでいた貴族夫人たちの瞳に、狂乱じみた渇望の火が点いた。




