第37話 工房の女子会と、秘密の小瓶
羽ペンの先が羊皮紙の上を走り、黒いインクで数字の羅列が刻まれていく。
大通り本店の開店前。リョウはカウンターの上に羊皮紙を広げ、昨夜から今朝にかけて起きた「モチモチ肌事件」のデータを整理していた。
主原料は竜血草と細胞活性樹液。男の威厳には一ミリも効かなかったが、皮膚の組織再生と保湿、キメの修復効果は異常なまでに高かった。手についた残液を雑に塗りたくっただけで、リョウの頬は赤ん坊のようにつるつるになり、髭剃りの痕すら消え去っている。
「……王都の貴族令嬢や夫人たちの肌荒れ、そんなに深刻なのか?」
リョウが視線を上げると、カウンターの向かいに立つルイーナが、腕を組んで深く頷いた。非番のため銀の胸当ては着けていないが、背筋の伸びた立ち姿は軍人そのものだ。
「深刻どころではない。社交界は夜が本番だ。毎晩のように夜更かしを重ね、分厚い白粉を塗りたくる。あれは鉛を混ぜた粗悪な粉も多く、落とす時も強い酒や油で肌を擦るのだ。結果として皮膚は荒れ果て、吹き出物と乾燥で悲惨な状態になる。だが、それを隠すためにさらに厚化粧を重ねるという悪循環に陥っている」
「……地獄のデスループだな」
「しかも、いま市場に出回っている高級化粧油は、香料をたっぷり混ぜた獣脂や植物油ばかりだ。塗った瞬間は油分で光るが、毛穴を塞いで皮膚の呼吸を止めてしまう。翌朝にはさらに肌が赤く腫れ上がるのがオチだ。実家の母や妹たちも、夜会が近づくたびに鏡の前で悲鳴を上げていた」
ルイーナの生々しい証言に、リョウは前世のスキンケア理論を照らし合わせた。荒れて角質層が傷ついた肌に、重い油を塗りたくっても意味がない。まず必要なのは、水分と有効成分を肌の深部まで急速に届ける「水溶性の浸透液」だ。内側からキメを整え、細胞の自己再生を促すこと。昨夜の琥珀色の液体は、まさにその答えだった。
「フェル、昨夜の薬液をベースに改良したい。竜血草の強すぎる活性作用を少し抑え、鎮静作用のある高山ハーブを配合してくれ。それと、高貴で品のある香りを微かに残したい」
カウンターの横で帳簿をつけていたフェルが、顔をパッと輝かせた。
「お任せください、リョウさん! 刺激を和らげるなら、月光花のエキスとカモミールの蒸留水が最適です。肌の赤みを引かせて、夜に咲く花のような澄んだ香りに仕上げられます!」
「次はセリアだ」
カウンター奥の特等席で毛布にくるまっていたセリアへ声をかけると、ぴょこんと狐耳が持ち上がった。
「……ん……なに……?」
「この液体を肌に塗った瞬間、表面にとどまらず角質層の奥深くまで均等に吸い込ませたい。微小な魔導刻印で、浸透促進の術式を組めるか?」
セリアは眠たそうに目をこすりながら、だぼだぼのローブの袖から白い指先を出した。
「……できる……。水属性の微小浸透回路と、細胞活性を均一に拡散させる展開式……。爪先サイズなら、五分で書ける……」
「最後にカーナ。容器だ」
裏口の扉にもたれて煙管を吹かしていたカーナが、ニヤリと白い歯を見せた。
「聞いてたぜ、商人。貴族の女どもに買わせるんだろ? なら、いつもの真鍮筒じゃ駄目だ。あいつらは中身と同じくらい、持っている容器の見栄えを気にするからな」
カーナは腰の道具袋から、削り出しのサンプルをいくつか取り出してカウンターに並べた。
「手のひらにすっぽり収まる、薄青い遮光装飾ガラス瓶を用意しよう。キャップは真鍮を削り出し、唐草と花のレリーフを手彫りで刻んでやる。ノズルは一滴ずつ正確に押し出せる極細構造だ。化粧台の上に置いてあるだけで、王都の職人の最高峰だと一目で分かる細工にしてやるよ」
市場、薬学、魔導、金属加工。それぞれの腕が噛み合い、ひとつの小さな小瓶の設計図が出来上がっていく。
「よし。販売価格は、一瓶につき銀貨二十枚だ」
リョウが平然と言い放った瞬間、カウンターに静寂が落ちた。フェルが目を見張り、カーナが煙管を取り落としそうになる。
「ぎ、銀貨二十枚……!? 銅貨四百枚ですよ、リョウさん!? スライム・ステップが五十足買えちゃいます……!」
「おい、リョウ、いくらなんでも吹っ掛けすぎだろ!? 材料費とあたしの加工費を合わせても、原価は銀貨三枚程度だぞ!?」
「それでいいんだ」
リョウは不敵に笑い、羊皮紙の余白に銀貨二十枚の数字を大きく書いた。
「相手は社交界の貴族だ。銅貨数十枚の薬じゃ、『平民と同じ安物を顔に塗れるか』と見向きもしない。だが、銀貨二十枚の最高級品となれば話は別だ。安売りしないこと自体が、最高級のブランド価値を生む。『持っていること自体がステータス』にするんだ。初回製造は限定三十個。選ばれた人間しか買えない招待制にする」
原価三枚で売値二十枚。粗利は八割を超える。前世の高級ブランドがやっていた手口そのものだった。
「理屈は分かった。だがリョウ、まずはその効き目を確かめるのが先だろ」
