第38話 社交界の門前払いと、夜会への招待
大通りの硝子窓に貼られた上質な羊皮紙の告知には、開店以来、貴族の影ひとつ差していなかった。
『フェル工房謹製・最高級肌質改善浸透液 限定三十個』
ルイーナの手を借りて格調高い文面にしたため、木枠の額に入れて掲示してある。販売価格は、予告通り一瓶につき銀貨二十枚。大通りの店舗としても、これまでにない破格の強気設定だった。
通りを行き交う平民や冒険者たちは、告知板の前で足を止めては、目を丸くして立ち去っていく。
「おいおい、銀貨二十枚だとよ」
「スライム・ステップが何足買えるんだ」
「どんな金持ちが買うんだか」
呆れ混じりの囁きがガラス越しに聞こえてくる。平民の手が出ないのは想定通りだ。問題は、本来の顧客層であるはずの貴族たちだった。
時折、大通りを豪奢な馬車が通り過ぎる。窓のカーテンの隙間から覗く貴族令嬢や夫人たちは、店の看板を一瞥するものの、鼻を鳴らしてすぐに視線を逸らした。
『裏通りの薬屋が、大通りに出たからと調子に乗って』
『平民共が屯するような卑しい店で、顔に塗るものを買うなど社交界の笑い種ですわ』
そんな嘲笑が、無言の視線からありありと伝わってくる。どれほど中身が本物であろうと、「平民の店」というだけで門前払い。門閥と格式を何よりも重んじる、貴族社会特有の分厚い偏見の壁だった。
「まあ、そう簡単に敷居を跨ぐとは思っていなかったがな」
カウンターで帳簿をめくりながらリョウが呟いたその時、店の正面扉がけたたましい音を立てて開いた。
入ってきたのは、従者を二人連れた豪奢な毛皮羽織りの婦人だった。分厚い白粉で塗り固めた顔は能面のようで、小鼻の周りや口元はひび割れ、隠しきれない肌荒れが浮き出ている。婦人は絹の扇子で小鼻を覆い、露骨に嫌そうな顔で店内を見回した。
「……おや、いらっしゃいませ。どのようなご用件でしょうか」
リョウが商人としての柔らかな笑みを浮かべてカウンターから声をかけると、婦人は値踏みするようにリョウを一瞥し、扇子をパチンと鳴らした。
「用件? ふん、ゴードン商会を謀略で追い落とした裏通りの小悪党が、どのような無礼な店を開いたのかと見物に来てあげたのですわ」
ゴードン商会。その名を聞いて、リョウの頭の片隅で記憶が繋がった。以前、ゴードン商会が不正薬の件で告発された際、ギルドの査問委員会へ圧力をかけようとしていた中流貴族の一人、クローバー男爵の夫人だ。
夫人はツカツカとカウンターへ歩み寄ると、布張りの木箱に並べられた薄青い小瓶を、扇子の先で無造作につついた。
「これがその、限定三十個などと大層にふざけた泥水ですの? 一瓶に銀貨二十枚だなんて、身の程をわきまえなさいな。下民が作った得体の知れない液体を、高貴な私たちが肌に塗るとでも思って?」
「これは肌の深部まで潤いを届け、キメを根本から整える水溶性の――」
「言い訳など聞き苦しいですわ!」
夫人はリョウの言葉を甲高い声で遮り、侮蔑に満ちた視線で見下ろした。
「泥水を顔に塗るのは、泥にまみれて生きる平民がお似合いですこと。いくら大通りに店を構えようと、所詮は裏路地の薄汚い薬屋。高貴な社交界の足元にも及ばない下賤の者が、夢を見るのもいい加減になさい」
冷たい嘲笑を残し、夫人は従者に扉を開けさせ、優雅を装いながら店を出ていった。
静まり返った店内に、異様な空気が満ちていた。
「……リョウさん」
絞り出すような声が聞こえ、リョウが振り向くと、フェルが木箱を抱えたまま立ち尽くしていた。緑色の瞳に悔し涙をいっぱいに溜め、唇を血が滲むほど強く噛み締めている。
「リョウさんや、みんなが一生懸命作ったものを……泥水だなんて……っ! あんな言い方、あんまりです……!」
ガタッ、と作業台の奥で乱暴な音がした。カーナが巨大な金槌を握り締め、青筋を立てて立ち上がっていた。
「おい、リョウ、止めるなよ。今すぐあのアマの馬車の車輪を、粉々に叩き割ってきてやる。誰が下賤だ、誰が泥水だ! あたしが削り出した真鍮に傷一つつけたらタダじゃおかねえぞ!」
「……セリアも行く」
カウンターの特等席から、セリアが音もなくすり抜けてきた。いつもは眠たげな灰褐色の瞳が氷のように冷え切り、だぼだぼの袖口からバチバチと鋭い紫色の雷撃が火花を散らしている。
「……馬車の軸、雷で吹き飛ばす……。あの女の頭の毛、全部ちりちりに焦がす……」
「待て、二人とも。短慮は禁物だ」
凛とした硬い声が響いた。だが、制止の言葉を口にしたルイーナ自身、腰のサーベルの柄に白皙の指をかけ、親指で鯉口をわずかに切っていた。青い瞳の奥に、戦場に立つ騎士そのものの冷徹な怒りが渦巻いている。
「名誉毀損および商務妨害の現行犯として、衛兵隊へ引き渡す理由ならいくらでもある。リョウ、命令をくれ。今すぐ追跡して連行する」
四人がそれぞれ、本気で自分のために怒り狂っている。その凄まじい剣幕に、リョウは毒気を抜かれ、思わず吹き出してしまった。
「ぶっ……くくっ、あははは!」
「り、リョウさん!? どうして笑うんですか!?」
フェルが涙目で目を丸くし、カーナが金槌を振り上げたまま固まる。リョウは笑いを収めると、ひらひらと手を振って仲間たちを宥めた。
「いや、悪い。お前たちが本気で怒ってくれたのが嬉しくてな。でも、金槌も雷も剣も引っ込めろ。あんなのに付き合って前科者になったら割に合わない」
「だが商人、あんなこと言われて黙って引き下がるのかい!?」
「引き下がるわけがないだろ」
リョウの瞳から笑みが消え、冷徹な計算の光が宿った。
「相手が『平民の店のものだから』というプライドで買わないなら、そのプライドを逆手に取ってやるまでだ。『持っていないことが恥ずかしい』という状況を作れば、あいつらは血眼になって金を積む」
「……どうやってだ? 大通りの店舗ですら、貴族は足を止めないのだぞ」
ルイーナが訝しげに眉をひそめた。
「簡単だ。下から頭を下げるんじゃなく、上から火をつける。社交界の頂点にいる連中を熱狂させれば、中流貴族のあいつらなんて、掌を返して買いに走るしかなくなる」
「言うのは簡単だがな、社交界の頂点なんてどうやって……」
カーナが唸ったその時、ルイーナがふと何かを思い出したように目を見開いた。彼女は剣の柄から手を離すと、腰のポーチを探り、一枚の重厚な羊皮紙を取り出した。
カウンターの上に置かれたそれは、縁に豪奢な金箔が施され、中央に威厳ある家紋の封蝋が押されていた。
「……ルイーナ、これは?」
「王都社交界の頂点、ローズヴァルト公爵家のプライベートサロン夜会の招待状だ。今週末、公爵邸の大広間で開催される」
「ローズヴァルト公爵家……!?」
フェルが小さく悲鳴を上げた。王都に住む者なら知らぬ者はいない。王家に次ぐ権勢を誇り、社交界の流行のすべてを決定づける女帝、公爵夫人が君臨する名門中の名門だ。
「私の実家宛てに届いたものだ。私は夜会が嫌いで断るつもりだったが……これを使え」
ルイーナは青い瞳を真っ直ぐにリョウへ向けた。
「中流貴族如きが威張り散らす社交界など、本物の前では何の価値もない。リョウ、この夜会へ我々も乗り込むぞ。お前を、そして我々の工房を侮辱した連中の目の前で、本物の価値を見せつけてやろう」
フェルが涙を拭って強く頷き、カーナが不敵に笑って金槌を腰へ戻し、セリアがリョウの裾をぎゅっと握りしめる。リョウは口元を吊り上げ、金箔押しの招待状に指を滑らせた。
「よし。戦場は決まったな。行くぞ、公爵邸へ」
リョウは金箔押しの招待状を丁寧に畳むと、三十個の小瓶が眠る木箱の真上に静かに重ねた。