カーナが腕を組み、ニヤリと笑った。
「あたしたちで試してみようじゃないか。フェル、さっさと調合しな!」
「はいっ! すぐ準備します!」
フェルが作業台へと駆け込み、セリアが羊皮紙に微細な術式を描き殴り、カーナが旋盤で装飾小瓶のキャップを仕上げる。数時間後。薄青いガラス瓶の中に、月光花とカモミールが香る、ほんのり乳白色を帯びた透明な美容液が完成した。
「できました……! 高保湿・肌質改善美容液、試作第一号です!」
フェルが両手で掲げた小瓶からは、貴族の香油とは一線を画す、朝露のような清々しい香りが漂っていた。
「よし、じゃあ効果の検証だ」
リョウが手を伸ばそうとすると、カーナが小瓶をサッと奪い取った。
「待った。男のお前が試しても、今朝のモチモチの二の舞だろ。あたしたちの肌で試さなきゃ意味がねえ。おいフェル、セリア、ルイーナ、奥の部屋へ行くよ!」
「えっ、奥で……?」
戸惑うルイーナの腕をカーナが引き、フェルが小瓶を大事そうに抱え、セリアが毛布を引きずりながら後に続く。
「リョウさん、ちょっと待っててくださいね!」
パタン、と居住区へと続く奥の扉が閉ざされ、内側からカチャリと鍵がかけられた。
取り残されたリョウは、カウンターの前でぽつんと立ち尽くした。直後、扉の向こうから賑やかな声が漏れ聞こえてきた。
「フェル、まずセリアの顔に塗ってやりなよ」
「あ、はい! セリアちゃん、じっとしててくださいね。頬のところに少しだけ乗せますよ」
「……ん……冷たい。吸い込まれて消えた。……つっぱらない」
「わぁ、セリアちゃんのほっぺ、すっと馴染んでサラサラなのに、指が吸い付くようにしっとりしています……!」
「おいおい、次はあたしの番だ! この鍛冶焼けした手の甲に効くのかい? ……うわ、なんだこれ!? 炉の熱で突っ張ってた手の甲が、突っ張らなくなって指が曲げやすいぞ! 皮膚が柔らかく潤ってやがる!」
「カーナ、騒ぎすぎだ……。フェル、すまないが、私の背中も頼めるか? 昨日の巡回で、鎖帷子が擦れて赤くなってヒリヒリしていてな……」
「はい、ルイーナさん! ……あ、ここですね。少しひんやりしますよ」
「……っ……ん……。熱がすっと引いていくな。鎖帷子で擦れてヒリヒリしていた赤みが、冷たい清水に浸されたように落ち着いていく……」
「おいルイーナ、背中だけじゃもったいねえ! 顔も貸しな、あたしが塗ってやるよ!」
「ま、待てカーナ、そんなに勢いよく塗るな……! ふふっ、くすぐったい!」
キャッキャと弾む笑い声と、布の擦れる音。肌を寄せ合い、互いの素肌を触れ合わせ、美容の驚きを分かち合う四人。仕事上の契約や立場の違いを超えて、ただの「年頃の女の子たち」として一気に距離を縮めている気配が、扉越しにありありと伝わってきた。
リョウはカウンターに肘をつき、苦笑いを浮かべた。
(……完全な結界だな。男の俺が足を踏み入れたら、ルイーナに斬られてカーナに殴られる)
だが、扉の隙間から漏れてくる笑い声を耳にしながら、リョウは帳簿の余白に小さく息を吐いた。路地裏の薄暗い工房で、売れ残りのインソールを数えていた頃には想像もつかなかった騒がしさだ。手元の羊皮紙には、すでに三十個分の容器代と材料費が、正確な数字で並んでいた。
ガチャリ、と鍵の開く音がして、扉が開いた。
「リョウさん、お待たせしました!」
小走りで戻ってきた四人を見て、リョウは目を留めた。もちろん、長年の鍛冶仕事のタコや、日焼けが数分で消え失せるわけではない。だが、油気でテカるのとは違う、たっぷりと水分を含んでキメがふっくらと整った素肌の透明感が、四人の表情をパッと明るく見せていた。
「どうですか、リョウさん? 重い油を塗った時みたいな嫌なベタつきが全然なくて、肌がすっごく軽いです!」
フェルが両手で頬を押さえ、嬉しそうに報告してくる。
その横で、カーナが手のひらを何度も握ったり開いたりしながら、少し落ち着かなさそうに視線を泳がせていた。
いつもは炉の熱でカサついていた頬や首筋が、驚くほど透明感を帯びて柔らかそうに潤っている。リョウの視線に気づいた瞬間、カーナの耳がパッと赤くなった。
「な、なんだよ。指の曲げ伸ばしがめちゃくちゃ楽だぞ。……皮膚の突っ張りが消えるだけで、こんなに違うもんなんだな」
「カーナ、すごく綺麗になってるぞ」
「ば、バカ言え! あたしは道具の使い勝手を言ってんだよ!」
ルイーナも引き締まった口元を綻ばせる。
「鎖帷子の擦れの熱もすっかり引いた。これなら、夜毎の白粉で肌を痛めている貴族の女たちにとっても、何よりの救いになるはずだ。我々が保証する」
中身も器も揃った。効果も目の前で確認した。あとは、この小さな小瓶を、誇り高き王都の社交界へどうやって持ち込むかだ。
リョウは三十個目の小瓶の真鍮キャップをきゅっと締めると、布張りの専用木箱の蓋を静かに下ろした。




